2 水場争奪戦、勝者はたぶん私
沢の水音が聞こえてきたのは、斜面を大きく回り込んで、さらにしばらく歩いてからだった。
途中で何度か、本当にこっちで合っているのか不安になった。来る時は獣から逃げるのに必死で、どこをどう走ったのかほとんど覚えていないのだ。
だから水の音が耳に届いた時には、思わず肩から力が抜けた。
「……着いた」
水辺にしゃがみこんで、両手で水をすくう。走って、落ちて、また歩いて、喉はすっかり渇いていた。二口、三口と続けて飲んでから、ようやく息をつく。
そのまま、しばらく水面を眺めた。
さっきのことが、まだ頭から離れない。
身体の奥で何かが動いて、教わってもいない言葉が口から出て、目の前の獣が眠った。自分の中にあった何かが私から離れて、相手へ届いたような、あの感覚。今でもなんとなく思い出せる。
魔法、なのかもしれない。
そう思ってはみたものの、水面を眺めていて答えが浮かんでくるわけでもない。映っているのは、相変わらず見慣れない白い髪の女の子だけだ。
代わりに、お腹が小さく鳴った。
さっきの靄のおかげで、空腹はいくらかましになっていた。とはいえ、今日口にしたのは果物半分と、あの靄をほんの一口。一日分の食事としては、さすがに心もとない。
果物の木は、この沢沿いだったはずだ。記憶を頼りに探すと、赤紫色の実をつけた低い木はすぐに見つかった。
昼にかじってから、だいぶ時間が経っている。お腹も痛くならないし、舌も痺れていない。知らないものを新しく試すより、これを食べる方がまだ安心だ。
一つもいでかじると、昼と同じ酸味と甘さが口に広がる。
「……おいしい」
今度は半分でやめずに、一つ丸ごと食べた。二つ目を食べ終えたところで、ようやくお腹が落ち着く。
ご飯も食べる、と神様には言った。果物二つをご飯と呼んでいいのかは分からない。でも、何も食べないよりはずっといいはずだ。
顔を上げると、木々の隙間から見える空の色が変わり始めていた。
「……寝る場所」
水と食べ物のことで頭がいっぱいで、すっかり忘れていた。
このまま人のいる場所を探しに行く、という考えも一応浮かんだ。でも、どっちへ行けばいいのかも分からないし、途中で暗くなったらそれこそどうしようもない。
明るいうちですら、あんな獣に追いかけられたのだ。暗い森を歩き回るのは、どう考えても危ない。
今日は、この辺りで夜を越すしかない。
水もあるし、果物の木もある。少なくとも、何もない場所で寝るよりはましだろう。
沢から離れすぎないように辺りを探していると、太い根が地面の上まで大きく張り出した木が目に留まった。
根と根の間が浅い窪みになっている。今の小さな身体なら、丸まって横になれそうだ。
「……ここかな」
小屋なんて作れないし、道具もない。できることといえば、地面に直接寝るよりほんの少しましにすることくらいだ。
窪みに転がっていた石や枝を拾って外へ放り出し、周りから乾いていそうな落ち葉をかき集めて敷いていく。ある程度たまったところで、試しにその上へ座ってみた。
「…………硬い」
仕方なく、もう少し葉を集めて厚くする。それでも、お尻の下には地面の硬さがそのまま伝わってくる。
「……布団って、すごかったんだ」
柔らかくて、温かくて、朝まで寝ても身体が痛くならない。前の世界では、そんなこと考えもしないで毎晩使っていた。
ともかく、一度横になってみる。
まずは仰向け。昼間、これなら大丈夫かもしれないと思った寝方だ。
……頭が浮いた。
後ろへ巻いた角の出っ張りが先に地面へついて、後頭部が葉っぱまで届かない。角だけで頭を支えているような格好で、まったく落ち着かない。
横を向くと、今度は角の先が地面に突き刺さるように当たる。反対を向いても同じだった。
「……やっぱり、邪魔」
横向きが駄目なのは予想通り。仰向けなら大丈夫、の方は外れたらしい。
枕があれば、と考えていたことを思い出す。枕はない。でも、葉っぱならある。
頭が来るあたりにだけ葉を多めに積んで、高さを出してみた。そこへ頭を乗せて、角が当たらない角度を探しながら何度も首の向きを変える。
横向きから少しだけ仰向けに寄せたところで、ようやく角も頭も、どうにか収まる場所が見つかった。
快適とは言えない。でも、今日はこれ以上どうしようもない。
「……これでいいや」
暗くなる前にもう一度沢で水を飲み、果物も一つ食べておく。寝床へ戻った頃には、森の中から急速に明るさが消え始めていた。
