10 訪問先は夢の中
目が覚めると、木戸の隙間から差し込む光は、もうすっかり白くなっていた。
……やっぱり、起きられなかった。
焼きたてのパンは、また今度だ。
寝間着代わりのシャツを脱いで、机の上に重ねておいた青いシャツに袖を通す。前の留め具を上から順に留めていくと、袖はちゃんと手首で止まった。
借り物の大きな服でないだけで、ずいぶん気分がいい。
一階に下りると、夕食どきとは違って静かだった。受付の前に冒険者が二人いるだけで、机はほとんど空いている。
端の机に座ると、職員の女の人が気づいてやって来た。初めての日に、浴場へ案内してくれた人だ。
「おはようございます。朝ごはん、まだでしたよね」
「……うん。寝てた」
「ふふ。少し待っていてくださいね」
出てきたのは、パンとスープだった。
パンをちぎると、外は硬いのに、中はふんわりしている。
「そのパン、角を曲がったところのお店のなんですよ。ギルドでは毎朝、あそこから買っているんです」
角を曲がったところ。昨日、アリメルが教えてくれたパン屋さんだ。
焼きたてではないけれど、ちゃんとおいしい。
……起きなくても、食べられた。
これはこれで、悪くないと思う。
食べ終えた頃、職員の人が畳んだ白い布を持ってきた。
「それから、こちら。お預かりしていたお洋服です。やっと乾きました」
神様から貰ったワンピースだった。泥でまだらになっていた裾が、すっかり元の白に戻っている。
「……きれいになってる」
「なかなか落ちなくて、二回洗ったんですよ」
森の泥は、しつこいらしい。
「……ありがとう」
ワンピースを膝に載せたまま残りのスープを飲んでいると、入口の扉が開いた。
入ってきたのはゴンザだった。遠目でも、あの大きな背中は見間違えようがない。
ゴンザは受付で一言二言話すと、そのまま階段を上がっていった。少しして、受付の奥からアリメルが出てきて、同じように二階へ向かう。
そういえば、今日はゴンザが辺境伯のお屋敷へ行く日だった。
もう、行って帰ってきたらしい。
部屋に戻って、ワンピースを、机の上の昨日買ってもらった服に重ねた。
お腹がいっぱいになったところで、寝台が目に入る。条件としては、かなりいい。
けれど、ゴンザが帰ってきたなら、たぶんアリメルが話をしに来る。せっかく寝るなら、途中で起こされない時がいい。
寝台の端に腰掛けて、横にはならずに待つことにした。
それほど待たないうちに、扉が叩かれた。
「ハクさん。少しよろしいですか?」
「……どうぞ」
扉を開けたアリメルは、昨夜と同じように、少し改まった顔をしていた。
「ギルドマスターが、辺境伯様のお屋敷から戻られました」
「……うん。さっき、帰ってくるのが見えた」
「そうでしたか。それなら、話が早いですね。ハクさんのことをお話ししたら、ぜひ一度来ていただきたい、とのことです。今日の午後に、お時間をいただけることになりました」
「……今日?」
「はい。急で、すみません」
思っていたより早い。でも、娘さんがずっと眠ったままなら、早く確かめたいのも当然だろう。
「依頼の条件も、まとまっています。夢を見ていただくこと自体がお仕事なので、何も分からなかった場合でも、報酬はお支払いくださるそうです」
見つけられなかったら報酬はなし、というわけではないらしい。見るだけならできても、その先は分からない私には、ありがたい話だ。
「それから、昨夜お話しした、夢でご覧になったことは必要なことだけお伝えいただければいい、というお話も、辺境伯様にご了承いただきました」
「……そっか。じゃあ、行く」
「はい。私もご一緒しますね」
アリメルはそう言って、少し表情を緩めた。
「それと、お昼はちゃんと食べておいてくださいね。お屋敷で、どのくらい時間がかかるか分かりませんから」
「……さっき、朝ごはん食べたところ」
「では、軽めで」
……食べるのは、決まっているらしい。
*
軽い昼食を済ませてから、アリメルと並んでギルドを出た。
昨日歩いた店の並ぶ通りを抜けると、建物の間が少しずつ広くなっていった。道の端には木が植えられていて、石畳もきれいに揃っている。
その先に、大きな門が見えた。
