1 転生早々大ピンチ
最初に分かったのは、背中が冷たいということだった。
柔らかくない。しっとりと湿っていて、ざらざらしている。布団というより、地面だ。
「……ん」
まぶたを持ち上げると、目の前が緑だった。
重なり合った葉の隙間から光がこぼれ、風が吹くたびにゆっくりと揺れている。葉の擦れる音と、湿った土と草の匂いが、遅れて届いた。
さっきまでいた白い空間とは、何もかもが違う。
しばらく横になったまま、揺れる木漏れ日を眺めた。
目が覚めた。
前の世界で最後に眠った夜、私は明日が来ると思っていて、そうはならなかった。今度はちゃんと来る、と思いながら眠って、本当にこうして目が開いている。
それだけで、ほっとした。
身体を起こして、周りを見る。
見渡す限り、森だ。
太い幹があちこちに立っていて、その間を背の低い草や茂みが埋めている。道のようなものはどこにもないし、建物も、人が歩いた跡も見当たらない。どちらを向いても、似たような木と似たような草ばかりだった。
「……森」
どこに出るかは神様にも決められない、と聞いていた。安全も約束できない、とも。
だから街の真ん中で目を覚ますとまでは思っていなかった。でも、せめて遠くに屋根の一つくらいは見えてほしかった。
私は前の世界で、キャンプすらまともにしたことがない。
それが、いきなり道もない森の中。
「……もうちょっと、どうにかならなかったのかな」
言ってから、神様の顔を思い出した。手が届くのはここまでだと、すまなそうにしていた。あの顔を思い出すと、強く文句を言う気にもなれない。
そもそも、言う相手がもういないし。
とりあえず立ち上がろうとして、地面についた自分の手に目が留まった。
……小さい。
気のせいかと思って、握ったり開いたりしてみる。指が短いというより、手全体が一回り小さい。立ち上がってみると、地面までの距離もなんだか近かった。
新しい身体になるとは聞いていたから、驚くほどのことではない。ないのだけれど、自分の手を見て「小さい」と思うのは、やっぱり変な気分だ。
着ているものも、前とは違う。パジャマではなく、白いワンピース。足には飾り気のない靴。
神様が言っていた「最低限の服と靴」は、これのことらしい。
裾をつまんで、軽く引っぱってみる。しっかりした生地で、すぐに破れそうな感じはしない。
ついでに、ポケットらしきところも探ってみる。何も入っていない。
「……本当に、服だけ」
その時、森の奥の方から、低い声が聞こえた。
鳥の声ではない。犬や猫とも違う。喉の奥から押し出すような、太くて短い鳴き声だ。
思わず音のした方を見る。木々の向こうは薄暗くて、何も見えない。やがて、もっと遠くで、太い枝がばきりと折れる音がした。
「……何か、いる」
気にならないと言えば嘘になる。でも、見に行った結果、大きくて危ない生き物でした、では笑えない。
せっかくもう一度生きられることになったのに、初日で終わるのは嫌だ。
音がした方角だけ頭の片隅に置いて、私はそちらから目を逸らした。
一度落ち着くと、今度は喉の渇きが気になり始めた。
目を覚ましてから、まだ何も口にしていない。我慢しようと思えば、まだできる程度の渇きだ。前の私なら、後でいいや、と放っておいたかもしれない。
――今度は、自分のことを後回しにするでないぞ。
最後にそう言われて、私は頷いた。ご飯も食べる、とまで言ったのだ。水くらいは先に探しておくべきだろう。
「……水、探そ」
問題は、どこにあるのかさっぱり見当がつかないことだった。
植物の生え方や地形から水場を見つけられる人もいるらしい。でも、私にそんな知識はない。地図もない。高いところから見渡そうにも、周りの木は高すぎて登れる気がしない。
結局、歩いて探すしかなさそうだ。
