11 夢中になると抜け出せない
「では、もう一度。こちらです」
リリアはネムを抱き直して、生け垣の切れ目へ向かった。
今度は、景色を覚えながら歩くことにした。切れ目を抜けると、白い石の道。脇には小さな花が並び、少し先で生け垣が右へ折れている。
ここまでは、さっきと同じだ。
リリアの胸元で、ネムが顔を上げた。首を伸ばして、落ち着かない様子で後ろを振り返っている。
角を曲がる。
少し先に、長椅子が見えた。
……やっぱり。
近づいて、背もたれの端を確かめる。浅い傷は、同じ場所にあった。
「……戻ってきた」
「本当ですね……」
今度はリリアも、首を傾げるだけでは済まなかったらしい。長椅子と、今歩いてきた道を何度も見比べている。
「似たところが多いだけだと思っていたのですけれど……。角を一つ曲がっただけで、こんなふうになるなんて」
「……今までは、気にならなかった?」
「お散歩はしていましたけれど、道順まで気にしたことがなくて。気がつくと、この長椅子のところにいる気はしていました」
気がつくと、か。
夢の中では、おかしなことが起きても、その場では案外気にならないものだ。私も前の世界で見た夢の中で、いちいち道順なんて確かめなかった。
でも、今は確かめるつもりで歩いて、それでも戻ってきた。偶然ではないだろう。
「ハクさん」
リリアが、改まった顔でこちらを見た。
「お父様に頼まれて、会いに来てくださったのですよね。……何か、あったのでしょうか」
……そうだった。
庭のことばかり気にしていて、肝心な話をまだしていない。
何から話せばいいだろう。いきなり眠っていると言われても、困ると思う。でも、ここで黙っていても話は進まない。
「……リリア。本当は今、眠ってるの」
「眠って……いる、んですか?」
「……お屋敷の寝台で。ずっと目を覚まさなくて、お父さんとお母さんが心配してる」
リリアは目を丸くした。それから、自分の手を開いたり閉じたりする。
「でも、私はこうして起きていますよ?」
「……ここが、リリアの夢の中だから」
「夢の、中……」
「……私、眠ってる人の夢が見られるの。それで、リリアの夢を見てたら、中に入れた」
どうして入れたのかは、私にもよく分からない。そこまで話すと余計に混乱させそうなので、黙っておく。
リリアは周りを見回した。花壇、生け垣、長椅子。最後に、腕の中のネムへ目を落とす。
「……そう言われると、おかしいかもしれません。この庭に来る前のことが、よく思い出せないんです」
「……覚えてるのは?」
「夜、ネムと一緒に寝台に入ったところまでは。そのあとは……気がついたら、ここにいて」
ネムが、リリアの指先に鼻を押しつけた。リリアはその頭を撫でてから、私を見る。
「お父様とお母様は、お元気ですか?」
「……うん。さっき、二人とも会った」
「そうですか……」
ほっと息をついたあと、リリアの眉が下がった。
「……きっと、ずいぶん心配をおかけしていますよね」
ネムを抱く腕に、力が入る。
「ハクさん。お屋敷へ戻ってみても、いいでしょうか」
「……うん。私も、この庭から出られるか確かめたい」
「お屋敷へは、あちらから戻れるはずです」
リリアが指さしたのは、さっき歩いた道とは反対側の、生け垣の向こうだった。
そちらの道は、さっきの道より少し細かった。
生け垣の間をしばらく進むと、足元の白い石が途切れ、その先に土の道が続いているのが見えた。
「あの先が、お屋敷の方です」
今度こそ、庭の外へ出られるかもしれない。
あと数歩というところで、ネムが身じろぎした。
「……ネム?」
リリアが抱き直そうとすると、ネムは前足で服にしがみついた。ふさふさの尻尾を腕に巻きつけ、顔を胸元へ押しつけている。
「どうしたの? 大丈夫よ。ネムも一緒に帰るのよ」
リリアが背中を撫でても、ネムは離れない。
さっき私に頭を撫でさせてくれた子と、同じとは思えなかった。知らない場所が怖いのだろうか。でも、お屋敷はこの子にとっても家のはずだ。
リリアが、土の道へ一歩踏み出した。
その瞬間、目の前の土の道が消えた。
……え。
足元には、白い石が並んでいた。顔を上げると、見覚えのある花壇がある。
振り返ると、すぐ後ろに長椅子があった。
「……また?」
「おかしいですね……。今度は、ちゃんとお屋敷へ向かったはずなのに」
リリアは困ったように辺りを見回してから、ネムの背中を撫でた。服にしがみついていた前足から、少しずつ力が抜けていく。
……落ち着いた?
