第三夜 勇者の叫び
店内を包んでいたのは、どこか懐かしく、そしてひときわ香ばしい深い森の匂いだった。
カラン。
涼やかな鐘の音が店内に響く。
扉をくぐったのは、一人の男。
身につけているのは、美しい意匠が施された銀の胸当て。重厚な白銀の剣。
マントには金糸で精巧な紋章が刺繍されている。
一目で、それが尋常ならざる立場にある者の装具だと分かった。
男のまだ二十代半ばといった若さだった。
整った顔立ち、力強い眼差し。
誰もが憧れ、讃えるであろう「英雄」の面影。
しかし、その瞳の奥には、どこか絶望に似た深い疲労が沈んでいた。
「いらっしゃいませ」
カウンターの向こうから、澄んだ声が届く。
金色の瞳をした幼い少女が静かに微笑んでいた。
「……ここは、どこだ?」
男は警戒したように店内を見回した。
五つほど並んだ不揃いなテーブル。
壁を飾る針のない時計。青く揺らめく暖炉の炎。
そして、何より異様なのは、窓の外に広がる夕暮れ。
彼が先ほどまでいた、王都の煌びやかな宴の気配が、一切途絶えていることだった。
「喫茶店ですよ」
少女はそう言って、カウンターに木製のメニューを置いた。
「ようこそ、お客様。……いえ、勇者アレン様」
男――アレンは息をのんだ。
「なぜ、俺の名を……」
「この店には、人生の道に迷われた方が辿り着きます。そして、今のあなたほど『道に迷っている』お顔をされた方は、滅多にお目にかかれませんから」
アレンは苦笑した。
その笑顔には、自嘲の色が強く滲んでいた。
「迷っている、か。……世界を救った男が迷子とは、笑えない冗談だな」
アレンは重い足取りでカウンターの席につき、腰を下ろした。
鎧がかすかに軋む音がする。
「王都では今頃、俺を探して大騒ぎになっているはずだ。魔王を討ち取り、世界に平和をもたらした『救世の勇者』の祝勝会だからな。王からは最高位の爵位と広大な領地を賜り、民からは神のように崇められている」
「結構なことではありませんか」
「……ああ、誰もがそう言う。俺は『世界で一番幸せな男』なのだと。誰もが俺を羨ましがり、万歳を叫ぶ」
アレンは自分の手を見つめた。
かつては畑を耕し、木を削っていた、ごく普通の青年の手。
それが今や、血と魔法のタコにまみている。
何千、何万という人々の期待を背負わされた「勇者の手」になっていた。
「俺は……疲れたんだ」
アレンは搾り出すような声で呟いた。
「もう嫌なんだ。英雄と呼ばれるのも、期待されるのも、他人の人生を背負わされるのも。俺はただ、村で木こりをしていた頃の、あの普通の生活に戻りたい。誰にも知られず、ただ静かに、自分のためだけに生きたいんだ」
それが、彼の本当の願いだった。
魔王を倒せば自由になれると思っていた。
だが、待っていたのは「永遠に勇者であり続けること」を強要される日々だった。
人々は彼に永遠の聖人であることを求め、少しの弱音さえ許さない。
「頼む、魔女」
アレンは少女に向かって頭を下げた。
「この店なら、魔法が使えるんだろう? 俺の存在を、人々の記憶から消してくれ。俺を、ただの『アレン』という名もない男に戻してくれ」
少女は静かに彼を見つめていた。
その金色の瞳は、責めるでもなく、哀れむでもなく、ただ透明に彼の心を見透かしているようだった。
「まずは、何かお召し上がりになりますか?」
「……話を聞いていたのか? 俺は――」
「聞いておりますよ。ですが、当店ではまずなにかお飲みいただくのがルールです」
手際よく白い陶器のカップを用意し、そこに黒い液体を注いだ。
香ばしく、どこか焦げたような独特の香りが立ち上る。
「……なんだ、これは? 紅茶じゃないのか」
「コーヒーです」
カップを彼の前に置いた。
「お気に召すとよろしいのですが」
アレンは眉をひそめながら、カップを持ち上げ、一口口をつけた。