木の根や倒れた枝をまたぎながら、なるべく歩きやすそうなところを選んで進む。
森を歩いたことなんて、学校の行事で整備された遊歩道を通った時くらいだ。道のない森は、想像していたよりずっと歩きにくい。草に足を取られるし、茂みを避けているうちに、自分がどっちから来たのかも怪しくなってくる。
立ち止まって、辺りを見回す。
どちらを見ても、やっぱり木と草。
「……迷子」
まだ行き先も決まっていないのに、迷子と言っていいのかは微妙なところだ。
そのまましばらく歩いていると、風の音に混じって、別の音が聞こえた気がした。
さらさらと、何かが流れる音。
足を止めて、耳を澄ます。風がやんでも、その音だけは同じ方向から途切れずに続いていた。
聞き間違いだったら悲しいけれど、他に当てがあるわけでもない。行ってみよう。
進むにつれて、音は少しずつはっきりしていく。やがて木々の隙間に、日の光をちらちらと跳ね返すものが見えた。
「……あった」
足が勝手に速くなる。
そこにあったのは、川と呼ぶには細い、小さな沢だった。底の石が一つずつ数えられそうなくらい澄んだ水が、静かに流れている。
しゃがみこんで、指先を浸してみる。
「冷たい」
ひやりとした感触が、指から腕へ伝わった。気持ちいい。水を目の前にしたせいか、喉の渇きが急に強くなった気がする。
両手を伸ばしかけたところで、手が止まった。
川や沢の水は、綺麗に見えてもそのまま飲まない方がいい。どこかで聞いた話だ。目に見えない何かが入っているかもしれないから、煮沸してから飲むように、と。
煮沸するには火が要る。鍋も要る。
私はそのどちらも持っていない。
「…………」
流れていく水を見つめたまま、考える。
飲まない方が安全なのかもしれない。でも、この先いつ別の水が見つかるかは分からないし、見つかったところで、たぶん同じように悩む。喉が渇いたまま森をさまよう方が安全かと言われれば、それも違うだろう。
この水が安全かどうかは、私には判断できない。はっきりしているのは、今の私に他の選択肢がないということだけだ。
「……飲も」
両手で水をすくって、そっと口に含む。
冷たい水が、喉をゆっくり落ちていった。変な匂いも、変な味もしない。少なくとも、今すぐ吐き出したくなるようなものではなかった。
一口飲むと、身体がもっと欲しがった。二口、三口と続けて、ようやく喉が落ち着く。
「……生き返る」
一度死んでいる身で言うと、ちょっと意味が変わってしまう。
大きく息を吐いて、何気なく水面を覗き込む。
知らない女の子と目が合った。
「……誰」
水面の女の子も、同じように口を動かした。
それが自分だと理解するまで、たぶん三秒くらいかかった。
手が小さくなっていることには気づいていた。ただ、顔を見るのはこれが初めてだ。鏡に知らない人が映っていたら驚くだろうな、と白い空間で思ったけれど、本当にその通りになった。
前髪を一房つまんで、目の前に持ってくる。
白い。
根元から毛先まで、混じりけのない真っ白だ。光に透かすと、銀色に近く見える。
水面にさらに顔を近づけると、目の色も前とは違っていた。青のような、灰色のような、どちらとも言い切れない色。何色かと聞かれたら、答えに困りそうだ。
それから、顔立ち。前の私より、全体的に幼い。頬は丸いし、輪郭も小さい。手と同じで、身体ごと一回り縮んでいるのだろう。
やや下がった目元のせいか、眠そうな顔だな、と他人事のように思った。
……中身に合わせてくれたのかもしれない。
「……結構、変わった」
呟いてはみたものの、嫌な感じはあまりしない。前の顔に特別な思い入れがあったわけでもないし、これが今の私なら、そのうち見慣れるだろう。
そう思って顔を上げかけた時、水面の端に、何かが映っているのに気づいた。
