第二夜 滅びゆく国の行方
少女がその店に辿り着いたのは、森を抜けた先だった。
夜の森は、昼間とはまるで違う顔をしている。
木々は高く、枝葉が空を覆い、月明かりさえほとんど届かない。
少女は何度も後ろを振り返った。
誰もいない。
けれど、追手が来ていないという確信はなかった。
長い耳が、かすかな音を拾う。少し遠くで枝が折れた。
「……っ」
少女は息を殺した。
胸元に抱えているのは、一通の手紙。
何度も握りしめたせいで、紙は皺だらけになっている。
その端には、乾いた血がついていた。
少女は走る、その足が痛いのか走り方は少しおかしい。
靴は片方が脱げている。
ドレスの裾は泥だらけだった。それでも走る。
どこへ向かっているのか分からない。
ただ、母から聞いた言葉だけを覚えていた。
『もし、どうしても困ったら――森の向こうにある店を探しなさい』
『店?』
『ええ。古い扉に、小さな鐘がついている店』
『そんな店、どこにあるの?』
『必要な人の前にしか、現れないのよ』
子供の頃に聞いた話だった。
母は冗談めかして笑っていた。
だから少女も、本気にはしていなかった。
けれど今は違う。
国が滅びようとしている。
父は死んだ。
母も行方が分からない。
城は炎に包まれた。
ーー頼れる人は、もう誰もいない。
「……お願い」
少女は呟いた。
「本当に、あるなら……」
そのときだった。
木々の向こうに、明かりが見えた。
少女は立ち止まった。
森の中にあるはずのない、暖かなオレンジ色の光。
ゆっくり近づいていく。
木々の間を抜ける。すると、そこに一軒の店があった。
古びた木造の建物。小さな窓。
そして、扉の横に吊るされた木製の看板。
白い文字で、『喫茶店 月と魔法』と書かれている。
「……あった」
少女は震える手で扉に触れた。
――カラン。
「いらっしゃいませ」
店の奥から声がした。
少女は恐る恐る顔を上げる。
カウンターの向こうに、一人の女性が立っていた。
長い黒髪。白いエプロン。そして、金色の瞳。
少女は目を見開いた。
「……魔女」
「まあ」
女は少し驚いたように笑った。
「私をご存じなのですね」
「母から聞きました」
「そうですか」
女はそれ以上何も聞かなかった。
「お疲れでしょう。どうぞ、お好きな席へ」
「……私の国が」
「はい」
「国が、大変なんです」
「ええ」
「助けてください」
少女の声が震える。
「私の国を、助けてください」
魔女は静かに少女を見る。
「まずは、何か温かいものを召し上がりませんか?」
「そんなことをしている場合じゃ――」
「お客様」
魔女の声は穏やかだった。
「ここでは、急いでいる方ほど、まずお茶を飲んでいただくことになっています」
「……どうして?」
「冷静に考えられなくなるからです」
少女は何も言えなかった。
魔女はカウンターの奥へ向かう。
「紅茶でよろしいですか?」
「……はい」
「甘いものは?」
「いりません」
「そうですか」
ゆったりとしたソファーに連れられ、白いカップが少女の前に置かれた。
紅茶だった。
淡い空銀色の液体。
湯気の中に、小さな光が浮かんでいる。
「……これ、何?」
「月夜の紅茶です」
「普通の紅茶じゃないんですか?」
「普通の紅茶ではありませんね」
少女は恐る恐る口をつけた。
温かい。ほんのり甘い。
それなのに、少しだけ胸が締めつけられるような味がした。
懐かしい。なぜか、そう思った。
「……お母さんの匂い」
「そうでしょうね」
「え?」
「この紅茶は、飲んだ人が一番安心できる記憶を少しだけ引き出しますから」
少女はカップを見つめた。
母が淹れてくれた紅茶。
幼い頃、雨の日に暖炉の前で飲んだ。
母はいつも笑っていた。
『大丈夫よ』
そう言っていた。
「……母さん」
少女の目から涙が落ちた。
「泣いても構いませんよ」
「でも……」
「この店では、泣くことを恥ずかしがる必要はありません」
少女は両手でカップを包んだ。
そして、ぽつりぽつりと話し始めた。
「私はアンナ。私の国は、アルヴェリア王国といいます」
ーー森と湖に囲まれた小さな国。
豊かな土地と魔法の技術で知られていた。
