0 神様
目を開けると、そこは真っ白だった。
天井も壁も見当たらない。床があるのかどうかも怪しいのに、足の裏にはちゃんと何かを踏んでいる感触がある。いつの間にか、私はその白い中に立っていた。
着ているのは寝る時のパジャマで、足は裸足。昨日はいつも通りベッドに入って、布団を肩まで引き上げて眠ったはずだ。こんな場所へ来た覚えは、どこにもない。
辺りを見回しても、どこまでも白いだけ。
となれば、夢だろう。
夢から覚めたい時は、頬をつねるのが定番だ。
でも、痛いのは嫌だ。夢の中でまで痛い思いをしたら、損した気分になる。
痛くない方法はないだろうか。
少し考えて、思いついた。夢の中で、もう一回寝ればいい。夢の中の私が眠れば、この夢にも一区切りつくはずだ。区切りがつけば、たぶん目が覚める。
我ながら、悪くない考えだと思う。
というわけで、私は白い床に膝をついた。あとは横になって、目を閉じるだけ。
「これ、寝るでない」
頭が床に着く前に、後ろから声がした。
振り返ると、少し離れたところにおじいさんが立っていた。
さっき見回した時には、誰もいなかったはずだ。
長い白髪に、胸まで届く白い髭。ゆったりした白っぽい服。縁側でお茶を飲んでいたら似合いそうな、穏やかな顔をしている。
とはいえ、何もない場所に知らない人が急に現れたのだ。優しそうというだけで気を許すのは、さすがに違うだろう。
「ようやく目を覚ましたと思うたら、また眠ろうとするとはのう」
「……誰?」
「儂のことは後でよい。まず、お前さんの名前を聞かせてくれんか」
知らないおじいさんに、いきなり名前を聞かれた。
夢の中だと思ってはいるけれど、だからといって何でも答えていいのだろうか。少し迷ったけれど、おじいさんは神妙な顔で返事を待っている。
「……白森ハク」
「ふむ。ここへ来る前は、何をしておった?」
「寝てた。家のベッドで」
「受け答えは問題なさそうじゃな。言葉も通じるようじゃ」
おじいさんは安心したように頷いた。
何かを確かめたかったらしい。どうしてそれが必要なのかも気になるけれど、今の私にはもっと大事なことがある。
「……もう、寝ていい?」
「ならん。まだ何も話しておらんじゃろう」
「話なら、寝ながらでも聞けるよ」
「眠ってしまったらどうする」
「……そこまでは、保証できない」
「正直なのは結構じゃが、寝るのは待て」
私は膝をついたまま、おじいさんを見上げる。どうやら、簡単には帰してもらえないらしい。
「そもそも、どうして寝ようとしたのじゃ?」
「夢の中でもう一回寝たら、起きられるかもしれないから」
「……頬をつねった方が早いのではないか?」
「痛いのは嫌」
「それで二度寝か」
「うん」
おじいさんは髭に手をやり、何か言いかけてやめた。納得はしてもらえなかったようだ。
「ここは夢ではないぞ。眠ったところで、元の部屋で目を覚ますわけではない」
……夢の中の人にそう言われても、困る。
でも、この人は私が知らないことを知っていそうだ。ここが何なのかを聞いてから寝る方が、寝ようとするたびに止められるより早いかもしれない。
私は横になるのを諦めて、床へ座り直した。
「……じゃあ、聞く」
「うむ。ようやく話ができるのう」
「長い?」
「必要なことは、きちんと話すつもりじゃ」
長い、という意味だろう。
「まず、儂には名前がない。お前さんの言葉で一番近い呼び方をするなら、神様じゃな」
「……神様」
白い髪と髭は、それらしい気もする。でも、それだけで神様だと決めるのは難しい。
「信じられんかの?」
「まだ、よく分からない」
「ならば、少し見せてやろう」
神様と名乗ったおじいさんが片手を上げると、足元の白が波打った。
水のように揺れた場所から小さな芽が伸び、枝を広げ、瞬きをしている間に一本の木になっていく。淡い色の花が枝先に咲いて、降ってきた花びらが私の膝に落ちた。
指先で拾ってみると、薄くて柔らかい。かすかに甘い匂いまでした。
「……すごい」
「これで、どうじゃ?」
「本物みたい」
「本物じゃよ」
おじいさんが手を下ろすと、木は音もなく消えた。持っていた花びらも、指の間からなくなっている。
確かに、普通はできないことだと思う。
ただ、ここが夢だった場合は話が別だ。夢なら木が急に生えてもおかしくないし、手触りがあることだって証拠にはならない。
そうなると、この人に何を見せてもらっても、結局同じところへ戻ってしまう。
「……神様ってことにする」
「……ことにする?」
