12 寝ても覚めてもそばにいたい
リリアは長椅子の前で足を止めたまま、ネムの背中を撫でていた。
撫でられるたびに、ネムの中の縮こまった感じが少しずつほどけていく。ネムの目で見ている私にも、それが伝わってきた。
さっきネムから広がったものは、私が夢誘を使う時の感じとよく似ていた。
でも、わざとやっているようには見えない。私も初めて魔物を眠らせた時は、言うつもりのなかった言葉が勝手に口から出た。ネムも、怖いと思った途端に、勝手に出てしまうのかもしれない。
……何が、そんなに怖いんだろう。
リリアと話したい。でも、ネムの目で見ているだけでは、声も届かない。
ここは、リリアの夢と同じ庭だ。それなら、リリアの夢に入った時と同じことが、ここでもできるかもしれない。
ネムの目から離れることを意識する。
身体がふわりと浮く感じがして、靴の裏に石の硬さが伝わってきた。
……できた。
「ハクさん!」
リリアが、ぱっと顔を上げた。
「戻ってきてくださったんですね。お父様とお母様は……」
「……うん、会った。リリアは元気だって、ちゃんと伝えた」
「よかった……。ありがとうございます」
ほっとしたように微笑むリリアの腕の中で、ネムがこちらを見ている。
何から話そう。少し迷ったけれど、見てきたことを順番に話すことにした。
「……さっき、向こうでネムの夢を見てきたの。ネムの夢も、この庭だった」
「ネムの夢も、ですか?」
「……うん。リリアが思い浮かべたネムじゃなくて、お屋敷にいるネム本人が、この夢の中にいるの」
リリアは目を丸くして、腕の中のネムを見下ろした。
「……それとね。この庭が元に戻ってたのは、ネムがやってたみたい。リリアがお屋敷の方へ行こうとすると、ネムがすごく怖がって、そのたびに戻っちゃうの」
「ネムが……」
リリアは、お屋敷へ向かう道の方を見た。
「そういえば、あちらへ行こうとするたびに、この子は嫌がっていましたね。でも、どうしてでしょう。お屋敷へ帰るなら、ネムも一緒なのに……」
私も、ずっとそこが分からなかった。
でも、アイリスが話してくれたことを思い出すと、少しだけ分かる気がする。
「……向こうのネムは今、リリアと別の部屋で、一匹で眠ってるの。リリアが眠ってから、ずっと眠ってばかりなんだって」
「別の、部屋に……」
「……起きても、リリアは眠ったままで、返事をしてくれない。だからネムには、ここを出たらリリアがいなくなっちゃうように思えるのかも」
リリアの腕の中で、ネムが目を細めている。ここでなら、リリアは撫でてくれるし、名前も呼んでくれる。
リリアはしばらく、その小さな顔を見つめていた。
それから、ネムを胸元へ抱き寄せる。
「ネム。私も、あなたと一緒にいたいの。でも……お父様にも、お母様にも、会いたいの」
ネムの耳が、小さく動いた。
「だから、一緒に帰りましょう。向こうでも、ちゃんと撫でてあげるから」
ネムは何も答えない。リリアの服を、前足で軽く掴んだだけだった。
リリアが、困ったように私を見る。
これまでの二回は、嫌がるネムを抱いたまま、リリアが先へ進もうとしていた。それなら、今度は逆にしてみたらどうだろう。
「……今度は、抱っこして連れていくんじゃなくて、ネムを下ろしてみたら? ネムが自分からリリアのところに来るまで、待ってあげるの」
リリアは少し考えてから、頷いた。
「やってみます」
私たちは、お屋敷へ向かう細い道へ入った。
白い石が途切れて、その先に土の道が見えてくる。ここが、二回とも戻された場所だ。
近づくにつれて、ネムがそわそわし始めた。リリアの服を掴んで、胸元へ顔を押しつける。
リリアは白い石の途切れる手前で足を止め、道の脇にしゃがんだ。ネムを、そっと足元へ下ろす。
「大丈夫。置いていったりしないから」
ネムはリリアの膝に前足を掛けたまま、土の道と、後ろの庭を何度も見比べていた。