少女の父親は国王だった。母親は王妃。
少女自身は王女。
何も不自由のない暮らし。少なくとも、少し前までは。
「三日前、隣国の軍隊が国境を越えました」
「戦争ですか?」
「……はい」
「何が原因だったのです?」
「分かりません」
少女は首を振った。
「父は最後まで、戦争を望んでいませんでした」
それでも敵軍は攻めてきた。
国境の砦が落ちた。
次々と町が占領された。
王都へ迫る敵軍。そして昨日。城まで攻め込まれた。
「父は私を逃がしました」
少女の声が震える。
「お母様は?」
「分かりません」
「ご兄弟は?」
「いません」
「では、今この国であなたを待っている人は?」
少女は答えられなかった。
魔女はそれ以上尋ねなかった。
少女は胸元から一通の手紙を取り出した。
「これを見てください」
手紙には、王家の紋章が刻まれている。
しかし、紙の端は血で汚れていた。
「父が私に渡したものです」
魔女は手紙を受け取った。
封はすでに開いている。
中には短い文章が書かれていた。
『北の森へ向かえ
月のない夜、古い扉を探せ
魔女に会ったら、王家の指輪を渡せ
そして、国を救いたいと願うな』
少女は顔を上げた。
「最後の意味が分からないんです」
「そうでしょうね」
「父は、私に国を救ってほしくないんでしょうか」
「違います」
魔女は手紙をテーブルに戻した。
「あなたのお父様は、あなたに『国を救う』という願いを叶えてほしくなかったのでしょう」
「……どういう意味?」
「それは、あなた自身で考えることです」
少女は苛立った。
「私は国を救いたいんです!」
声が店内に響く。
「父も、母も、国民もみんな苦しんでいる!」
立ち上がる。
「私が王女だからです。私が何とかしなければいけない!」
魔女は黙っている。
「魔法が使えるんでしょう?」
「ええ」
「だったら、敵を倒してください!」
「それは嫌です」
「どうして!」
「私は、お客様の代わりに戦うことはしません」
「……!」
少女は拳を握った。
「じゃあ、何ができるんですか」
「お茶を淹れること」
「そんな……」
「それから、お客様が自分で答えを見つけるのを待つこと」
少女は俯いた。
しばらくして、椅子に座り直す。
紅茶はまだ温かかった。
「……私」
少女は小さな声で言った。
「本当は、怖いんです」
初めて、その言葉を口にした。
「王女だから、逃げちゃいけないと思っていました」
「ええ」
「国を救わなきゃいけないと思っていました」
「ええ」
「でも……」
少女は涙を拭う。
「私は、ただ母に会いたい」
魔女は微笑んだ。
「それが、あなたの本当の願いですか?」
「……分かりません」
「では、もう一杯飲みますか?」
「はい」
魔女が紅茶を注ぎ足す。
今度の紅茶には、さっきとは違う香りがした。
森の匂い。
雨の匂い。
そして、遠くから聞こえる鳥の声。
少女の脳裏に、別の記憶が浮かんだ。
母と二人で城の庭を歩いていた。
『あなたは王女です』
幼い少女は胸を張った。
『うん』
『でもね』
母はしゃがんで、少女の目を見た。
『王女である前に、一人の人間なのよ』
少女はその言葉を忘れていた。
いや。忘れたかったのかもしれない。
王女として生きることは、思っていたよりずっと苦しかった。
いつも正しくなければならない。
泣いてはいけない。
弱音を吐いてはいけない。
国民の前では笑わなければならない。
父も母も、きっと同じだった。
「……母さん」
少女は目を閉じる。
「私、どうすればいい?」
誰に向けた言葉なのか、自分でも分からなかった。
すると、魔女が言った。
「アンナ。あなたは『国を救う』と言いましたね」
「はい」
「国とは、何でしょう?」
「……え?」
「王城ですか?」
「違います」
「王様ですか?」
「違う」
「兵士ですか?」
「違います」
「では?」
少女は黙った。
しばらく考える。
「……人」
「ええ」
「そこに住んでいる人たち」
「そうですね」
魔女は立ち上がった。
「ならば、王城を取り戻す必要はありません」
「え?」
「あなたが守りたい人を守ればいい」
魔女は店の奥へ歩いていく。
