4 雨ニモマケ...ました
いつもお読みいただき、ありがとうございます。
このたび、地の文や描写の仕方など、文章表現に納得のいかない部分があったため、第1章第3話までを一度削除し、書き直すことにしました。
物語の序盤ということもあり、今のうちに納得のいく形へ修正しておきたいと考えた次第です。
なお、今回の修正は主に文章表現や描写の改善を目的としたものであり、物語の大筋や今後の展開に大きな変更はありません。
すでにお読みいただいた方には、度重なる修正でご迷惑をおかけしてしまい、大変申し訳ありません。
今後は同じような大幅な修正や削除を行わずに済むよう、投稿前の確認をより慎重に行っていきたいと思います。
第4話から改めて投稿を再開いたしますので、引き続きお付き合いいただけますと幸いです。
それから、また何日かが過ぎた。
沢で水を飲んで、食べられる実を探す。危なそうな獣に会えば、近づかれる前に眠ってもらう。実だけでお腹が足りない日は、眠った獣の周りに浮かぶ靄で補う。
最初の日と比べれば、ずいぶんましになった。少なくとも、今日をどう生き延びるかだけを考えなくてもよくなったのだ。
今日も、沢のそばに座って黄色い実を一粒口へ入れる。
酸っぱい。
何日食べても、酸っぱい。
もう一粒食べる。
「……飽きた」
食べられるだけありがたいとは思う。森へ来たばかりの頃なら、そんなことを言う余裕もなかった。
でも、毎日同じものばかりだと、さすがに別のものが欲しくなる。
温かいご飯。お肉。パンでもいい。できれば、甘いものも。
赤紫色の実の甘さが、今はちょっと懐かしい。あの木の実は、もう手の届かない高い枝にしか残っていない。
残りの実を食べきって、沢の水で手を洗う。
森での暮らし方は、少しずつ分かってきた。
ただ、暮らせることと、ここで暮らしたいと思えることは別だ。
それに最近は、この森が少しうるさい。
夜に聞こえる鳴き声は、前より明らかに増えた。昼間から茂みが揺れることも多い。
昨日は、沢の向こう岸を二匹の獣が続けて走り抜けていった。どちらもこちらには目もくれず、何かに追われているような走り方だった。
ここへ来て十日ほどの私には、これがこの森のいつものことなのか分からない。
ただ。
「……寝づらい」
それが一番困る。
昨夜も何度か起こされた。眠るのは得意な方でも、すぐ近くで枝を踏み折る音がすれば、さすがに目が覚める。そのたびに周りの気配を確かめて、何も来ないと分かってから目を閉じ直す。
面倒だ。とても。
昼間は昼間で、獣に出くわすことが増えた。こっちから探しているわけではないのに、向こうから出てくるのだ。
そろそろ寝床へ戻ろうと立ち上がった時、近くの茂みが大きく揺れた。
「…………」
考えていたそばから、だ。
茂みを押し分けて、大きな獣が出てくる。
太い身体に、四本の脚。頭からは、二本の角が前へ突き出している。
最初の日に私を追い回した獣とは違う。ただ、近づきたくない見た目なのは同じだ。
向こうもこちらに気づいて、低く唸りながら前脚で地面を掻いた。
逃げるより、眠ってもらう方が早い。
そう決めるのに、もう迷いはなかった。
獣へ意識を向けると、身体の奥でいつもの感覚が応える。
「……夢誘」
獣の動きが止まった。頭が少しずつ下がって、前脚がふらつく。やがて重たい身体をその場に伏せると、大きく息を吐いて目を閉じた。
周りに、淡い靄が浮かび始める。
実を食べたばかりとはいえ、酸っぱい実を少し食べただけだ。お腹には、まだ隙間がある。
「……少しだけ」
靄へ意識を向けると、端が細く伸びてこちらへ寄ってくる。口元で息を吸うと、靄は形を崩して、身体の奥へ溶けていった。
相変わらず、味はない。それでも、しばらくするとお腹の空き方が和らいだ。
それ以上は取らずに、獣を大きく回り込んで寝床へ戻る。
見上げると、木々の隙間の空は、朝からずっと灰色のままだ。
昼を過ぎても晴れる気配はなく、夕方になる前に、森の中が急に暗くなった。
「……降りそう」
そう思ってから、それほど待たなかった。
頭の上の葉が、ぱらっと鳴る。続けて、二つ、三つ。すぐに数えられなくなった。
木の根の間に座って、様子を見る。
これだけ枝が重なっていれば、多少の雨は上で受け止めてくれるはずだ。
しばらくは、その通りだった。
けれど雨脚は弱まるどころか、だんだん強くなっていく。やがて受け止めきれなくなった雨が、枝の先から大粒になって落ちてくるようになった。
肩に落ちる。髪にも落ちる。膝を抱えて小さくなっていると、今度は首筋へ冷たいのが入った。
「……冷たい」
身体をずらす。そこにも落ちてくる。
さらに奥へ寄ると、今度は角が木の根に当たった。こつ、と硬い音がする。
「…………」
少し戻る。また落ちてくる。
「……狭い」