リリアは手のひらを差し出して、そのまま待った。私も隣にしゃがんで、一緒に待つ。
どのくらい経っただろう。
ネムが、土の道の方を向いた。リリアの手に鼻先を押しつけて、一度だけ庭を振り返る。
それから、小さな足が、リリアの手のひらに乗った。
「……あ」
リリアが手を持ち上げると、ネムは自分から腕を伝って、胸元に収まった。服を掴む前足に、さっきのような力は入っていない。
リリアが立ち上がって、私を見た。私は頷いた。
一歩。土の道に、リリアの靴が乗る。
景色は、変わらなかった。
もう一歩。生け垣も白い石の道も、ちゃんと後ろに残っている。
「……進めました」
「……うん」
振り返るたびに、生け垣が遠くなっていく。もう戻されないと分かって、ようやく肩の力が抜けた。
ただ、いくら歩いても、お屋敷は見えてこなかった。道の先は白く霞んでいて、その向こうに何があるのか分からない。
「……お屋敷が、ありませんね」
「……まだ、夢の中だからだと思う。リリアが起きそうか、一回、向こうで見てくる」
「はい。ここで、待っています」
リリアはネムを抱き直した。ネムはもう、リリアの服を引っ張っていなかった。
自分の身体へ意識を向けると、霞んだ道が遠ざかって、しゃがんだ膝の重さが戻ってきた。
目を開けると、籠の中でネムが変わらず丸くなっていた。
「ハクさん。何か、分かりましたか?」
隣のアリメルが、私の顔を覗き込んだ。アイリスも、籠から私へ目を移す。
ネムの夢でもリリアに会えたこと。庭が戻っていたのはネムのせいだったこと。わざとではなく、リリアがいなくなるのを怖がっていたこと。それから、ネムが自分からリリアについて、庭の外へ出られたこと。
順番に話すと、アイリスは籠の中のネムを見つめた。
「この子が……」
それ以上は言わずに、眠っているネムの背中へ指先をそっと置く。
「……この子は、リリアのことが大好きなんです」
「うん。それは、見てて分かった」
夢の中のリリアは、ネムと一緒に帰ると言っていた。それなら、ネムは一匹でここにいるより、リリアのそばにいた方がいい。
「……ネム、リリアのそばに連れていってもいい? 一緒に帰るって、約束してたから」
アイリスは目を瞬かせてから、小さく笑った。
「ええ。もともと、リリアのそばで眠っていた子ですから」
アイリスが、眠ったままのネムを籠ごと持ち上げた。私たちはリリアの部屋へ戻った。
寝台のそばにいた辺境伯に、今の話をもう一度伝える。辺境伯はアイリスの抱えた籠を見て、「……ネムが、か」とだけ言った。怒っている顔ではなかった。
アイリスが、籠を寝台の枕元のそばへ置く。
その時、寝台のリリアを見て、目が止まった。
リリアの胸の辺りに、白い靄が漂っていた。森で、眠った魔物の周りに出ていたのと同じものだ。
……さっきまでは、なかった。
最初にこの部屋に来た時から、ずっとリリアのそばにいたのだから、出ていれば気づいたはずだ。夢は見ているのに、靄だけが出ていなかった。それが、庭から出られた途端に出てきた。
ギルドでフェンの夢を見た時も、靄は夢を見始めてから出てきた。靄と夢は、つながっている。なら、この靄を食べれば、終わらない夢も終わるかもしれない。
「……リリアの周りに、靄が出てる。私は、それを食べられる」
辺境伯とアイリスが、私の視線の先を見た。二人には、何も見えていないらしい。
「森で食べていたという、あの靄ですか?」
アリメルの問いに、私は頷いた。
「……食べたら、夢が終わって、起きるかもしれない。でも、人のを食べたことはないから、どうなるかは分からない」
アイリスが、リリアの手を握った。
辺境伯は、しばらく娘の顔を見つめてから、口を開いた。
「……娘には、聞けるか」
「うん。聞いてくる」
寝台のそばの椅子に座って、目を閉じる。霞んだ道で待っていたリリアに、靄のことを話した。食べれば夢が終わるかもしれないこと。何が起きるかは、私にも分からないこと。