街灯もない。家の窓明かりもない。
木の幹の形さえ見分けにくくなってくると、代わりに、昼間は気にならなかった音がやけにはっきり聞こえるようになった。
遠くの鳴き声。葉の擦れる音。草の中を何かが通っていく、かさかさという気配。ときどき、どこかで枝の折れる音。
「…………」
何が鳴いているのか。どれくらい離れているのか。こっちへ近づいてきているのか。
見えないから、何も分からない。
寝ること自体は好きだ。暇があれば寝ていたいくらいには好きだ。でもそれは、安全な部屋の、柔らかい布団の上での話。昼間に会ったような獣がこの暗闇のどこかにいるかもしれないと思うと、目を閉じるのが怖い。
寝ている間に何か来ても、気づけないかもしれない。
かといって、朝まで起きていられる自信もない。走って、転がって、一日中知らない場所で気を張っていたせいで、身体はもう鉛みたいに重い。眠らなければ、明日はもっと動けなくなるだろう。
「……寝よ」
角の収まる位置へ頭を置いて、身体を丸める。
背中に伝わる地面の硬さを感じながら、布団がほしいな、と思った。
そのあたりで、意識が途切れた。
――遠くで、何かが鳴いた。
「……っ」
目を開けると、真っ暗だった。
心臓がどくどくと鳴っている。息を殺して耳を澄ませたけれど、鳴き声はもう聞こえない。近くで何かが動く気配もなかった。
しばらく、そのまま待つ。
何も来ない。
もう一度、目を閉じる。
その後も、葉がざわめくたび、近くの草が揺れるたびに目が覚めた。暗闇の中で耳を澄ませて、何も来ないのを確かめて、また目を閉じる。何回繰り返したのかは、途中から数えるのをやめた。
結局、何かに襲われることはないまま、木々の向こうがうっすらと明るくなっていった。
「……朝」
夜を越えられた。
それはよかった。本当によかったのだけれど。
身体を起こした瞬間、背中と腰が一斉に文句を言い始めた。
「……いたい」
昨日ぶつけたところもまだ痛む。それ以上に、硬い地面の上で丸まっていたせいで、身体のあちこちが固まっていた。首を回すと、ぱきりと小さな音がする。
そして何より。
「……寝た気がしない」
一晩中横になっていたはずなのに、何度も起きたせいで頭がぼんやりしている。寝るのは好きなのに、ここまで嬉しくない目覚めは、たぶん初めてだ。
今夜もここで寝るなら、寝床はもう少しどうにかしたい。
ただ、その前に喉が渇いた。口の中もなんだか気持ち悪い。
「……まず、水」
寝床から這い出して沢の方へ歩き出そうとしたところで、足が止まった。
……どっちだっけ。
昨日は、沢からそれほど離れていない場所を選んだつもりだった。でも、朝の森はどこを見ても同じような木ばかりで、夕方とは光の当たり方も違う。
記憶をたどって、昨日ここへ来る途中で目にしたものを思い出す。苔の生えた大きな岩と、途中で幹が二つに分かれた木。確か、その間を抜けてきたはずだ。
見覚えのある岩を探しながら歩いていくと、やがて聞き覚えのある水音が耳に届いた。
「……よかった」
水場を見失うのは、さすがに困る。これからは、戻るための目印くらい意識して覚えておいた方がよさそうだ。
沢に着いて、まずは水を飲む。それから顔を洗い、手足についた土を落とし、髪に絡まったままだった葉っぱや小枝を指で取っていく。最後に水を口に含んで、何度かすすいだ。
冷たい水のおかげで、ぼんやりしていた頭がようやくはっきりしてくる。
「……お風呂、入りたい」
沢の水で全身を洗うには冷たすぎるし、着替えもない。歯ブラシも、石鹸もない。前は洗面所へ行って蛇口をひねるだけで、お湯まで出てきたのに。
便利だったんだな、と改めて思う。昨日から、そればかり思っている気がする。
顔を洗ったあとは、果物の木へ寄っていくつか実を食べてから寝床へ戻った。
朝の光の中で見直すと、暗くなる前に慌てて作った寝床は、思っていた以上に雑だ。葉っぱは寝ている間にすっかり潰れているし、根の隙間には細かい石がいくつも残っている。
背中が痛かったのは、たぶんこれのせいもあるのだろう。
「……もう少し、増やそう」
今夜もここで寝ることになる可能性は高い。
面倒ではある。でも、今夜の自分が困る方がもっと面倒だ。
残っていた石を拾い出し、周りから乾いた葉を集めては寝床に重ねていく。そうしているうちに、足元に落ちていた細い枝が目に入った。
拾い上げて、なんとなく眺める。
「……温かいもの、食べたい」