「ここが夢なのか、私には確かめられないから。でも、神様として話を聞くことはできる」
神様はしばらく私を見ていたが、やがて声を立てて笑った。
「ほっほっほ。儂も長くこの役目をしておるが、そういう納得の仕方をされたのは初めてじゃ」
「……嫌だった?」
「いいや。話が進むなら、それでよい」
それならよかった。私も、いつまでも同じことを考えているのは面倒だ。
「……神様。家にはどうやって帰ればいいの?」
笑っていた神様の顔が、静かになった。
髭に触れかけた手を下ろし、私と目を合わせる。返事が少し遅かっただけなのに、あまりいい話ではなさそうだと分かった。
「ハク。ここは、生を終えた者の魂が、しばらく留まる場所なのじゃ」
「……魂?」
「お前さんが今、そこにおるのも、元の身体ではない。魂が自分自身をそういう姿だと思うておるだけじゃよ」
思わず、自分の手を見た。
指を曲げれば動くし、床に触れれば感触もある。いつもと変わらないように見えるけれど、そういえばパジャマのまま裸足で立っている理由も分からなかった。
「……じゃあ、本物の身体は?」
「元の世界に残っておる。もう、そこへ戻ることはできん」
「どうして?」
神様は目を逸らさずに答えた。
「お前さんは、亡くなったのじゃ」
亡くなった。
それが自分のことだと理解するまで、少し時間がかかった。
昨日、私はいつも通り布団に入った。眠る前に、明日こそいろいろ片づけようと思ったことも覚えている。その続きに、死ぬ予定なんてなかった。
私はもう一度、手を開いて握った。
ちゃんと動くし、痛むところもない。それなのに、今ここにいる私が元の世界では死んでいるなんて、どうにもうまくつながらない。
「……寝ている間に?」
「うむ」
「……そっか」
自分でも、妙にあっさりした返事だと思った。驚いていないわけではない。ただ、何から驚けばいいのか分からなかった。
「最後の頃、身体の調子がおかしかったのを覚えておるか?」
神様に聞かれて、少し前のことを思い出す。
立ち上がると目の前が揺れた。階段を上るだけで息が切れた。食欲がない日は、一食くらい平気だろうと抜いてしまった。
お母さんには「ちゃんと食べなさいよ」と言われていた。お父さんも、私の顔色を見て「病院へ行くか」と聞いた。
どちらにも「大丈夫」と答えたことは覚えている。
「……寝れば、治ると思ってた」
「眠れば休息にはなる。じゃが、休むだけでは戻らんほど、身体はすっかり弱っておった。そこへ、具合まで崩してしまったのじゃ」
そう言われると、思い当たることばかりだった。
具合が悪いと気づいても、病院へ行くのは面倒だったし、ご飯を食べるのも面倒だった。明日になったら考えよう、と何度も先延ばしにしていた。
最後の夜だって、明日には元気になっているつもりだったのに。
「……死ぬつもりは、なかった」
「そうじゃろうな」
「……大丈夫って、言わなきゃよかった」
「そうじゃな。お前さんの身体は、お前さんが思うよりずっと無理をしておった」
神様の言い方は、責めるようではなく静かだった。だから余計に、言い返す言葉が出てこなかった。
今さら後悔しても、元の身体は戻らない。
それでも、気になることは残っていた。
「……お父さんとお母さんは?」
口に出してから、二人が私の死を知るところを想像してしまった。
部屋へ起こしに来たのは、どちらだったのだろう。何度呼んでも返事をしない私を見て、どんな顔をしたのだろう。
そこまでは、想像したくなかった。
「……今、どうしてる?」
神様はすぐには答えなかった。
それだけで、分かってしまった。
思い浮かぶのは、心配してくれていた二人に、何度も「大丈夫」と返した自分の声だった。
「……何か、伝えられないかな」
「すまぬ。亡くなった者の言葉を、元の世界へ届けることはできんのじゃ」
私は膝の上に視線を落とした。
謝りたいことはいくつもある。心配してくれたのに聞かなかったことも、ちゃんと話せないままいなくなったことも。
でも、もう届かない。
「……そう」
それ以上は、何も言えなかった。
神様も急かさず、しばらく黙っていた。
「……ハク」
顔を上げると、神様は少し困ったように髭を撫でていた。
「儂が元の世界の出来事へ、好き勝手に手を出すわけにはいかん。二人の悲しみを消すこともできぬ」
「……うん」
「じゃが、この先、あの二人を支えてくれる者や、また笑えるような出来事と巡り合いやすくする程度なら、ほんの少し後押しできる」
「……そんなこと、できるの?」
「本当に、ほんの少しじゃ。必ず何かが起こると約束できるほどのものでもない」