頭の横。耳の少し上あたりから、何かが伸びている。
「……?」
髪をかき分けて、手を伸ばす。
指先に、硬いものが当たった。
左右に一本ずつ。頭から生えたそれは、後ろへ向かってくるりと緩やかに巻いている。つまんで軽く揺らしてみると、その感触がちゃんと頭の方にも伝わってきた。
飾りではない。私から生えている。
「……角」
形は、写真や動物園で見た羊の角に似ていた。
神様は、人として暮らせる身体になると言っていた。けれど、人間の頭に角は生えない。……たぶん。
この世界の人間をまだ一人も見ていないのだから、ここでは生えるのかもしれない。そこから先は、誰かに会ってみないと確かめようがなかった。
それより、一つ気になることがある。
私は首を横へ倒してみた。角の巻いたところが、肩のすぐ近くまで来る。この形だと、横向きに寝たら地面に突っかかりそうだ。
「……寝る時、邪魔そう」
仰向けなら大丈夫だろうか。枕があれば、角が当たらないように位置をずらして――と、そこまで考えて、周りを見回す。
木。草。沢。
枕どころか、屋根もない。
角の寝心地より、寝る場所の心配が先だった。
それに、もう一つ。
お腹が空いた。
水を飲んで落ち着いたせいか、それまで気にならなかった空腹が急に存在を主張し始めていた。
沢を覗いてみても、魚らしき影は見当たらない。仮にいたとしても素手で捕まえられる気はしないし、捕まえたところで焼く火もない。
「果物とか……」
森なら、何かしら実っていそうではある。
ただ、ここは知らない世界の、知らない森だ。前の世界の植物ですらろくに見分けられないのに、見た目だけで食べられるかどうか判断できるとは思えない。
水場を見失うのは怖いので、沢の音が聞こえる範囲で探してみることにした。
歩いてみると、食べられそうに見えるもの自体は意外とあった。
赤い小さな実。紫色の房。ぎざぎざの葉をした草に、傘がやけに大きなキノコ。
問題は、そのどれが本当に食べられるのか、一つも分からないことだ。
「キノコは、やめよう」
これだけはすぐに決まった。
毒キノコの話なら何度も聞いた。あっちのキノコすら見分けられなかった私が、こっちのキノコを勘で食べるのは無謀すぎる。知らない草も、同じ理由でやめておく。
そうやって候補を減らしていくと、残るものはあまりなかった。
何も食べないのが一番安全なのかもしれない。けれど、それではお腹は空いたままだ。ご飯も食べる、と言ったばかりなのに。
沢沿いをしばらく歩いたところで、低い木に、赤紫色の丸い実がいくつもなっているのを見つけた。
大きさは握りこぶしより一回り小さいくらいで、形は小ぶりのリンゴに近い。足元には熟して落ちたものが転がっていて、よく見ると、そのいくつかには何かがかじったような跡があった。
「……何かは、食べてるんだ」
だからといって、私が食べて平気とは限らない。それでも、さっきのキノコよりはずっと手を出しやすい。
枝から一つもぎ取って、鼻を近づける。変な匂いはしない。爪で皮に小さく傷をつけると、甘い香りがふわりと立った。
食べるなら、試してみるしかない。
「……一口だけ」
端の方を、ほんの少しかじる。
最初に弱い酸味がきて、そのあと、意外なくらいしっかりした甘さが広がった。
あ、美味しい。
とはいえ、美味しいことと安全なことは別だ。飲み込んだあとはそれ以上かじらずに、しばらく身体の様子を窺う。
舌は痺れていない。喉も痛くない。お腹が急に痛くなることもない。
しばらく待ってから、もう一口。
やっぱり美味しい。
いきなり全部食べてしまう勇気はないので、半分ほどかじったところでやめて、残りは手に持っておく。何ともなければ、あとで続きを食べればいい。
もう一つ取っておこうかと、枝へ手を伸ばした時だった。