そういえば、さっき角を曲がる前にも、ネムは後ろを振り返っていた。
庭から離れようとすると、ネムの様子が変わる。そして、元の場所に戻る。
二回続けば、さすがに気になる。
とはいえ、ここはリリアの夢だ。夢に出てくる人や物は、普通は夢を見ている本人が思い浮かべたものだろう。このネムも、リリアが思い浮かべた姿のはずだ。
ネムを見る。青白い目がこちらを見返して、一度だけ瞬きをした。
見つめ合っていても、何も分からない。まずは、聞けば分かることから聞いてみる。
「……リリア。ネムって、お屋敷にも本当にいる子?」
「はい。お庭の隅で弱っていたのを、私が見つけたんです。それからずっと一緒で……夜も、私の枕元で眠るんですよ」
現実にも、いる。
飼っている子を夢に見るのは、珍しいことではない。普通なら、それで終わりだ。
……ただ、このネムは、リリアと気持ちが合っていない。
リリアはお屋敷に帰りたがっている。なのにネムだけは、庭から離れようとするたびに嫌がる。リリアが思い浮かべたネムなら、もう少しリリアの気持ちに沿って動きそうなものだ。
夢の中のことだから、たまたまかもしれない。でも、気になったまま放っておくのは落ち着かない。
確かめる方法なら、一つある。
現実のネムが眠っていれば、私はその夢を見られる。そこにこの庭があるか、見てみればいい。
ただ、いつもリリアと庭にいた子なら、自分で庭の夢を見ることもあるだろう。それでは見分けがつかない。
なら、この夢の庭にしかないものを置いておけばいい。
長椅子の脚のそばに、小さな白い石がいくつか転がっていた。そのうち三つを拾って、脚の陰に並べる。大きい石を真ん中に、両側へ小さい石を一つずつ。
「ハクさん、何をしているんですか?」
「……目印。あとで、確かめたいことがあるから」
「目印……。では、触らないようにしておきますね」
リリアは不思議そうにしながらも、それ以上は聞かなかった。
次は、私がここから出られるかどうかだ。
「……リリア。私、一回、夢の外に戻ってみる」
「戻る、というのは……」
「……お父さんたちのいるところ」
「そんなことが、できるんですか?」
「……たぶん。入ったのも今日が初めてだから、出たことはまだないけど」
言いながら、心配になってきた。
出られなかったら、私もここに居残ることになる。……それは、さすがに困る。
「では、ハクさんが戻れるなら、私も一緒に……」
「……それは、できるか分からない。できるって言って、できなかったら困るから」
リリアは少しだけ残念そうにしたけれど、すぐに頷いた。
「では、お父様とお母様に、私は元気だと伝えていただけますか?」
「……うん。ちゃんと伝える。また来るね」
「はい。お待ちしています」
私は目を閉じた。
夢に入った時は、リリアの目に映る景色の外へ、意識を伸ばした。なら今度は逆に、自分の身体の方へ意識を向けてみる。
寝台のそばの椅子。膝の上に置いた手。
それを思い浮かべると、足の裏にあった石の硬さが、ふっと薄れた。
「……ハクさん?」
リリアの声が遠くなる。
代わりに、膝の上の手の重さが戻ってきた。
目を開けると、寝台で眠っているリリアの顔があった。
「……戻れた」
思わず、声が出た。
「ハクさん」
すぐ横で、アリメルの声がした。辺境伯とアイリスも、こちらを見ている。三人とも、私が目を閉じる前とほとんど同じところにいた。窓から差す光の具合も変わっていない。それほど長くは経っていないらしい。
……ちゃんと帰ってこられた。思っていたより、ほっとしている。
「どうだった。娘の夢は、見られたか」
辺境伯が身を乗り出した。
「……うん。リリアは、庭にいた。話もできた」
「話を……?」
「……夢を見てたら、中に入れたの。向こうのリリアにも、私が見えてた」
「中に、ですか?」
アリメルが目を瞬かせた。中に入れるなんて、私も今日まで知らなかったのだから、驚かれても仕方ない。
「リリアは……何か、言っていましたか」
アイリスの声は静かだった。けれど、寝台の端に置いた手が、毛布をきゅっと握っている。
「……二人が元気か、気にしてた。リリアは元気だから、そう伝えてほしいって」
アイリスは寝台のそばに膝をつき、娘の手を両手で包んだ。何も言わなかった。
辺境伯はしばらく娘の顔を見ていたが、やがて私へ向き直った。
「娘を起こす手立ては、ありそうか」
私は、庭のことを順に話した。同じ道を確かめながら歩いても、元の長椅子の前に戻ってしまうこと。お屋敷へ向かう道でも、同じだったこと。
「……どうして戻るのかは、まだ分からない。でも、気になることはある」