門の向こうには広い庭があり、その奥に石造りの大きな建物が建っている。窓の数を数えようとして、途中でやめた。
……これが、辺境伯のお屋敷。
ギルドの建物も大きかったけれど、こちらは建物の前に庭まである。土地の使い方からして違うようだ。
門のそばには、槍を持った兵士が立っていた。アリメルが名乗ると話は通っていたようで、すぐに中へ通してくれた。
玄関で待っていたのは、黒い服をきちんと着た年配の男の人だった。執事、というやつだろうか。小説では読んだことがあるけれど、本物を見るのは初めてだ。
その人の後について歩きながら、隣のアリメルに小声で聞いた。
「……アリメル。こういうところ、初めてなんだけど」
「ふふ。少し緊張しますよね。ご挨拶は私からしますから、ハクさんは聞かれたことに答えてくだされば大丈夫ですよ」
それなら、何とかなりそうだ。
屋敷の中は、磨かれた床がずっと奥まで続いていた。廊下には、細かい模様の敷物が敷かれている。
……この靴、森でずっと泥の中を歩いてきたんだけど。
前を行く人は気にする様子もないので、私もそのまま歩くことにした。足元は、なるべく見ないでおく。
通された部屋には、大きな机と、向かい合わせの椅子があった。机の向こうに、男の人が一人立っている。
背が高く、暗い色の上着を着た人だった。姿勢がよく、こちらを見る目も落ち着いている。ただ、目元には疲れが残っているように見えた。
「よく来てくれた。アリメル殿、それから……ハク殿だな」
「はい。本日はお時間をいただき、ありがとうございます」
アリメルが頭を下げたので、私もそれに倣う。
「……ハク、です。よろしく、お願いします」
敬語は、あまり得意ではない。
「オリーヴ・リュミエールだ。この地を預かっている」
この人が、辺境伯本人らしい。
辺境伯は私たちに椅子を勧めてから、自分も机の向こうに腰を下ろした。
「ギルドマスターから、話は聞いている。眠っている者の夢を見ることができるそうだな」
「……はい。見たこと、あります。……あります、です」
言ってから、変な言い方になったと思った。
辺境伯の口元が、ほんの少しだけ緩んだ。
「かしこまらなくていい。話しやすいように話してくれて構わない」
「……いいの?」
「ああ。その方が、こちらも聞きやすい」
アリメルの方を見ると、小さく頷いてくれた。
……助かった。このままだと、話が終わる前に舌を噛みそうだった。
「娘の夢も、見られると思うか」
「……試してみないと分からない。でも、眠ってるなら、たぶん」
辺境伯は頷いた。すぐには何も言わず、少し間を置いてから口を開く。
「娘が目を覚まさなくなって、もうずいぶんになる。医師にも、治癒魔法を扱う者にも診せたが、理由が分からない。何か一つでも、手がかりがあればと思っている」
「……見ることはできても、起こせるかは分からない」
「承知している。結果が出なくとも、責めるつもりはない。まずは、娘の様子を確かめてほしい」
辺境伯はそこで一度、言葉を切った。
「本人の許しを得られないのは心苦しいが……父親として、私から頼みたい」
声は落ち着いていた。けれど、机の上で組まれた指には、話している間ずっと力が入っていた。
「……分かった。やってみる」
「ありがとう」
辺境伯は立ち上がり、自分で扉を開けた。
「案内しよう。娘の部屋は上だ。妻も、娘のそばにいるはずだ」
階段を上がり、いくつかの扉の前を通り過ぎたところで、辺境伯が足を止めた。扉を軽く叩くと、中から女の人の声で返事がある。
部屋に入ると、窓から柔らかい光が差し込んでいた。大きな寝台が一つあり、そのそばの椅子から、女の人が立ち上がる。長い髪を後ろでまとめ、落ち着いた色の服を着ていた。
「アイリス。ギルドから来てもらった。こちらがハク殿だ」
「初めまして。アイリス・リュミエールです。娘のために来てくださって、ありがとうございます」
「……ハクです。よろしく」
アイリスは柔らかく微笑んで、寝台の方へ目を向けた。
「リリアは、こちらに」
寝台に近づくと、毛布を胸の辺りまで掛けた女の子が眠っていた。
頬の色は悪くないし、苦しそうな様子もない。昼寝をしているようにしか見えなかった。