今さらだ。この寝床は、最初から狭い。ただ、乾いている時なら横になれたし、眠ってしまえばそれほど気にならなかった。
今日は違う。
雨水が土に染みて、敷いた葉の下まで湿ってきている。手をつくと、ひやりと冷たい。雨の音も大きくて、獣が近づいてきても、いつもより気づきにくそうだ。
眠れない。
というより。
「……ここで、寝たくない」
口に出してみると、自分でも妙に納得した。
思えば、森に来てからずっとこうだ。
最初は、水を探すので精一杯だった。次は食べ物。その次は、獣から逃げる方法と、寝る場所。一つ何とかなるたびに、次の不満が出てきた。
今は、一応生きていける。だからこそ、別のことが気になるのだろう。
屋根が欲しい。濡れない寝床が欲しい。もっと言えば、布団がいい。
温かいものも食べたいし、服だって、今着ているワンピース一枚しかない。この世界のことも、まだほとんど知らない。
人のいる場所へ行けば、そのどれかは何とかなるかもしれない。
神様は、私の新しい身体を「人として暮らせる身体」だと言っていた。人として暮らすなら、この世界のどこかに、人もいるはずだ。
問題は。
「……どこ」
それが分からない。
森の端がどっちなのかも知らない。高いところから見渡そうにも、周りは木ばかりだ。
前に一度、沢から離れて迷いかけた時は、水音を頼りにやっと戻ってこられた。適当に歩いて、もっと森の奥へ入ってしまったら意味がない。
だから今まで、そのうち、と先延ばしにしてきた。
ここには沢がある。食べられる実もある。寝床もある。全部置いて、行き先も分からないまま歩くのは、やっぱり少し怖い。
濡れた葉の上に、手を置いてみる。
冷たい。
「…………」
それでも、このままずっとここにいる方が嫌だった。
今すぐ雨の中へ出ていく必要はない。明るくなってからでいい。
それに、沢がある。沢がどこかへ続いているなら、それに沿って歩けばいい。帰りたくなったら、流れを逆に辿ればいい。森の中を当てもなく進むよりは、たぶんましだ。
正しいかどうかは分からない。でも、他に手がかりもない。
「……明日、行こう」
決めた。
決めたところで、雨は止まなかった。当たり前だけれど。
その夜は、寝返りを打つたびに、湿った葉が肌に触れた。
右を向く。冷たい。
左を向く。こっちも冷たい。
上を向けば、頬に水滴が落ちてくる。
目を閉じて、数秒。今度は額に落ちた。
「……もうやだ」
誰に言うでもなく呟いて、少しでも濡れにくいところを探して身体を丸める。
人のいるところを見つけたら、まず、寝る場所を探そう。
朝になると、雨は止んでいた。空はまだ曇っている。
寝床の葉は、すっかり水を吸って潰れていた。身体を起こすと、髪の先から水が一滴落ちる。
「…………」
顔を洗う必要は、なさそうだ。もう十分に濡れている。
沢で水を飲む。朝ご飯は、途中の黄色い実の木で食べればいい。
最後に、寝床の前に立つ。
何日も、ここで眠った。苔の岩と二股の木の間を抜けて、何度も沢まで通った。今では目印を確かめなくても行けるくらいには、通い慣れた場所だ。
居心地がいいとは言えない。それでも、知らない森の中で、戻る場所といえばここしかなかった。
少しだけ迷う。
行った先に何もなかったら。
その時は、戻ってくればいい。帰り道は、沢が教えてくれる。
たぶん。
「……まあ、何とかなる」
何ともならなかったら、その時に考えよう。
沢のそばに立って、流れを見る。
上流へ行くか、下流へ行くか。
少し考えて、下流にした。水は低い方へ流れていく。人が水を使って暮らすなら、上へ登るより、下った先の方が見つかりそうな気がする。
それに、下流は途中まで知っている道でもある。
大きく曲がった木。流れから半分だけ顔を出した白っぽい岩。沢をまたぐように倒れた木。その先の、黄色い実の低い木。
白っぽい岩は、雨で増えた水にほとんど沈んでいた。
黄色い実の木で朝ご飯を済ませてから、手で持てるだけ摘んでいく。袋も籠もないので、両手に収まる分しか持てない。
「……少ない」
仕方ない。途中で見つければいい。
黄色い実の木から先は、知らない景色だった。
折れた枝をまたいだり、大きな岩を回り込んだりしながら、沢沿いを進む。昨日の雨で地面が柔らかく、何度も靴が泥に沈んだ。
足を抜く。また沈む。
「……歩きづらい」
人を見つける前に、靴が駄目になりそうだ。
途中で何度か、獣の姿も見かけた。遠くを横切っていくもの。茂みの向こうから、じっとこちらを見ているもの。どれも落ち着きがないように見えるのは、気のせいだろうか。
一匹は、私と目が合うなり、唸りもせずに反対の方へ走り去っていった。
「……忙しそう」
何がそんなに忙しいのかは知らない。知らないので、そのまま進んだ。
歩いては休み、また歩く。
手に持っていた実は、休むたびに一つずつ減って、とうとう最後の一つになった。