「気になること?」
「……リリアが、ネムって子を抱いてた。白くて、尻尾がふさふさした子」
アイリスが顔を上げた。
「まあ……。夢の中でも、ネムと一緒なんですね」
「……ネムは今、どこにいる?」
「隣の部屋です。お医者様がいらっしゃる時に、そちらへ移したままにしていて」
アイリスは、言いにくそうに続けた。
「あの子も、リリアがこうなってから、ほとんど眠ってばかりなんです。ご飯の時に少し起きるくらいで……。リリアがいなくて寂しいのかしら、と」
……ほとんど、眠ってばかり。
リリアの腕の中にいたネムを思い出す。
普通は、眠っていなければ夢の中にはいられない。私みたいな例外を除けば。
あのネムが本当にあの庭にいるなら、現実のネムも眠り続けているはずだ。
そして実際に、眠ってばかりいる。
「……ネムに、会ってもいい? 眠ってるなら、ネムの夢も見てみたい」
「ネムの夢を、ですか?」
アリメルが聞き返した。
「……リリアと同じ庭にいるか、確かめたい」
辺境伯は一度リリアの方を見てから、頷いた。
「構わない。アイリス、案内してやってくれ」
辺境伯はリリアのそばに残り、私とアリメルは、アイリスについて隣の部屋へ移った。
隣の部屋は、リリアの部屋よりずっと小さかった。低い台の上に、布を敷いた籠が一つ置いてある。
籠の中で、白銀色の毛の塊が丸くなっていた。尻尾を身体に巻きつけて、顔もその中に埋めている。
夢の中で撫でたのと、同じ毛並みだ。
「とてもよく眠る子なので、リリアが『ネム』と名付けたんです」
アイリスが、籠を覗き込みながら言った。
「……それ、リリアからも聞いた」
アイリスは一瞬目を丸くして、それから小さく笑った。
「夢の中でも、同じことを話していたんですね」
籠のそばにしゃがむ。小さなお腹が、ゆっくり上下していた。耳が時々ぴくりと動くけれど、起きる気配はない。
ネムへ、意識を向けた。
――白い石が、すぐ目の前にあった。
低い。地面がずいぶん近い。リリアの腕から下りていたらしい。視界の端で銀色の毛が揺れ、鼻先を動かすと、草と土の匂いが流れ込んでくる。
見上げると、長椅子があった。背もたれの端に、浅い傷。
……リリアの庭だ。
でも、これだけではまだ決められない。ネムが、いつもの庭を夢に見ているだけかもしれない。
見慣れないものが気になるのか、鼻先が長椅子の脚の方へ向いた。
脚の陰に、小さな白い石が三つ並んでいる。
真ん中に大きい石。両側に小さい石。
……私が置いた石だ。
リリアの夢の中にしかないはずの石が、ネムの夢にもある。ネムが見ている庭と、リリアの夢の庭は、同じものだ。
それなら、リリアの腕の中にいたネムは、リリアが思い浮かべた姿ではない。目の前の籠で眠っているこの子が、本当にこの庭にいるのだ。
「ネム、おいで」
声がして、視界がそちらへ向いた。
長椅子のそばに、リリアがしゃがんでいた。差し出された手へ、小さな脚が迷わず駆け寄る。リリアはネムを抱き上げると、生け垣の向こうへ目を向けた。
「ハクさん、お父様たちに会えたかしら。……私たちも、もう一度だけ、お屋敷の方へ行ってみましょうか」
……リリアは、私が出ていったことを知っている。
ネムが一人で見ている夢なら、こうはならない。私がいなくなったあとの、同じ庭の続きだ。
リリアは、生け垣の向こうの細い道へ歩き出した。
足元の白い石が途切れて、その先に、さっきの土の道が見えてくる。
そこへ近づくにつれて、胸の奥がきゅっと縮むような感じがした。
私の気持ちではない。ネムの気持ちだ。
前足が勝手に動いて、リリアの服にしがみつく。
「どうしたの、ネム。大丈夫よ」
リリアは背中を撫でながら、土の道へ一歩踏み出した。
その時、ネムの身体の奥で何かが動いて、外へ伸びていった。
……これ、知ってる。
私の夢誘と、よく似た感じだ。
ただ、ネムの中から伸びたものは、誰か一人へ向かったわけではなかった。庭全体へ、薄く広がっていく。
次の瞬間、景色が切り替わった。
土の道が消え、足元に白い石が並ぶ。生け垣と花壇が現れ、すぐそばに、背もたれの端に傷のある長椅子。
リリアが、驚いたように足を止めた。
その腕の中で、ネムの胸の奥の縮こまった感じが、少しずつほどけていく。
……今の。
リリアが庭の外へ出ようとした。ネムの胸が縮んで、身体の奥から何かが伸びた。そして、庭が元に戻った。
私がリリアと歩いていた時、角を曲がって長椅子の前に戻ったのも、土の道へ踏み出して戻されたのも、きっと同じことが起きていたのだ。
この庭を元に戻しているのは――。
……ネム?