果物は美味しい。でも、昨日の昼から果物しか口にしていない。この先ずっとこれだけ、というのは寂しい。
火があれば、何か変わるかもしれない。
木と木を擦り合わせれば火がつく、という話を聞いたことがある。詳しいやり方は知らない。でも、試すだけならタダだ。
乾いていそうな枝を二本選んで、ごしごしと擦り合わせてみる。
「…………」
何も起きない。
もっと力を入れて、もっと速く擦る。
やっぱり何も起きない。火どころか、煙すら出てこない。代わりに、腕だけがどんどん重くなっていく。
「……無理」
枝を放り出して、寝床に座り込む。
木を擦れば火がつく、というのは嘘ではないのだろう。ただ、私が擦ればつく、という意味ではなかったらしい。
今すぐ火がないと困るわけでもない。やり方も分からないまま腕だけ疲れさせるのは、やめておこう。
しばらく休んでから、今度は寝床の周りを歩いてみることにした。
人のいる場所へ行けるなら、行きたい。屋根があって、布団があって、温かいご飯があるところ。
ただ、どっちへ行けばいいのかは分からないし、遠くまで行って戻れなくなるのも怖い。だから今日は、寝床と沢から離れすぎない範囲だけだ。
少し進んでは引き返し、今度は別の方向へ歩いてみる。
どちらへ行っても、見えるのは木ばかりだった。道も、建物も、誰かが焚き火をした跡のようなものも見当たらない。
代わりに、根元がえぐれたような大木や、妙に平べったい岩など、目印になりそうなものをいくつか覚えた。
途中で見たことのない木の実も見つけたけれど、食べられるかどうか分からないので眺めるだけにしておく。赤紫色の実がある以上、わざわざ危ない橋を渡る必要はない。
「……人、いないな」
期待していなかったと言えば嘘になる。でも、そう簡単には見つからないらしい。
そうして歩き回っているうちに、日はずいぶん高いところまで昇っていた。喉もまた渇いている。
ちょうどいい。ここから沢まで迷わず戻れるか、試してみよう。
覚えた岩や木を順番に辿っていく。一度だけ、似たような木の前で立ち止まって、どっちだったか迷った。耳を澄ませて、かすかに聞こえた水音の方へ向きを直す。
やがて水音がはっきりしてきて、木々の向こうに見慣れ始めた沢が見えた。
そこで、足を止めた。
「…………」
先客がいた。
沢の浅いところに前脚を入れて、一匹の獣が水を飲んでいる。
昨日の獣とは違う。灰色がかった毛に覆われた四本足の獣で、身体は私よりずっと大きい。顔はどこか犬に似ているけれど、口元から覗く牙は、犬のものよりはるかに太かった。
私はそっと、近くの木の陰に身を寄せた。
幸い、向こうはまだこちらに気づいていない。水を飲み終われば、そのうちどこかへ行ってくれるかもしれない。
わざわざ近づく理由はないし、昨日みたいに追いかけ回されるのはもうごめんだ。
「……待とう」
喉は渇いているけれど、少しくらいなら我慢できる。
やがて、獣が顔を上げた。口元から水を滴らせながら辺りを見回して、のそのそと沢から上がっていく。
よし、と思ったのも一瞬だった。
獣は沢のすぐそばの木陰まで行くと、そこで腰を下ろした。前脚を投げ出して、顎をその上に乗せる。
「…………」
帰らない。
完全に、くつろぐ姿勢だ。
水もある。日陰もある。向こうからすれば、わざわざここを離れる理由はないのだろう。
気持ちは分かる。私だって、できれば動きたくない方だ。
「……困った」
沢はこの先にも続いているから、下流へ歩けば別の場所でも水は飲める。ただ、そっちは知らない場所だ。せっかく寝床からの道を覚え始めたのに、水を飲むたびに別の場所を探すのは面倒くさい。
もう少しだけ、待ってみよう。
そう思って待ってはみたものの、獣は一向に動かなかった。ときどき耳をぴくりと動かすくらいで、立ち上がる気配はまるでない。
木々の間から差す光の角度が、さっきと変わってきた気がする。
「……長い」
喉の渇きは、待てば待つほどはっきりしてくる。目の前に水があるのに飲めない、というのは思っていたより堪えるものだ。
別に、この沢が私のものというわけではない。今日は、向こうが先に来ていた。それでも、できればこのまま使いたい。
追い払う、というのは論外だ。あの牙に向かっていくほど、水に困っているわけではない。
じゃあ、どうするか。
木陰で寝そべる獣を眺めているうちに、昨日、あの獣を眠らせた時のことが頭をよぎった。
追い払わなくてもいい。しばらく眠っていてもらえばいい。その間に水を飲んで、離れれば済む。
