3 夢見心地ってこうだっけ
目が覚めると、木々の隙間から朝の光が差し込んでいた。
身体を起こして、固まった背中をゆっくり伸ばす。
やっぱり硬い。
昨日、石を拾い出して葉を足したおかげで、最初の夜よりはいくらかましだ。それでも、地面が布団になってくれたわけではない。
頭の下に葉を積んだ寝方にも、少し慣れてきた。夜中に角の先が地面に当たって目を覚ます回数も、前より減った気がする。
「……ちょっと、進歩」
喜んでいい進歩なのかは、よく分からないけれど。
寝床から這い出して、沢へ向かう。
苔の生えた大きな岩と、途中で幹が二つに分かれた木。その間を抜けてしばらく歩くと、水の音が聞こえてくる。昨日何度か行き来したおかげで、今朝は一度も立ち止まらずに済んだ。
水を飲み、顔と手を洗って、髪に絡んだ葉を指で取る。口をすすいでいるうちに、寝起きでぼんやりしていた頭もだんだんはっきりしてきた。
ついでに水面を覗き込む。
流れで揺れているせいで細かいところまでは見えないけれど、白い髪があちこち跳ねているのは分かる。櫛もないし、服は三日続けて同じワンピースだ。
「……お風呂、入りたい」
昨日も同じことを言った気がする。言ったところでお湯が湧いてくるわけでもないので、目立つ汚れだけ落としてから、沢沿いを果物の木まで歩いた。
果物の木の前で、枝を見上げる。
「…………」
少ない。
一昨日は、手を伸ばせば届くところにいくつも実がついていた。今は、低い枝に残っているものを探す方が難しい。
全部を私が食べたわけではない、と思う。地面には落ちて傷んだ実が転がっているし、かじられた跡があるものも混ざっている。
残っていたものを二つもいで、一つをその場で食べる。
酸味のあとの甘さには、もうすっかり慣れた。おいしい。
ただ、このまま毎日これに頼っていたら、そのうち一つも取れなくなるだろう。
「……ほかも、探さないと」
昨日歩き回った時に、見たことのない木の実はいくつか見かけた。でも、食べられるかどうかが分からない。見た目がおいしそうだから大丈夫、と決めてしまうのはさすがに怖い。
同じ赤紫色の実がなる木が、ほかにもあるかもしれない。それなら、今まで行っていない場所へ足を延ばすしかない。
とはいえ、適当に森の奥へ入って戻れなくなるのは困る。
どうしようかと辺りを見回して、足元を流れる沢に目が留まった。
水から離れなければ、帰りは流れを辿ればいい。昨日は、下流は知らない場所だからと面倒がったけれど、目的があるなら話は別だ。
「……沢沿いなら、まあ」
遠くまで行くつもりはない。何も見つからなければ、引き返せばいいだけだ。
もう一つの実を手に持ったまま、いつもの水場より先へ歩き始めた。
沢沿いは、木々の間を抜けるよりずっと歩きやすい。大きな石や張り出した根を避ける必要はあるけれど、水が見えているだけで気持ちが落ち着く。
ときどき振り返って、帰り道の目印を覚えていく。
大きく曲がった木。流れの中から半分だけ顔を出している白っぽい岩。その先で、沢をまたぐように倒れている木。
しばらく進むと、流れが広くなった。浅い水の中を、細長い影がすいすいと動いている。
「……魚」
しゃがみこんで覗き込むと、影はあっという間に岩の陰へ隠れてしまった。
捕まえられる気がしない。そもそも捕まえたところで火がないし、生で食べる勇気もない。
魚が隠れた岩をしばらく眺めてから、立ち上がった。
その先で、指先ほどの黄色い実をたくさんつけた低い木を見つけた。
丸くて、つやつやしている。いかにも食べられそうな顔だ。
「…………」
でも、赤紫色の実は、見た目だけで選んだわけではない。何かがかじった跡があったし、匂いも確かめたし、一口ずつ様子を見た。こっちには、そのどれもまだない。
「……今日は、やめとこ」
場所だけ覚えておく。赤紫色の実が本当になくなって、どうしても困ったら、その時に考えればいい。
その後もしばらく歩いたけれど、道らしいものは見つからなかった。木を切った跡も、人の手が入ったような場所もない。
そろそろ戻ろう。
そう思い始めた時、水音に混じって、ざりっ、と土を掻くような音が聞こえた。
足を止めて、近くの木の陰に身を寄せる。
音は、沢から離れた茂みの向こうからだ。枝の隙間から覗くと、茶色い毛に覆われた大きな獣が、倒れかけた木の根元を前脚で掘り返していた。
背中は丸く盛り上がっていて、爪は私の指より太そうだ。