すぐ近くの茂みが、大きく揺れた。
風ではない。何か重いものが、枝や葉を押し分けてこちらへ近づいてくる。目を覚ましてすぐに聞いた、あの低い鳴き声が頭をよぎった。
離れた方がいい。
そう思って、音を立てないよう一歩下がった時には、もう遅かった。
茂みの間から、大きな頭がぬっと現れる。
一瞬、犬かと思った。それにしては大きさが全然違う。
茂みから抜け出してきた身体はずんぐりと重たげで、どちらかといえば猪に近い。硬そうな毛に覆われた口元からは、太い牙が左右に突き出していた。
そして額からは、前へ向かってまっすぐに、太い角が一本。
角。
私にも生えている。
ただ、向こうの角は巻いていない。先が尖っていて、どう見ても何かを突き刺すための形だ。同じ角持ちでも、仲良くできる気は全然しない。
獣は鼻をひくつかせながら、じっとこちらを見ている。
私も、動けないまま見返した。
「……こんにちは」
自分でも何をしているんだろうとは思う。でも、いきなり背中を向けるよりはましな気がした。挨拶されて怒る生き物は、たぶんそう多くない。
獣は答えなかった。代わりに、喉の奥で低く唸った。
……この世界では、多いのかもしれない。
「……さようなら」
返事がもらえなかったので、こちらも会話を切り上げることにする。仲良くする気がないことだけは、動物に詳しくない私にもよく分かった。
こういう時は、背中を向けて走ってはいけない。そう聞いたことがある。
……何の動物の話だったかは、思い出せないけれど。熊だった気もするし、犬だった気もする。少なくとも、額に角の生えた猪の話ではなかったはずだ。
それでも、他に頼れる知識もない。とりあえず信じてみよう。
目を逸らさないまま、ゆっくり一歩下がる。
もう一歩。
獣の鼻息が、さっきより荒くなった。
このまま、お互い何も見なかったことにできないだろうか。
そう思った瞬間、獣が前脚で地面を強く掻いた。
「っ――」
考えるより先に、身体が背中を向けていた。
走ってはいけない、と決めたばかりなのに。でも向こうはもう突っ込んでくる気でいる。のんびり後ずさりしている場合ではない。
後ろで、地面を蹴る重い音がする。速い。見た目からは想像できないくらい速い。
木の根を飛び越えて、顔に当たりそうな枝を腕で払いながら、とにかく前へ走る。持っていた実は、いつの間にか手から消えていた。
新しい身体は小さいけれど、足は案外軽く動く。それでも、背後の足音はじりじりと近づいてくる。
安全は約束できない。
確かにそう聞いていた。聞いてはいたけれど、目を覚ましてから、まだ水を飲んで果物を半分かじっただけだ。
「……まだ初日なんだけど」
前の方に、太い木が何本も寄り集まって生えている場所が見えた。
幹と幹の間は狭い。私なら通り抜けられるかもしれないけれど、あの大きな身体なら引っかかるはずだ。
方向を変えて、そちらへ踏み出す。
その足の下に、地面がなかった。
「え」
草に隠れて見えなかっただけで、その先は急な斜面になっていたのだ。
身体が前へ傾く。止まろうとした時には、肩から地面にぶつかっていた。
そのまま勢いを殺せずに、斜面を転がり落ちていく。枝が腕を打って、何か硬いものに背中がぶつかって、空と地面が何度も入れ替わった。
最後に低い茂みへ突っ込んで、ようやく止まる。
「…………」
仰向けのまま、木々の隙間から空を見上げた。
「……最悪」
髪には葉っぱや細い枝が絡まっているし、白いワンピースも土まみれ。あちこちがじんじんと痛む。
のろのろと身体を起こして、そこで、あれ、と思った。
起き上がれる。
肩を回してみる。痛いけれど、ちゃんと回る。腕には擦り傷ができていて、背中もぶつけたところが鈍く痛む。けれど、それだけだ。足を曲げても伸ばしても、骨がどうにかなっている感じはない。