「……ずっと、こんな感じ?」
「ええ。眠っている間は、とても穏やかなのですけれど」
アイリスが、娘の額に掛かった髪を、指先でそっと避けた。
「声を掛けても、朝になっても、目を開けてはくれません」
そう言って、アイリスは手を引いた。それ以上は、何も言わなかった。
辺境伯が、寝台の反対側へ回る。
「ここで確かめられるか」
「……うん。近くに座ってもいい?」
アイリスが、自分の座っていた椅子を譲ってくれた。腰を下ろすと、リリアの顔がすぐ近くになる。
これだけ長く眠っているなら、夢の一つくらい見ているだろう。
「……しばらく、静かにしてもらえると助かる」
「もちろんです」
アリメルが答え、辺境伯も黙って頷いた。
膝の上に手を置いて、目を閉じる。
眠っているリリアへ、意識を向けた。
――緑が見えた。
木の枝の向こうに、明るい空が広がっている。目の前には低い生け垣があって、その向こうで花が風に揺れていた。
庭、だろうか。
足元には白っぽい石が敷かれている。花壇もあって、手入れの行き届いた場所に見えた。
視界の下の方で、小さな手が動いた。
私の手ではない。たぶん、リリアの手だ。
その手が、膝の上に乗った白銀色の毛の塊を撫でている。
丸い耳に、細い前足。それから、身体と同じくらいふさふさした尻尾。
……何、この子。
リスとネズミの間みたいな見た目だった。リスにしては耳が丸いし、ネズミにしては尻尾がふさふさしすぎている。
撫でられると小さな顔を上げて、青白い目でこちらを見上げてきた。
リリアの手が止まると、その子は指先へ鼻を押しつけた。もっと撫でろ、ということらしい。分かりやすい。
しばらく、その様子が続いた。
フィルやフェンの夢は、見ているうちに場面がどんどん変わっていった。
でも、この夢は、さっきからずっと同じ庭のままだ。
花は揺れているし、膝の上の子も動いている。それなのに、景色だけがいつまでも変わらない。
調べに来たのだから、周りも見ておきたい。けれど、リリアは膝の上の子に夢中で、視線はほとんど動かなかった。
生け垣の切れ目の向こうに、細い道が続いているのが見える。あの先にも、庭があるのだろうか。
……そっちも、見たい。
意識を、道の方へ向けてみる。
すると、視界がわずかに横へずれた。
……あれ?
リリアは顔を動かしていないはずだ。なのに、生け垣の向こうが、さっきより少しよく見える。
もう少し、と意識を伸ばした途端、身体をふわりと持ち上げられたような感覚がした。
撫でている手が遠ざかる。白銀色の毛の塊も、目の前から離れていく。
……いや、違う。
離れていくのは、私の方だ。
気がつくと、少し先の長椅子に、女の子が一人座っていた。膝の上には、さっきの小さな生き物を乗せている。
女の子が、その背中を撫でた。
さっきまで、私が見ていた手だ。
顔は、寝台で眠っていたリリアと同じだった。
だとしたら、今の私は、誰の目で見ているんだろう。
視線を落とすと、淡い青色の袖が見えた。前に小さな留め具が並んでいる。今朝、自分で留めたシャツだ。
指を曲げてみる。ちゃんと動いた。
足元には、膝下までのズボンと、森から履いてきた靴。
試しに一歩踏み出すと、こつ、と靴の裏が石に当たった。硬さまで、足の裏に伝わってくる。
「……歩ける」
こんなことは、森でもギルドでもなかった。
もう一歩進むと、長椅子の女の子が顔を上げた。
「あっ……」
目が合う。女の子はすぐに立ち上がって、膝の上の子を胸元へ抱き寄せた。そのまま、一歩後ろへ下がる。
「……どちら様でしょうか。ここは、私の家の庭です」
声は丁寧だけれど、目はこちらから離れない。
そうなるよね。
自分の家の庭に、知らない人が急に立っていたら、私だって警戒する。しかもこっちは、なぜ立っているのか自分でもよく分かっていない。
「……ハク。怪しい者じゃない、と思う」
言ってから、怪しい人の言い方だと思った。
「……あなたは、リリア?」
女の子の眉が、少しだけ寄った。
「どうして、私の名前を」
「……あなたのお父さんに頼まれて、会いに来た」
「お父様に?」