向こうは掘るのに夢中で、こちらには気づいていない。
このまま引き返せば済むかもしれない。ただ、帰り道は沢沿いの開けたところを通ることになる。あの獣がいつ顔を上げるか分からないし、途中で気づかれて追いかけられるのは、もうごめんだ。
「……寝ててもらお」
木の陰に身を寄せたまま、獣へ意識を向ける。昨日は思い出すのに手間取った身体の奥の感覚が、今日は呼びかけるとすぐに応えた。
「……夢誘」
見えない手が伸びていって、獣に触れる。
獣は掘るのをやめて顔を上げ、鼻先をひくつかせてから、大きく欠伸をした。前脚が折れ、掘りかけの穴の横へ重たそうに身体を横たえる。
しばらく待ってみても、起き上がる気配はない。
これで、帰り道の心配はなくなった。
木の陰から出て、獣から距離を取ったまま来た方へ戻ろうとした時。
ぴくっ、と獣の前脚が動いた。
思わず足が止まる。
目は閉じたままだ。背中もゆっくり上下している。起きたわけではないらしい。
ただ、耳が小さく揺れて、鼻先も何度かひくひく動いている。やがて今度は、前脚が地面を蹴るように、ぱたぱたと空を掻いた。
寝ているのに、妙に忙しい。
前の世界で、犬が寝ながら足をばたばたさせている動画を見たことがある。走っている夢を見ているんだ、と誰かがコメントしていた。
「……夢でも見てるのかな」
だとしたら、何を見ているんだろう。
深く考えたわけではなかった。ただなんとなく気になって、眠っている獣の方へ意識を向けた。
その瞬間、景色が変わった。
低い。
地面が、やけに近い。湿った土と草の匂いが、いっぺんに鼻へ流れ込んでくる。木々が左右へ飛ぶように過ぎていって、視界が大きく揺れている。
走っている。
でも、私の走り方ではない。地面を蹴る感覚が四つある。身体が重くて、そのくせ前へ前へと勝手に進んでいく。
どこかから、いい匂いがする。そっちへ行きたい。落ち葉を踏み散らしながら、木々の間を駆け抜ける。
少し先に、水の光が見えた――。
そこで、ふっと途切れた。
「……っ」
目の前には、さっきと同じように横たわる獣がいた。
私は木の陰から出たところに立ったまま、一歩も動いていない。
「…………今の、何」
ほんの数秒だったと思う。それなのに、土の匂いも、四本の脚で地面を蹴った感覚も、妙にはっきり残っている。
自分の足を見下ろす。当然、二本だ。
眠っている獣を見る。
「……今の、この子の夢?」
確かめる方法はない。でも、他に説明がつかなかった。
気づくと、獣の身体の周りには、いつもの淡い靄が漂っていた。夢のことに気を取られて、今まで目に入っていなかったらしい。
眠らせると出てくる靄。
眠っている相手の、夢らしいもの。
どちらも、相手が眠っている時にしか現れない。
「……これも、夢と関係ある?」
同じものなのかどうかまでは分からない。ただ、まったくの無関係だと思う方が難しい。
そこまで考えたところで、お腹が小さく鳴った。
朝から食べたのは、実が二つだけだ。ずいぶん歩いたせいで、お腹はとっくに空っぽだ。この先、食べ物が十分に見つかるとも限らない。
「……少しだけ」
靄を手繰り寄せるつもりで意識すると、端が細く伸びてこちらへ寄ってくる。息を吸うと、それは口の中で形を崩して、身体の奥へ溶けていった。
相変わらず味はない。さっきの夢の続きが見えるわけでもない。それでも、しばらくするとお腹の空き方が和らいでくる。
「……やっぱり、便利」
それ以上は取らずに意識を外して、獣を大きく迂回しながら沢沿いを引き返した。
倒れた木、白っぽい岩、大きく曲がった木。覚えておいた目印は、帰り道でもちゃんと見つかった。
寝床に戻った頃には、足がすっかり重くなっていた。知らない場所を歩いて、獣に気を張って、おまけに変なものまで見たせいかもしれない。
ちょっと休むだけのつもりで、葉の上に横になる。
――気がつくと、木々の間から差す光がずいぶん傾いていた。
「……寝すぎた」
別に、今日のうちに片づけなければいけない予定があったわけではない。それなのに、昼寝で午後が消えると妙に損をした気分になるのは、前の世界と同じだ。
慌てて沢へ水を飲みに行き、暗くなる前に果物の木で残りの実を探す。見つかったのは、一つだけだった。
それから、何日かが過ぎた。
赤紫色の実は、低い枝からほとんど消えた。上の方にはまだ見えるけれど、手が届かない。
幹に手をかけてはみたものの、今の身体で登れる気はまったくしない。