あれだけ転がって、途中で石にもぶつかったのに。
前の私だったら、今ごろ動けなくなっていてもおかしくない。この身体だからなのか、たまたま当たりどころがよかっただけなのか。
確かめる方法は、もう一度落ちてみることくらいしか思いつかない。
それは、やめておく。
上の方で、枝の折れる音がした。
顔を上げると、斜面の縁から、さっきの獣がこちらを見下ろしていた。
……そうだった。逃げている途中だった。
「……もう、来なくていいよ」
伝わるとは思っていなかったし、実際に伝わらなかった。
獣は斜面をまっすぐ下りるのではなく、横へ回り込むようにして、着実にこちらへ下りてくる。変なところで賢い。
私は慌てて立ち上がり、周りを見回した。
背中側には太い木。左右は茂みに塞がれている。逃げられないわけではない。ただ、さっきの速さを思い出すと、茂みをかき分けているうちに追いつかれるだろう。
武器はない。戦ったこともない。
この世界には魔法があるらしいけれど、向き不向きがあると聞いた。使い方どころか、自分に向いているのかどうかさえ知らない。
獣が斜面を下りきって、こちらへ向き直る。
一歩ずつ、距離が縮まる。
唸り声が近い。開いた口から覗く牙も、額の角も、近くで見るとさっきよりずっと大きかった。
思わず後ずさると、背中がすぐに木の幹へ当たった。
もう下がれない。
心臓の音が、耳の奥でうるさく鳴っている。
怖い。
せっかく、もう一度目が覚めたのに。明日がちゃんと来たのに。まだこの世界のことを、何も知らないのに。
獣が、頭を低く下げた。角の先が、まっすぐこちらを向く。
来る。
来ないで。
それ以上、近づかないで。
何でもいいから、止まって――。
そう強く思った瞬間、身体の奥で、何かが動いた。
胸のあたりか、もっと奥か。自分でも場所の分からないところで、何かがふっと目を覚ましたような感覚だった。
それが何なのか考えるより先に、口が動いていた。
「……夢誘」
自分の声だ。
でも、そう言おうと思った覚えはない。誰かに教わった呪文でもない。それなのに、最初からそう言うと決まっていたみたいに、するりと口から出ていた。
同時に、身体の奥で動いた何かが、私から離れていく。
手を伸ばしたわけでも、何かを投げたわけでもない。けれど、自分の一部が目の前の獣へ向かって、そのまま相手に触れたような、妙な感覚があった。
獣の動きが、止まった。
踏み出しかけていた前脚から、急に力が抜ける。見開かれていた目が、ゆっくりと細くなっていく。首が下がり、太い脚が一度、二度とふらついた。
「……え」
獣は大きく身体を揺らすと、前脚から崩れるようにして、その場に伏せた。
それきり、動かない。
私は木に背中を押しつけたまま、しばらく動けなかった。
今にも起き上がって、また突っ込んでくるかもしれない。そう思って、じっと獣を見つめる。
けれど、大きな身体は一定の間隔でゆっくりと上下しているだけだった。耳を澄ませば、規則正しい息の音まで聞こえてくる。
「……寝てる?」
さっきまで私を追い回して、今まさに飛びかかろうとしていたのに。疲れて休んだにしては、急すぎる。
スリープ。英語で、眠るとか眠りとか、そういう意味の言葉だ。
それを口にした直後に、目の前の相手が眠った。偶然で片づけるには、いくらなんでも出来すぎている。
「……今の、私が?」
何かをした、という手応えはある。けれど、何をどうしたのかは説明できない。
「……魔法?」
今のを私がやったのなら、一番近い言葉はそれだろう。
ただ、私は魔法の覚え方も使い方も知らない。なのに、教わってもいないやり方で、知らない何かを使った――のかもしれない。
たった一回では、何とも言えなかった。