「……それなら」
とはいえ、昨日のあれは、追い詰められて勝手に起きたことだ。自分から起こせるものなのかどうかは分からない。
ただ、試すなら今は悪くない。距離はあるし、向こうはこちらに気づいてもいない。うまくいかなければ、黙って下流へ行けばいいだけだ。
木の陰に身を寄せたまま、獣を見る。
昨日の感覚を思い出そうとする。身体の奥の、自分でも場所の分からないところで、何かが目を覚ましたような――。
眠ってほしい。
そう思った時、身体の奥で、何かがかすかに動いた。
「……これ、昨日の」
あの時よりずっと弱い。でも、同じものだと分かる。あの時は怖くて、それどころではなかった。今は、その動きをちゃんと感じ取れる。
逃がさないように、その感覚を追いかける。そのまま、木陰の獣へ意識を向けた。
身体の奥の何かが、ゆっくりと私から離れていく。
「……夢誘」
今度は、自分で言った。
見えない手を伸ばして、そっと相手に触れたような感覚。あの時と同じだ。
獣が、ふいに顔を上げた。
一瞬、気づかれたのかと思って身体が固まる。けれど、獣はこちらを見なかった。
代わりに、太い牙が丸見えになるくらい大きく口を開ける。欠伸だ。
それから、持ち上がった頭がゆっくりと前脚の上へ戻っていく。立っていた耳がぱたりと倒れて、それきり動かなくなった。
しばらく見ていても、灰色の背中がゆっくりと上下しているだけだ。
「……寝た」
木の幹に手をついて、息を吐く。いつの間にか、ずいぶん長く息を止めていたらしい。
昨日と同じ。
でも、昨日とは違う。
昨日は追い詰められて、何が起きたのかも分からないまま言葉が出た。今日は、危ない目にすら遭っていない。自分で思い出して、自分で狙って、自分で言った。そして、その通りになった。
「……やっぱり、私がやってる」
口にしてみると、昨日よりずっとしっくりきた。
一度なら、偶然かもしれないと思えた。でも二度続けば、偶然と呼ぶのは無理がある。
この世界には魔法がある、と神様は言っていた。
「……私、魔法使えるんだ」
向き不向きがある、とも言われた。どうやら私は、少なくとも向いていない方ではなかったらしい。
じわじわと、嬉しさが湧いてくる。知らない森に一人きりで、昨日から困ることばかりだった。その中で、自分にもできることが一つ見つかったのだ。
……ただ、引っかかるところもある。
私は魔法なんて習ったことがない。それなのに、昨日は勝手に口から言葉が出てきて、今日はそれをなぞっただけで使えてしまった。
魔法というのは、そんなに簡単に使えるものなんだろうか。
考えてはみたけれど、比べる相手がいない。この世界の魔法が普通はどういうものなのか、私は何ひとつ知らないのだ。
「……まあ、使えるならいいか」
何かあった時に、逃げる以外の方法がある。今の私にとっては、そっちの方がずっと大事だ。
眠っている獣の方を見ると、その身体の周りに、昨日と同じ淡い靄が漂い始めていた。
昨日食べた時には、お腹が楽になった。その後も、身体に変なことは起きていない。朝に果物を食べたとはいえ、歩き回ったせいで、お腹にはまた隙間ができていた。
「……少しだけ」
昨日ほどは迷わなかった。
靄へ意識を向けると、その端がふわりと揺れて、細い筋になってこちらへ伸びてくる。口元まで来たところで小さく息を吸うと、靄は形を崩しながら口の中へ入り、身体の奥へ溶けるように消えていった。
やっぱり味はない。それでも、何かを取り込んだ感覚だけははっきりと残って、しばらくするとお腹の空き方が和らいだ。
それ以上は取らずに、靄から意識を外す。果物の代わりにするには頼りないけれど、何もない時には役に立つかもしれない。
眠っている獣を大きく迂回して、ようやく水辺にしゃがみこむ。何度か振り返ってみたけれど、獣が起きる気配はない。
両手ですくった水を、口へ運ぶ。
「……やっと、飲めた」
目の前にあるのに、なかなか飲めなかったせいだろうか。朝に飲んだ時より、ずっと美味しく感じる。
喉を潤してから、立ち上がる。
木陰に目をやると、灰色の獣はまだ同じ格好のまま、背中をゆっくり上下させていた。
森のことは、まだほとんど分からない。火も起こせないし、寝床は硬いし、人のいる場所も見つかっていない。
それでも昨日よりは、ここで何とかやっていけそうな気がした。
……水を飲むたびにこれをやる羽目にならなければ、の話だけれど。