「……無理」
背に腹は代えられないので、沢沿いの黄色い実を試すことにした。
匂いを嗅いで、端を少しだけかじって、しばらく待つ。舌は痺れないし、お腹も痛くならない。次の日にもう何粒か食べて、それでも平気だったので、食べていいものの仲間に入れた。
赤紫色の実よりずっと酸っぱくて、たくさん食べると口の中がきゅっとなる。それでも、何もないよりはずっといい。
ただ、実だけでお腹が満たされる日は多くなかった。
森に来る前は、食べ物を探すだけで一日の大半が終わるなんて考えたこともなかった。冷蔵庫を開ければ何か入っていたし、何もなければ買いに行けばよかったのだ。今は、そのどちらもない。
だから、足りない日は靄に頼った。
水場へ行く途中や、実を探しに出た帰り道で、獣に出くわすことは珍しくない。こちらに気づいて顔を上げられたら、追いかけられる前に眠ってもらう。そのついでに、周りに浮かんだ靄をほんの一口だけもらう。
靄だけでお腹いっぱいになるわけではない。でも、空腹を少しごまかすくらいなら、それで十分だ。
一度、夕方に寝床へ戻ると、すぐ近くの木の陰に獣が寝そべっていたこともあった。
こちらへ来る様子はなかったけれど、あれを横目に眠れるほど図太くはない。夜中にのそのそ寄ってこられるよりはと思って、先に眠らせておいた。
おかげでその夜は、いつもより目を閉じやすかった。
迷ったこともある。
実を探して沢から離れたところで、見覚えのある木を目印に戻ろうとした。けれど歩いているうちに、それがただ似ているだけの別の木だと気づいた。
引き返そうとしたら、今度はどっちから来たのかも分からない。右も左も、木、木、木。
「……まずいかも」
適当に歩き回るのはやめて、立ち止まって耳を澄ませた。しばらくして、遠くにかすかな水音が聞こえる。
その音の方へ慎重に進んで、見慣れた沢に出た時には、その場に座り込みそうになった。
「……遠く行くの、やっぱり嫌」
人のいる場所を探さないと、この生活はいつまでも終わらない。それは分かっている。
それでも、どっちへ行けばいいのかも分からないまま森の奥へ入って、今度こそ帰れなくなる方がもっと困る。結局その後も、沢の周りから大きく離れることはできなかった。
時々、眠らせた獣の夢を覗いてみることもあった。特に理由はない。何を見ているのか気になった時に、意識を向けてみるだけだ。
見えるのは、どれも短い切れ端だった。
何かの匂いを追いかけて走っている。水に鼻先を近づけている。暗い茂みの中で、じっと身体を丸めている。前後は繋がらないし、数秒もすればふっと消えてしまう。
それでも何度か繰り返すうちに、あれは眠っている相手が見ているものなのだろう、という考えには自信が持てるようになった。靄との関係も、たぶん何かある。
ただ、それ以上詳しく調べようとは思わない。分かったところで、今日のご飯が増えるわけではないのだ。
朝は沢で水を飲んで、顔と手足を洗う。実のある場所を回って、食べられるだけ食べる。夜露で湿った葉は脇へどけて、乾いた葉を敷き直す。足りなければ靄で補う。危ない獣がいたら、近づかれる前に眠らせる。
とはいえ、生活が楽になったかと聞かれると、それはちょっと違う。
火は相変わらず起こせないし、魚も捕まえられない。お風呂も着替えもない。食べ物は日によって全然足りないし、寝床は何日経っても硬いままだ。
何とか一日を過ごせるようになった、というだけ。
ある夜、いつものように葉の上へ横になり、角が当たらない位置まで頭をずらした。
目を閉じてしばらくすると、遠くで鳴き声が響いた。
聞き流していると、今度は別の方向からも声がする。間を置いて、また。
「…………」
最近、夜に聞こえる鳴き声が増えた気がする。昼間に獣と出くわすことも、前より多くなった。
とはいえ、私がこの森に来て、まだ数日しか経っていない。たまたま今だけ騒がしいのかもしれないし、この森はもともとこういうところなのかもしれない。比べられるほど、私はここのことを知らないのだ。
遠くで、何かが甲高く鳴いた。続けて、枝の折れる大きな音。
目を開けて、しばらく耳を澄ませる。
音はそれきりで、こっちへ近づいてくる気配もなかった。それなら、起きていても仕方がない。
身体を丸め直して、もう一度目を閉じる。
「……最近、ちょっとうるさい」
遠くの物音を聞き流しながら、私は眠気が戻ってくるのを待った。