何もかも元通りになるわけではない。そんなことは、たぶん神様にもできないのだろう。
それでも、二人がこれからずっと悲しんでいるだけとは限らない。
「……ありがとう。お願いしたい」
「うむ」
神様は頷いて、それから何でもないことのように付け足した。
「まあ、ついでじゃ。大した手間でもないからの」
「……ついで?」
「そうじゃとも」
そう言いながら、目は私ではなく、何もない白い方を向いている。
ついでにしては、ずいぶん丁寧に説明してくれた気がするけれど。
私はもう一度、二人の顔を思い浮かべた。
「……お母さん、たぶん怒ってる。ちゃんと食べなさいって、あれだけ言ってたのに」
「怒りもするじゃろうな。ただ、それ以上に寂しがっておるはずじゃ」
「……うん」
それは、たぶんそうだ。怒っている顔より、そっちの方が先に浮かんでしまうのが少し困る。
「お父さんは心配性だから、しばらく大変かも」
「そのための後押しじゃよ。……ついでじゃがな」
まだ言っている。
思わず、少しだけ笑ってしまった。
後悔が全部なくなったわけではない。でも、さっきよりは息がしやすい。
家には、もう帰れない。ここで眠っても、あのベッドで目を覚ますことはない。
だったら、私はこれからどうなるのだろう。
「……神様。私、これからどうなるの?」
「てっきり、今度こそ寝ると言い出すかと思うておったが」
「寝るのは、後にする」
「ほう。さっきまで、あれほど寝たがっておったのにのう」
「……聞かないと、困るから」
神様は一度だけ目を細めた。
「そうじゃな。では、これからの話をしようかの」
私は膝を抱えて座り直し、神様を見た。
「お前さんは、別の世界でもう一度生きることになる」
「……別の世界」
「うむ。元の世界へ戻ることはできんが、あちらでは新しく生きてゆける」
「異世界転生ってこと?」
「その呼び方で合っておると思うぞ」
漫画や小説で見たことがある。そういう話の主人公は、たいてい神様から特別な力をもらったり、世界を救うよう頼まれたりしていた。
……私にも、何かすることがあるのだろうか。
「何か、やらなきゃいけないことはある?」
「いや。誰かを救えだの、何かを成し遂げろだの、そういう役目はない。次の人生は、お前さん自身のものじゃ」
「……よかった」
「そんなに嫌かの?」
「世界を救うのは、忙しそうだから」
「……まあ、暇では済まんじゃろうな」
使命がないと分かっただけで、少し気が楽になった。
「それにしても、死んだらみんな異世界へ行くの?」
「そういうわけではない。この仕組みが動くのは、数百年に一度ほどじゃ。時期が合えば誰でもよいというものでもなく、魂にも条件がある」
「……じゃあ、たまたま?」
「時期が重なったのは、たまたまじゃな。ただ、魂の条件の方は、お前さんが元から満たしておった」
特別に選ばれた、というより、条件がそろった結果らしい。
「良いことをした褒美とかでは、ないんだ」
「褒美でも罰でもない。儂が気に入った者を選んでおるわけでもないからの」
「……そうなんだ」
神様はそこで説明を終えるかと思ったが、髭を撫でながら話を続けた。
「そもそも、世界というものはそれぞれに――」
最初のうちは、ちゃんと聞いていた。
けれど、途中から話は魂が世界を渡る仕組みへ移り、さらにその仕組みができた昔のことにまで広がっていった。そのたびに「そもそも」から始まるので、何の話をしていたのか、途中から分からなくなってくる。
今の私に必要なのは、転生できる理由を全部覚えることではない。向こうで困らないための話を先に聞きたい。
……それに、眠い。
声が静かなせいだろうか。ここには眩しいものも騒がしいものもなくて、床も思ったほど寝心地が悪そうではない。
私は膝を抱えていた腕をほどき、片手を床についた。少し体重を預けてみる。
「……これ」
「なに?」
「話の途中で寝るでない」
「まだ寝てない。ちょっと傾いただけ」
「そのまま横になるつもりじゃったろう」
……ばれていた。
神様は腕を組んで私を見る。さっき両親の話をしていた時とは違い、呆れたような顔をしていた。
「大事な話の途中じゃぞ」
「……大事なところは聞きたい。でも、さっきから、そもそもが多い」
「そもそもが多い?」
「三回目までは数えた」
神様は口を開きかけ、何も言わずに閉じた。
「……ふむ。少々遠回りしたかの」
「うん」
「分かった。ここからは、お前さんに必要な話を先にしよう」
私は身体を起こして座り直した。
