6 森から出るまでが遭難です
眠っている魔物の姿は、すぐに木々に隠れて見えなくなった。
それからしばらく、誰も口を開かなかった。
フェンは前を歩きながら、時々こちらを振り返っている。目が合うと前を向くけれど、しばらくするとまた振り返る。
三度目で、聞いてみることにした。
「……何?」
「いえ。少し、気になることがありまして」
「……さっきの魔法?」
「ええ。ですが、詳しい話は街に着いてからにします。今は、周りに集中したいので」
フェンはそう言って、前へ向き直った。
正直、助かった。歩きながら長い話をするほど、元気が残っていないのだ。
足元は、昨日の雨でまだ柔らかい。靴の裏に泥がついて、一歩ごとに足が重くなる。
朝から歩き通しで、昨夜はほとんど眠れていない。パンを食べて持ち直しはしたけれど、それで足りる疲れではなかった。
前を行く三人の足取りは、ずっと変わらないように見える。
……体力が違う。
「ハクさん、足元は大丈夫ですか?」
隣のアリメルが、歩く速さを落としてくれた。
「……大丈夫。ありがとう」
「もう少し進めば、歩きやすいところに出ますから」
それはありがたい。できれば、ぬかるんでいない地面がいい。
そう思った矢先に、フェンが足を止めた。
「……ローザ。この先に、魔物がいます。三匹……いえ、四匹ですね」
また魔物か。
「こっちへ来るか?」
「いいえ。別の方へ動いています」
「なら、やり過ごそう。全員、あの木の陰だ。ハクも離れるなよ」
「……分かった」
太い幹の陰へ身を寄せて、しばらく待つ。
やがて、遠くで枝の折れる音がした。続いて、地面を踏み鳴らす重い足音。
木々の向こうを、大きな影が横切っていく。
灰色の毛をした、犬に似た顔の魔物が二匹。その後ろに、背中の盛り上がった茶色い魔物が二匹続いている。
どちらも、この森で見たことがある。ただ、見かけた時はいつも別々だった。違う種類のものが一緒に走っているところは、見たことがない。
「……妙だな」
ローザが低く呟いた。
「種類の違う魔物が、群れのように同じ方へ動くことはまずない」
仲がいいようにも見えない。前の一匹が急に向きを変えると、後ろの一匹がぶつかりかけて、慌てて避けている。
そのうちの一匹が、足をもつれさせた。大きな身体が傾いて、木の幹に肩をぶつける。それでも止まらずに、よろめきながら走っていった。
「ねえ、なんかみんな、ふらふらしてない?」
フィルが、声を抑えて言った。
「そう見えますね。先ほどの一匹も、ずいぶん落ち着きがありませんでした」
「だよね。疲れてるなら、休めばいいのに」
それには、私も同意する。
「それと、向かっている方も気になります。今の四匹は、森の外へ向かっていました」
フェンの言葉に、ローザが眉を寄せた。
「村に出てきていたのも、ああいう連中かもしれないな。調べ直す時は、そこもよく見ておこう。だが、今はハクを連れて帰るのが先だ」
足音が遠ざかるのを待って、フェンが口を開いた。
「……もう、近くにはいません」
「よし。少し遠回りになるが、あいつらの通った跡は避けて行くぞ」
遠回り。
足のことを考えると、正直つらい。それでも、戦わずに済むなら、それが一番だろう。危ないものには近づかない。その考え方は、よく分かる。
それから、また歩いた。
足の重さは、もう泥のせいだけではない。一歩ごとに、身体の芯の方から重くなっていく。
ふと気づくと、さっきまで隣にいたはずのアリメルの背中が、少し先にあった。
……今、一瞬、目を閉じていた気がする。
歩きながら眠りかけるのは、さすがに初めてだ。
「ハクちゃん、大丈夫? 疲れてない?」
フィルが、いつの間にか隣に並んでいた。
「……疲れた」
「だよねぇ。ずっと歩きっぱなしだもんね。あとちょっとだから、一緒に頑張ろ!」
できれば、頑張らずに済む方がいい。……とは、さすがに言えない。
フィルはそれから、森を出るまでずっと私の隣を歩いてくれた。時々「足元、根っこあるよ」と声をかけてくれるので、そのたびに眠気が少し紛れた。
そのうち、木と木の間が広くなってきた。足元の落ち葉が減って、踏み固めた土の道に変わる。枝の隙間から、空がよく見えるようになった。
「もうすぐだな」
先頭のローザが言った。
やがて、前の木々が途切れた。
ローザに続いて、その間を抜ける。
途端に、目の前が大きく開けた。
思わず、足が止まる。
なだらかな草地が、ずっと先まで広がっていた。ところどころに低い木が立っていて、その向こうを細い道が横切っている。
そして、空が広い。
見上げても、枝が一本も邪魔をしない。
風が吹くと、草が一斉に傾いた。森の湿った匂いとは違う、乾いた草の匂いがする。