そして、一つの小さな瓶を持って戻ってきた。
瓶の中には、淡い緑色の光が入っている。
「これは?」
「道標です」
「道標?」
「あなたが本当に守りたいものがある場所へ、道を示します」
少女は瓶を受け取った。
緑色の光が、ふわりと浮かび上がる。
そして店の奥へ向かって進んでいく。
「……あっち?」
「ええ」
「でも、何もありません」
「今は、です」
少女が店の奥へ歩いていく。
壁しかない。
しかし光が壁に触れた瞬間。
――キィ。
そこに扉が現れた。
「……!」
木製の小さな扉。向こう側から、風の音がする。
「これは……?」
「あなたの国へ続く扉です」
「え?」
「ただし、一つだけ条件があります」
少女は振り返った。
「何ですか?」
「あなたは王女として戻るのか、それとも一人の少女として戻るのか」
「……違いが分かりません」
「帰れば分かります」
少女は扉の前に立った。怖い。足が震える。
でも。もう逃げたくなかった。
「お会計は?」
少女が尋ねる。魔女は少し考える。
「では、王家の指輪を」
少女は驚いた。
父から渡された指輪。
国王の証。
これを渡してしまえば、自分は王女ではなくなる。
少女は指輪を見つめた。そして、ゆっくりと外した。
「……これでいいです」
魔女は指輪を受け取る。
「確かに」
「これで、私は王女じゃなくなるんですか?」
「いいえ」
「え?」
「肩書きというものは、指輪を外したくらいでは消えません」
魔女は笑った。
「ですが、自分が何者なのかは、自分で決められます」
少女は初めて笑った。
「……ありがとう」
「こちらこそ」
少女は扉を開いた。
冷たい風が吹き込んでくる。
遠くから、鐘の音が聞こえた。
アルヴェリア王国の鐘。少女は振り返る。
「また、来てもいい?」
「もちろんです」
「今度は、母さんと一緒に」
「ええ」
少女は頷いた。
そして扉の向こうへ消えていった。
扉が閉まる。店内は静かになった。
魔女はカウンターへ戻る。
少女から預かった王家の指輪を、棚の上に置く。
その隣には、いくつもの小さな品が並んでいた。
銀色の髪飾り。古い鍵。青い宝石。欠けた剣の柄。小さな羽根。
どれも、誰かがこの店に置いていったものだった。
「……また一つ、増えましたね」
魔女は一人、カウンターに残された王家の指輪を見つめる。
そのとき。
指輪の表面に、ほんの一瞬だけ光が走った。
魔女は目を細める。
「……なるほど」
何が見えたのか。
何を知ったのか。
それは誰にも分からない。
ただ、魔女はいつものように紅茶を一杯淹れた。
そして窓の外を見る。
そこには、少女が帰っていった世界の夜空が広がっていた。
魔女は微笑んだ。
ーー
アルヴェリア王国では、王都を取り戻すための戦いが始まった。
王女は剣を取った。
しかし、一人で戦うことはしなかった。
国民を逃がす道を作り、傷ついた兵士を集め、敵国との交渉を始めた。
彼女が最初に取り戻したのは、王城ではない。
人々が安心して眠れる小さな村だった。
それから一つ。
また一つ。
失われた町を取り戻していった。
戦争が終わるまでには、まだ長い時間が必要だった。
けれど。
彼女はもう、自分一人ですべてを背負おうとはしなかった。
王女だからではない。
自分自身がそうしたいと思ったからだ。
そして数年後。
アルヴェリア王国には、一つの奇妙な噂が残ることになる。
森の奥には、どんな願いでも叶えてくれる魔女の喫茶店がある。
ただし。
その店で本当に願いを叶えてもらった者は、一人もいない。
なぜなら魔女がくれるのは、願いを叶える魔法ではなく――自分で願いを叶えるための、ほんの少しの勇気だから。
ーー
その頃。
遠く離れた別の世界では、一人の男が古びた扉を見つめていた。
扉の横には、小さな木の看板。
白い文字で、こう書かれている。
『喫茶店 月と魔法』
男は深く息を吐いた。
「……ここは」
扉が開く。
――カラン。
「いらっしゃいませ」
金色の瞳が、静かに男を見つめる。
「それでは、お客様」
魔女は微笑んだ。
「まずは何か、お召し上がりになりますか?」
今夜もまた。
誰かの人生が、この店から始まろうとしていた。