「助かる」
「まず、あちらへ行くには新しい身体が必要じゃ。今の姿は魂が自分を認識するための仮のものじゃからな」
「……人間ではいられる?」
身体が新しくなるということは、前とまったく同じではないのだろう。いきなり別の生き物になると、生活の仕方から考え直さないといけない。
「人として暮らせる身体にはなる。じゃが、姿形が元のままとは限らん」
「……そうなんだ」
「お前さんの魂と、向こうの世界の法則に合わせて形作られるからの。細かいところは、儂にも分からんのじゃ」
顔も変わるのだろうか。前の顔に思い入れがあったわけではないけれど、鏡に知らない人が映っていたら、きっと驚くだろう。
少し気になるけれど、今の私には確かめようがない。せめて、自分で歩ける身体ならいいと思う。
さっき思い出した漫画の主人公たちなら、この辺りで特別な力をもらっていた。そこまで期待していたわけではないけれど、便利なものなら少し欲しい。
「……力をもらえたりは?」
「それはできん。儂が力を配っておるわけではないからの」
残念。でも、配っていないなら、ねだっても仕方がない。
「ただ、世界を渡れる魂には、元々それぞれの性質がある。それが新しい身体に表れることはあるのじゃ」
「……性質?」
「身体の特徴になることもあれば、生まれつきの力のような形で出ることもある。どちらも儂が与えるものではなく、お前さんの魂が元から持っておるものじゃ」
「……私にも、何か出る?」
「出るかもしれんし、出んかもしれん。何が出るかまでは、儂にも分からぬ」
もらえるわけではなく、出るかどうかも分からないらしい。
それなら、当てにしない方がいい。何か出たらその時に考えればいいし、何も出なければ普通の身体というだけだ。
「向こうには魔法もある。お前さんのいた世界ほど機械は発達しておらんが、暮らしの中で魔法を使う者もおる」
「魔法」
これは少し気になる。
火を起こしたり、重いものを動かしたりできれば、面倒なことが減るかもしれない。もちろん、そんな魔法ばかりとは限らないだろうけど。
「私も使える?」
「向き不向きがある。あちらで学んでみんことには、何とも言えんのう」
なるほど。使えたら便利、くらいに思っておこう。
神様はそこで話を切り上げ、さっきとは違う穏やかな声で尋ねた。
「ところで、ハク。次の人生では、どう暮らしたい?」
「……それ、答えたら叶えてくれるの?」
「いや、そういうことではない。ただ、お前さんがこれから何を望むのか、聞いておきたくての」
叶えてもらうための質問ではないらしい。それなら、変に格好をつける必要もない。
私はしばらく考えた。
知らない世界で暮らすことになる。何ができるのかも、どんな人がいるのかも分からない。いきなり大きな目標を立てたところで、できるかどうか怪しい。
それなら、まずは普通に暮らしたい。
「……のんびり、平和に暮らしたい。面倒なことが少ないと、嬉しい」
「ふむ」
「あと、ご飯に困らなくて、安心して眠れる場所があれば」
「本当に、眠るのが好きなんじゃのう」
「……好きなものは、好きだから」
神様は小さく笑った。その顔を見ると、さっきまでの重い話が少し遠くなった気がする。
でも、前と同じように過ごしていいわけではない。
「あと……前みたいに、自分のことを全部後回しにするのは、やめる」
「ほう」
「今度は、ご飯もちゃんと食べる。具合が悪かったら、放っておかない」
「うむ。そうしてくれると、儂も安心じゃ」
お父さんとお母さんの顔が浮かんだ。
二人に直接伝えることはできない。それでも、今度は同じ失敗をしないでおきたい。
「……たぶん、全部は無理だけど」
「急に何もかも変われとは言わんよ」
その言葉に、ちょっと安心した。
……ところで、安心して暮らせる場所が欲しいと言ったけれど、そもそも最初にどこへ行くのだろう。
「あの、転生したら、どこで目が覚めるの?」
「世界は決まっておるが、その中のどこに身体が形作られるかは、儂にも選べんのじゃ」
「……街の近くとかは?」
「そうできればよいのじゃがな。人や物と重なるような場所には出ん、というくらいじゃ」
街があれば、食べ物も寝る場所も探せる。でも、人がいないところだと話が違ってくる。
「……安全な場所とは、限らない?」
「うむ。身体がきちんと形作られるところにはなるが、その後の安全までは約束できん。すまんのう」
さっきまでのんびり暮らす話をしていたのに、少し心配になってきた。知らない土地で、何が危ないのかも分からないまま歩くのは、できれば避けたい。