女の子は、しばらく私の顔を見ていた。それから、胸元に抱いていた子を少しだけ下ろした。
「お父様のお知り合いの方でしたか。……失礼いたしました。リリア・リュミエールと申します」
「……ううん。急に来たのは、こっちだから」
リリアはまだ不思議そうだったけれど、さっきほど身構えてはいない。代わりに、抱いていた子を少しこちらへ向ける。
「それなら、この子も紹介しますね。ネムです」
腕の中から、白銀色の顔が覗いた。
「……ネム」
「はい。とてもよく眠る子なので、ネムって名付けたんです」
……よく眠る子。
それは、気が合いそうだ。
ネムは私をじっと見ていた。ふさふさの尻尾だけが、ゆっくり揺れている。
「……かわいいね」
「ふふ。そうなんです」
毛が柔らかそうで、特にあの尻尾が気になる。とはいえ、初対面の相手にいきなり手を出すのはやめておこう。
そう思っていたら、リリアが私の手元を見た。
「よかったら、触ってみますか?」
……気づいたら、手が少し前に出ていたらしい。
「……いいの?」
「ネムが嫌がらなければ」
そっと指を差し出す。
ネムはしばらく私の手を見つめてから、鼻先を近づけてきた。くんくんと、匂いを嗅いでいる。
逃げなかったので、指先で頭を撫でてみた。
柔らかい。
見た目以上だった。指が、毛の中に少し埋まる。
「……すごい」
「でしょう?」
リリアが、嬉しそうに笑った。
ネムはくすぐったそうに頭を振ると、またリリアの胸元へ潜り込んだ。しつこくして嫌われても困るので、手を引いておく。
……そういえば、私は何をしに来たんだったか。
夢を、調べに来たのだった。
目の前のリリアは元気そうだ。ネムとも仲がいいし、ここで困っている様子もない。
でも、寝台のリリアは目を覚まさないままだ。夢の中で元気だから大丈夫、とはいかないだろう。
私は庭を見回した。
「……ここ、広いね」
「ええ。私のお気に入りの庭なんです。お花もきれいでしょう?」
「……うん。向こうにも、何かある?」
さっき、生け垣の切れ目から見えた道を指さす。
「あちらにも、お花が咲いていますよ。よろしければ、ご案内しますね」
「……お願い」
リリアはネムを抱えたまま、私の隣へ来た。並んでみると、背の高さはあまり変わらない。
長椅子の横を通る時、背もたれの端に小さな傷があるのが目に入った。何かをぶつけたような、浅い傷だ。
お屋敷の庭の長椅子でも、傷くらいはつくらしい。
「こちらです」
生け垣の切れ目を抜けて、白い石の道へ入る。
道の脇には小さな花が並び、その先は生け垣に沿って続いていた。
歩きながら、リリアがネムのことを話してくれた。甘えたい時は、自分から寄ってくること。尻尾を撫でると喜ぶこと。
尻尾。さっき撫でておけばよかった。
……また、機会があれば。
「ハクさんは、どちらからいらしたんですか?」
「……遠いところ。今は、街のギルドにいる」
「ギルドに? 冒険者の方なんですか?」
「……ううん。泊めてもらってるだけ」
「ギルドに、お泊まりできるんですね。知りませんでした」
「……私も、知らなかった」
リリアが、くすりと笑った。
生け垣の角を一つ曲がると、少し先に長椅子が見えた。
……あれ。
さっきまでリリアが座っていたものと、よく似ている。
近づくにつれて、背もたれの端の小さな傷が見えてきた。さっき横を通った時に見たのと、同じ場所だ。
周りの花壇も、生け垣の切れ目も、見覚えがある。
「……リリア」
「はい?」
「……ここ、さっきの場所じゃない?」
リリアは長椅子を見て、穏やかに首を傾げた。
「そうでしょうか。この庭は、似たところが多いので。私も時々、分からなくなるんです」
そう言われると、この庭は似たような景色ばかりだ。
でも、角は一つしか曲がっていない。長椅子から離れるように歩いてきたはずなのに、どうして前に出てくるのだろう。
後ろを振り返る。
曲がってきた角と、その向こうに続く白い石の道が見えた。長椅子は、あの道のずっと後ろにあるはずだった。
「……リリア。もう一回、同じ道を歩いてみてもいい?」
「ええ。何度でもご案内しますよ」
何度でも、か。
……何度も戻ってくることにならなければ、いいのだけれど。