……出られた。
「ハク? どうした」
ローザが振り返った。
「……ううん。本当に、森の外なんだと思って」
「ああ。ここから先は、デビルフォレストの外だ」
ローザの口元が緩んだ。
「よく頑張ったな」
振り返ると、さっきまでいた森が、暗い木の壁のように続いていた。
あの奥に、沢と、落ち葉を敷いた寝床がある。
もう、あそこへ帰らなくていい。
「……ありがとう。連れてきてくれて」
アリメルが、柔らかく笑った。
「どういたしまして」
ほっとしたら、足から力が抜けそうになった。今ここに座ったら、たぶんもう立てない。
「ここからは街道を行く。このまま歩けば、見張りの兵がいるところに出るはずだ。魔物が森から出てくるようになってから、街道沿いに置いているんだ」
ローザが、草地の向こうを指さした。
「私たちが乗ってきた馬車も、そこに置かせてもらっている」
馬車。
それなら、自分で歩かなくていい。
……素晴らしい乗り物だと思う。
最後のひと頑張りで草地を抜けて、街道に出る。しばらく行くと、布を張った天幕と、それを囲む木の柵が見えてきた。槍を持った人が、何人か歩いている。
柵の横には、荷台に布の幌をかけた馬車が一台停まっていた。
「あれあれ! あれに乗ってきたの」
フィルが馬車を指さした。
「歩きよりずっと楽なんだよ。でも、フェンが乗った途端に寝ちゃうから、帰りはいつも話し相手がいなくて退屈なの」
「……乗ってすぐ寝られるなんて、うらやましい」
「ハクちゃん、私の味方してくれないの!?」
フィルが大げさに肩を落とした。
天幕の近くまで来ると、見張りの兵士らしい男の人がこちらに気づいた。
「ローザさん! お戻りでしたか」
「ああ。少し予定が変わってな」
兵士は私を見て、目を見開いた。
「その子は?」
「森の中で保護した。一人でいたらしい。詳しいことは、これから聞く」
「デビルフォレストの中に、ですか?」
「そうだ。ほかにも報告がある。アリメル、頼めるか」
「はい」
アリメルが前に出て、森で見たことを兵士に伝え始めた。兵士の顔が、だんだん険しくなっていく。
アリメルは、冒険者ギルドの人だと言っていた。こうして兵士と話しているところを見ると、ただ付き添いで来ていたわけではないらしい。
「ハクちゃん、先に乗ってよっか。ここは二人に任せておけば大丈夫だから」
フィルに手を引かれて、馬車へ向かう。
荷台の両側には、木の長椅子が向かい合わせに取りつけてあった。フィルに手を貸してもらって、後ろから乗り込む。長椅子に座ると、ごつごつした板の感触が伝わってきた。
……硬い。
「あ、硬いよね、それ。長く乗ってるとお尻痛くなるんだよ。ちょっと待ってて」
フィルが荷物の中から、畳んだ毛布を引っぱり出してくれた。板の上に敷くと、硬さがだいぶ和らぐ。
「……ありがとう。これなら、いい」
「でしょ」
向かいの長椅子では、先に乗っていたフェンが幌の柱に背中を預けて、もう寝息を立てていた。
……本当に、乗った途端に寝た。馬車は、まだ動き出してもいないのに。
しばらくして、ローザとアリメルが乗り込んできた。御者の声がして、馬車がゆっくり動き出す。
がたん、と荷台が揺れた。
思わず、長椅子の端を掴む。
思っていたより、ずっと揺れる。車輪が地面の凸凹を拾うたびに、お尻の下から振動が上がってくる。
それでも、自分の足で歩くよりはずっといい。
幌の後ろから外を見ると、天幕と兵士たちがだんだん遠ざかっていく。日はもう、だいぶ傾いていた。
「ハク。街まではまだかかる。疲れているなら、寝ておけ」
向かいに座ったローザが言った。
「……いいの?」
「ああ。ここまで来れば平気だ。私たちもついている」
森では、物音がするたびに目を覚ましていた。今は、起きていてくれる人がいる。
「……少し、寝る」
「ええ。ゆっくり休んでください」
アリメルが、もう一枚毛布を渡してくれた。膝に掛けると、柔らかい布の感触がする。
毛布を掛けて眠るのは、この世界に来て初めてだ。
幌の柱に背中を預けて、角が当たらないように頭の位置をずらす。ちょうどいいところが見つかった。
「ハクちゃん、着いたら起こしてあげるね!」
「……ありがとう」
目を閉じる。
揺れはまだ気になる。それでも、聞こえてくる音は、何が近づいてくるか分からない森の夜とはまるで違った。
車輪の回る音と、蹄が土を叩く音。ローザとアリメルが、小さな声で何か話している。
「ねえフェン、街に着いたら何食べる?」
フィルの小さな声がした。
返事はない。
「……やっぱり寝てる」
フィルの話し相手は、どうやら今日も見つからないらしい。
そう思ったのを最後に、私の意識もゆっくり遠のいていった。