リリアは腕の中のネムを見下ろしてから、まっすぐ私を見た。
「お願いします。私、ネムと一緒に帰りたいです」
「……分かった。ネムのこと、離さないでね」
「はい」
現実へ戻って、リリアの返事を伝える。
辺境伯は、アイリスと目を合わせてから頷いた。
「娘が望むなら、私からも頼む。……ただ、少しでも様子がおかしければ、すぐにやめてくれ」
「うん。最初は、少しだけにする」
毛布の上の靄へ、意識を向ける。靄の端がふわりと揺れて、細い筋になってこちらへ伸びてきた。
そっと吸い込む。味はない。森で食べていた時と同じだ。
リリアの顔を見る。呼吸は落ち着いていて、苦しそうな様子もない。
「……大丈夫そう。続けるね」
今度は、伸びてきた筋を途切れないように取り込んでいく。森で食べていた時より、ずっと長く吸い込み続けた。
途中で一度止めて、リリアの呼吸を確かめる。変わらず、静かに息をしている。
もう一度。
胸元の白いものが、少しずつ薄くなっていく。最後に残った細い筋が口元へ寄って、ふっと消えた。
その途端、リリアとつながっていた何かが、すっとほどけた気がした。
部屋の中が、しんと静かになる。
誰も、何も言わなかった。
リリアの瞼が、かすかに震えた。
「……リリア?」
アイリスの声も、震えていた。
ゆっくりと、リリアの目が開いた。
しばらくはぼんやりと天井を見ていた。それから視線が動いて、すぐそばの母親の顔で止まる。
「……お母、様……?」
かすれた、小さな声だった。
アイリスの口元が、何か言おうとして動いた。けれど、声にならなかった。代わりに、両手で娘の頬を包む。
アイリスの目から、涙がぽろぽろとこぼれた。
「……ええ。お母様よ。……おかえりなさい、リリア」
リリアは瞬きをして、反対側へ目を向けた。
「……お父様、も……」
「……ああ。ここにいる」
辺境伯は寝台のそばに膝をついて、娘の手を両手で包んだ。さっきまで落ち着いていた声が、少しだけ揺れていた。
「……ごめんなさい。ずっと、心配……かけて」
「謝ることはない」
辺境伯は首を振って、包んだ手を額に当てた。
「……よく、帰ってきてくれた」
リリアの目にも、涙が浮かんだ。
枕元の籠で、白銀色の毛がもぞりと動く。
ネムが顔を上げた。寝ぼけたように辺りを見回して、リリアに気づくと、籠の縁を乗り越えて枕の上へ駆け上がる。
ネムがリリアの頬へ鼻先を伸ばした。リリアが指を動かすと、ネムはその指に頬を押しつける。
「……ネム。一緒に、帰ってこられたね」
リリアが小さく笑うと、ネムは指を前足で抱えて、その場で丸くなった。
私は椅子から立ち上がって、少し下がった。ここは、家族のための場所だと思った。
……起きた。
本当に、起きた。
アリメルが隣に来て、小さな声で言った。
「ハクさん。……よかったですね」
「……うん」
寝台の上から、リリアの目が私を探すように動いた。
「……ハク、さん……」
夢の中では何度も話したのに、起きているリリアと目が合うのは、これが初めてだ。
「……おかえり」
リリアは涙の残る目で、小さく笑った。
「……ただいま、帰りました。……ハクさんの、おかげです」
「……私も、どうやったのか、よく分かってないけど」
正直に言うと、リリアの笑みが少しだけ大きくなった。
まだ何か言いたそうだったけれど、声がかすれて続かない。アイリスが涙を拭いながら、娘の髪を撫でた。
「今は、無理に話さなくていいの。あとで、ゆっくり聞かせてね」
リリアは小さく頷いて、ネムの温かさを確かめるように指を動かした。
それを見ていたら、ようやく身体から力が抜けた。
代わりに、お腹が苦しいことに気がついた。
あれだけの靄を一度に食べたのは、初めてだ。森では空腹が少し和らぐくらいだったのに、今は夕食が入るかどうか怪しい。
お昼は、軽めにしておいてよかった。