空は相変わらず曇っていて、日の高さはよく分からない。ただ、お腹の空き具合からすると、昼はもう過ぎていそうだ。
景色は、どこまで行っても木と沢だった。
「……本当に、どこかに着くのかな」
最後の実をかじりながら、沢の縁を歩く。
泥の上には、獣の足跡がいくつも残っていた。ここまでの道でも、何度も見てきたものだ。
その中の一つを踏み越えかけて、足が止まった。
爪の跡がない。
細長くて、先が丸い。獣の足跡とは、形が違う。
しゃがんで見る。一つ。その少し先にもう一つ。さらに先にも、同じ形が続いている。
試しに、その横へ自分の足を並べてみた。
形は、よく似ている。ただ、私の靴よりずっと大きい。
「…………靴?」
見間違いかと思って、もう一度見比べる。
何度見ても、靴の跡にしか見えなかった。
胸の奥が、少し軽くなった。
二本足で靴を履く獣がいるのでなければ、誰かがここを歩いたことになる。……さすがに、そんな獣はいないと思いたい。
それに、昨日はあれだけ雨が降った。雨の前についた跡なら、とっくに崩れているはずだ。くっきり残っているということは、たぶん、今日になってからついたものだろう。
「……人?」
立ち上がって、跡を目で追う。
跡は、沢から離れて森の中へ続いていた。
沢沿いに進むつもりだった。でも、人の跡らしいものを見つけて、無視する理由はない。
前に迷いかけた時のことが、少しだけ頭をよぎる。水音が聞こえるところまでなら、と決めて、跡を追った。
進むうちに、一人分ではないことにも気づいた。同じような跡が、いくつも重なっている。大きさも、歩幅も少しずつ違う。
何人かいる。
そう分かった途端、足が勝手に速くなった。
森に来てから、獣ならいくらでも見た。でも、人は一人も見ていない。まともに話した相手も、神様が最後だ。
自分では、それほど気にしていないつもりだった。一人でいるのは嫌いではないし、誰かとずっと話していないと落ち着かない性格でもない。
それなのに、人がいるかもしれないと思っただけで、早く確かめたくなっている。
「…………」
少しだけ、歩く速さを落とした。
知らない相手に、何も考えずに近づくのは違う。ここは、前の世界ではない。会った人がみんな親切だとは限らないのだ。
獣なら、見た目である程度は警戒できる。人の方が、たぶん分かりにくい。
それでも、話くらいはしたい。この森を出る方法を知っているなら、聞きたかった。
跡を追っていると、前の方から何か聞こえた。
最初は、枝の擦れる音だと思った。足を止めて耳を澄ませると、今度ははっきり聞こえる。
「――こっちは?」
声だった。
獣の鳴き声ではない。人の声だ。
続けて、別の声もする。遠くて、何を話しているのかまでは聞き取れない。
それでも、さっきの一言は分かった。知らない世界なのに、ちゃんと分かる言葉だ。
言葉が通じるかどうかなんて、神様に聞きもしなかった。今さらになって、そっと胸を撫で下ろす。
本当に、人がいた。
嬉しい。たぶん、かなり。
ただ、そのまま声の方へ飛び出す気にはならなかった。近くの太い木へ寄って、幹の陰から様子を窺う。
足音が近づいてくる。枯れ葉を踏む音が、いくつも重なっていた。
やがて、木々の間に四人の人影が見えてきた。
全員、女の人だ。
先頭の人は、大きな剣を背負っている。その近くに、身軽そうな格好をした人。少し後ろを、武器らしいものを持っていない二人が歩いていた。
散歩をしているようには見えない。四人とも周りを確かめながら、慎重に進んでいる。
知らない人たち。
でも、人だった。
「…………」
声をかけるべきか、もう少し様子を見るべきか。
そう考えていると、後ろの二人のうち、丈の長い上着を着た方が足を止めた。
迷う様子もなく、こちらへ顔を向ける。
「……人がいます」
ほかの三人も止まった。
「どこだ?」
大きな剣の人が聞く。
「……あちらです」
上着の人の指が、まっすぐこちらを差した。
見つかった。
幹の陰から、顔を半分出していただけなのに。どうして気づかれたのかは分からない。四人分の視線が、一斉にこちらへ向いた。
これ以上隠れていても、仕方がない。
木の陰から、ゆっくり一歩出る。
四人の顔が見えた。身軽そうな人と、上着の人は、同じ顔をしている。双子だろうか。
先頭の人が目を見開いた。身軽そうな人も、驚いたように動きを止めている。
警戒した方がいい。それは分かっている。
それでも、聞きたいことは山ほどあった。ここはどこなのか。この森の外には何があるのか。屋根のある場所で眠るには、どうすればいいのか。
でも、最初に言うことは、たぶん決まっている。
「……こんにちは」
森に来た最初の日、私を追い回した獣にも同じことを言った。
あの時は、唸り声しか返ってこなかった。
今度は、どうだろう。