「――っ! 苦い……!」
アレンは思わず顔を顰めた。
「私の特別ブレンドなのですが、いかがでしょうか?」
「なんだこの飲み物は……泥水のように苦いじゃないか!」
「お口に合いませんでしたか?」
「ああ、嫌いだ。俺は昔から、こういう苦いものは苦手なんだ」
リラは小さく微笑み、自分の前にも同じコーヒーを置いた。
「苦いでしょう?」
「……ああ、信じられないくらいな」
「人生も、似たようなものですよ」
リラは温かいカップに両手を添え、静かに語りかけた。
「遠くから見ているときは美しく、芳しく思えても、実際に口に含まされてみれば、あまりの苦さに眉をひそめてしまう。……あなたが手に入れた『勇者』という人生も、まさにそのようなものではなかったのではありませんか?」
アレンは言葉を詰まらせた。
「あなたは『昔の普通の生活に戻りたい』とおっしゃいました。……ですが、アレン様。あなたは本当に、あの村に戻れば幸せになれるとお思いですか?」
「なれるさ! あの頃は苦労も多かったが、こんな重圧はなかった!」
「ええ。ですが、今のあなたは『魔王を倒した記憶』を持っています。村に戻り、穏やかな日常を送る中で、もし隣町が山賊に襲われたら?」
「……」
「もし誰かが病で苦しんでいたら? ……あなたはその腕力と知恵を知りながら、ただの『木こりのアレン』として、それを無視して通り過ぎることができますか?」
「それは……」
「できないでしょうね」
リラは優しく、だが断固とした声で言った。
「あなたは根っからの善人です。だからこそ、期待に応え続け、疲れ果ててしまった。一度知ってしまった力と責任を、人はそう簡単に脱ぎ捨てることはできません。過去に戻ったところで、あなたはきっと『何かをなせたはずの自分』に苛まれ、結局は別の苦しみを抱えることになる」
アレンは深く俯いた。
手の中のカップから立ち上る湯気が、彼の視界を揺らす。
「俺は困った人に手を差し伸べるだろうよ」
分かっていたのだ。心の中で本当は。
「ええ。あなたはそういう方でしょうね」
過去に戻ったところで、自分はもう「あの頃の何も知らないアレン」には戻れないかもしれないのだと。
「……じゃあ、俺はどうすればいいんだ?」
アレンの声が震えた。
「俺は、どうやって生きていけばいい? 勇者としての俺は、もう限界なんだ……!」
「今夜は、ここでゆっくりとお過ごしなさい」
少女は優しく言った。
「ここは、どの世界とも繋がっていない、ただの小さな喫茶店です。ここには『勇者アレン』を求める者は一人もいません。王も、民も、魔王すらもいない。……ただの一人の青年がいるだけです」
少女の金色の瞳には、何の期待も、何の要求もなかった。ただ、一人の客として自分を受け入れてくれている。
アレンは肩の力を抜いた。
甲冑のベルトを外し、重い剣を壁に立てかける。
そして、深く、深く息を吐いた。何年ぶりかも分からない、本当の深呼吸だった。
「これを脱いだら俺は勇者ではないのだ」
自分に言い聞かせているようだった。
「ええ。あなたはただのアレン」
「……砂糖はあるか?」
「もちろん」
少女が出した角砂糖を、アレンはふたつ、コーヒーに落とした。スプーンでかき混ぜ、もう一度口をつける。
「……まだ苦いな」
「ふふ、甘くしすぎると、今度は風味が損なわれますから」
その夜、アレンは店で一晩を過ごした。
王都での苦労話、故郷の村のバカげた思い出、昔好きだった少女のこと、くだらない冗談。
少女ははただ静かに相槌を打ち、彼の言葉に耳を傾けた。
「勇者」としてではなく、「ただのアレン」として語る時間。
それは、彼が何よりも欲していた、かけがえのない時間だった。
やがて、窓の外が薄明るくなり始めた。
暖炉の火が静かに小さくなり、壁の蝶がカランと音を立てた。