それよりも今は、眠っている獣のすぐそばにいることの方が問題だ。
「……起きる前に、行こ」
木から背中を離して、そっと足を踏み出しかける。
その時、獣の周りに何かが漂っているのに気づいた。
最初は、転がり落ちた時に舞った土埃かと思った。でも、それにしては風に流されていない。眠っている獣の身体の上を、薄い煙のようなものがゆっくりとたゆたっている。
白とも灰色ともつかない、淡い靄だ。
「……何、これ」
また、正体の分からないものが増えた。
さっきまで私を追い回していた獣の周りに、急に現れたものだ。近づかない方がいい、と考えるのが普通だと思う。私もそう思う。
……思うのに、目が離せなかった。
怖い、という感じがしない。それどころか、靄を見ているうちに、別の感覚がじわじわと湧いてきた。
お腹が空いた。
「……なんで」
果物を半分しか食べていないのだから、空腹なのは確かだ。だからといって、煙みたいなものを見てお腹が空く理由にはならない。
ただ、一つだけ、妙にはっきりとした感覚があった。
これは、食べられる。
どう見ても食べ物ではない。果物でもないし、肉でもない。そもそも触れるものなのかどうかさえ怪しい。普通なら、口に入れようという発想すら出てこないはずだ。
頭はそう言っている。でも、身体の方は、それを知っているような気がした。
さっき、知らない果物を一つ食べるだけで、あれだけ慎重になった。匂いを嗅いで、一口かじって、身体の様子を見て。
それなのに、その果物よりずっと怪しい靄の方が、なぜか大丈夫だと思えてしまう。
自分の身体なのに、どこまで信用していいのか分からない。
「……少しだけ」
全部は嫌だ。でも、ほんの少しなら。
果物の時と同じだ、と自分に言い聞かせて、靄の方へ意識を向ける。
すると、靄の端がふわりと揺れた。細い糸を引くように、一筋だけがこちらへ伸びてくる。
「え」
避ける暇もない。
靄はそのまま私の口元まで漂ってきて、驚いて息を吸った拍子に、形を崩しながら口の中へ入ってきた。
味は、ない。
温かくも冷たくもないし、飲み込んだ感触すらほとんどない。ただ、何かを身体の中へ取り込んだということだけは、不思議なくらいはっきりと分かった。
おそるおそる、自分の身体の様子を窺う。
気持ち悪くはない。どこかが痛くなったりもしていない。
代わりに、一つだけ変化があった。
さっきまでの空腹が、ほんの少し、軽くなっている。
満腹にはほど遠いけれど。
「……食べられた」
食べた、と言えるのかどうか。味もなかったし、噛んでもいない。それでもお腹が楽になったのだから、身体にとっては食べ物だったのだろう。
角に、夢誘に、この靄。目を覚ましてから半日も経っていないはずなのに、気になることばかりが増えていく。
「……一気に来すぎ」
とはいえ、眠っている獣の隣で考え込んでいても仕方がない。今ここで目を覚まされたら、また最初から逃げ直しだ。それは嫌だった。
私は獣を起こさないよう、足音を忍ばせてその場を離れた。
沢は、斜面の上のさらに向こうのはずだ。まっすぐ登るのは無理そうだから、回り込んで戻るしかない。
水のそばなら、この先どうするかを考えるのにも都合がいい。果物の木も、あの近くだ。
しばらく歩いたところで、一度だけ振り返る。
木々の間で、獣はまだ大きな背中をゆっくりと上下させていた。
身体の奥には、さっき何かが動いた感覚が、まだうっすらと残っている気がする。もう一度同じことが起きれば、今度はもっと何か分かるのかもしれない。
……できれば、同じ状況そのものが、もう来ない方がいいのだけれど。
のんびり暮らしたい。面倒なことが少ないと嬉しい。
神様には、確かにそう言った。
「……のんびり、どこ」
見上げた木々の向こうで、日は少しだけ傾き始めていた。