でも、神様の様子を見る限り、場所を変えてもらうのは無理そうだ。
それなら、準備できることを聞いた方がいい。
私は自分のパジャマへ目を落とした。今の服まで仮の姿なら、持っていく荷物も何もない。
「……向こうに、何か持っていける?」
「新しい身体には、最低限の服と靴が用意される。それ以外のものは、持たせてやれんのじゃ」
「……食べ物や、お金も?」
「そうじゃ。地図や道具もない。あちらで必要なものは、自分で揃えてもらうことになる」
それは、思っていたよりずっと身軽な出発だった。
街が近ければまだいいけれど、そうでなかったら、まず水や食べられるものを探すことになる。前の世界では、冷蔵庫を開けるだけでよかったのに。
「……さっき、木を生やしてたのに」
「ん?」
「何か一つくらい、作って持たせられない?」
神様は一瞬、木のあった場所へ目を向けた。
「あれは、この場所だから見せられるものじゃ。別の世界へ持たせられるのは、決められた最低限の支度だけでのう」
神様は、すまなそうに眉を下げた。
「儂の手が届くのは、ここまでなのじゃ」
そういえば、さっきの花びらも、木と一緒になくなった。
「……分かった。ありがとう、教えてくれて」
「よいのじゃ。知らぬまま送り出すわけにもいかんからの」
しばらく考えてみる。
向こうの言葉やお金のこと、暮らし方も気になる。でも、どこへ行くかさえ分からない今、全部教えてもらっても使えるとは限らない。
まずは周りを見て、人がいれば話を聞く。いなければ水と食べ物を探す。何より、危ないものには近づかない。
やることが多そうだ。でも、今ここで考えてもどうにもならないことまで抱える必要はない。
「ほかに、聞いておきたいことはあるかの?」
「……今は、大丈夫」
「そうか。では、そろそろ送るとしよう」
神様が、ゆっくりと片手を上げた。足元の白が、わずかに明るさを増した気がする。
「何すればいい?」
「何もせんでよい。力を抜いて、楽にしておれ」
何もしなくていい。楽にしていればいい。
それなら、一つ確かめておきたいことがある。
「……じゃあ、寝てていい?」
神様の手が、途中で止まった。
私を見て、髭を撫でて、もう一度私を見る。それから、とうとう堪えきれなくなったように笑い出した。
「……そういえば、寝るのは後にすると言うておったの」
「うん。今が、その後」
「よかろう。今度ばかりは、好きにするがよい」
許可が出た。
ここへ来てから、寝ようとするたびに止められてきたのだ。四度目にして、ようやくである。
私はその場で身体を倒して、白い床へ横になった。硬くも柔らかくもない、不思議な寝心地。でも、寝られないほどではない。
周りの白が、だんだん明るくなっていく。
神様の輪郭が、その光の中へ溶け始めていた。指先の感覚がゆっくり遠くなって、沈んでいくような、浮いていくような、どちらともつかない感じがする。
少しだけ怖い。
でも、それ以上に、よく知っている感覚だった。眠りに落ちる直前の、あの感じだ。
「最後に、一つだけ言うておく」
遠くなりかけた声が、もう一度届いた。
「……なに」
「今度は、自分のことを後回しにするでないぞ」
さっき、私が自分で言ったことだ。
「……うん。ご飯も食べる」
「うむ。それでよい」
白い光が視界いっぱいに広がって、神様の姿はもう見えない。
次に目を開けた時、何が見えるのかは分からない。どんな場所で、自分がどんな姿になっているのかも、まだ何も知らない。
前の世界で最後に眠った夜、私は明日が来ると思っていた。
今度は、ちゃんと来る。
「では、行っておいで」
遠くで、そんな声が聞こえた気がした。
返事の代わりに小さく息を吐いて、私は白い光の中で眠りについた。
はじめまして。
至らぬ点も多々あるかと思いますが、それでも楽しんで読んでいただけたら嬉しいです。
本作は不定期投稿で、かなり自己満足寄りに書いている作品ではありますが、ブックマークや高評価、感想などをいただけると、とても励みになります。
作者が泣いて喜ぶうえ、モチベーションが上がって投稿ペースが少し早くなるかもしれません。
実は以前にもこの作品を投稿していたのですが、その時は最後まで書き切ることができませんでした。
今回こそは、途中で投稿期間が空いてしまうことがあっても、最後まで完走するつもりで書いていきます。
のんびりとお付き合いいただけましたら嬉しいです。
これから『夢見人は気ままに暮らしたい』を、よろしくお願いします!