アレンは立ち上がり、壁に立てかけてあった剣を取った。
その動きに、昨日のような重苦しさはない。
「……もう、お行きになりますか?」
「ああ」
アレンは自分の手を見つめた。
傷だらけの手。だが、もうその手を嫌悪してはいなかった。
「俺は、王都へ戻る」
「『勇者』としてですか?」
「……そうだ」
アレンはまっ直ぐに少女を見た。
その瞳から、迷いの影は消えていた。
「俺は今まで、『勇者にならされた』と思っていた。国に選ばれ、人々に担ぎ上げられ、逃げ場をなくして勇者をやっていたんだと。……だが、違ったんだろう。魔王の前に立ったとき、剣を振るうと決めたのは、他の誰でもない俺自身だったんだ」
アレンは微笑んだ。
初めて見せる、晴れやかな笑顔だった。
「嫌になったら、またここに来て愚痴をこぼすよ。……でも、これからは『自分で選んだ道の勇者』として生きる。誰のためでもない、俺が守りたいと思ったものを守るために」
アレンは腰のポーチから、小さな木の彫刻を取り出した。
彼がかつて木こりだった頃、初めて自分のナイフで削った小さな小鳥の置物だ。
お守りとしてずっと持ち歩いていた。
初恋のあの子には渡せなかった。
「お代だ。……金銭じゃダメなんだろ?」
少女はそれを受け取り、愛おしそうに眺めた。
「ええ、最高の対価です。大切に飾らせていただきますね」
アレンは扉へ向かった。
「……おい、魔女」
「はい?」
「そのコーヒー……やっぱり苦くて嫌いだったよ」
「ふふ、次は飛び切り甘いココアをご用意しておきますね」
アレンは笑い、扉を開けた。
「君はどこか……故郷の初恋の子に似ていたよ」
カラン。
涼やかな鐘の音が響き、勇者はまばゆい光の中へと帰っていった。
少女は彼が置いていった木彫りの小鳥を、棚の上に並べた。
王家の指輪、そして木の小鳥。
「『自分で選ぶ』……それが、人が最も強くあれる魔法ですね」
静かに呟き、空になったカップを下げた。
その日の夜、商店街の空き家に灯る明かりは、いつもより微かに紫がかっていた。
店内を満たしていたのは、甘く香ばしい、焼きたてのスポンジ生地の匂い。
カウンターでは、真っ白な生クリームと真っ赤なビーツをあしらった、一皿のショートケーキを仕上げていた。
カラン。
重厚な鐘の音が響く。
扉を開けて入ってきたのは、漆黒の外套を纏った大きな影だった。
頭部からは禍々しい二本の角が生えている。
その身から漏れ出る圧倒的な威圧感。
それは店内にある青い炎を一瞬で小さく揺らめかせた。
人類の敵。災厄の象徴。
――魔王。
からはいずれかの世界の魔王。
真っ赤な瞳で店内を見回すと、重々しい足取りでカウンターへと近づいてきた。
その歩みごとに、床が微かに震える。
「……ここが、界境の喫茶店か」
地の底から響くような重低音。
魔女は少しも怯むことなく、いつものように穏やかな笑みをたたえて迎えた。
「いらっしゃいませ。……お客様、ご注文は?」
魔王は漆黒の鋭い爪がのびる指先で、メニューの一点を指さした。
世界を滅ぼす恐怖の王が、その恐ろしい口から発した言葉は――
「……ショートケーキを、一つ頼む」
魔女は黄金の瞳を瞬かせた。
「ショートケーキ、でございますか?」
「そうだ。……何か問題でもあるか?」
「いいえ。……甘いものはお好きで?」
魔王は不機嫌そうに鼻を鳴らし、腕を組んだ。
「食べたことがないのだ。……我が魔界には、このような愛らしい甘味を食す習慣がない」
魔王の赤い瞳が、魔女の手元にある出来立てのケーキに、どこか子供のような好奇心を帯びて注がれていた。
「噂に聞く甘味。異世界の味とは……」
世界を脅かす絶対的な悪。
誰もがそう信じて疑わない存在が、今、ただ一皿のケーキを前にして、静かにその口を開こうとしていた。




