第9話 薔薇園の伯爵
冬の最初の風が、窓を叩いた。
クラウスは執務机の上に広がる書類の山を見つめていた。どれも悪い知らせだ。穀物庫の残量報告。近隣領地への買い付け交渉の不調。税収の下方修正。領民の転出届。
転出届。
この一月で、三家族が近隣の領地に移った。いずれも農夫の家だ。「冬を越せる見通しが立たない」と、長年この土地を耕してきた者たちが荷をまとめて出ていく。残った者も、穀物庫の前で不安そうに顔を見合わせている。
使用人が、領民の声を伝えに来る。最近はそれが朝夕の日課になった。
「『リーネ様がおられた頃は、備蓄に困ったことはなかった』と申しております」
「もういい」
「『改良種の畑を元に戻してほしい。あの麦があれば冬は越せた』とも」
「元に戻せるなら戻している。種がないんだ」
声が荒くなる。使用人が一歩引き、頭を下げて去った。
種がない。改良三号の原種は、リーネが持ち出した。あの腰の麻袋の中身。契約上は個人の研究資産で、法的に取り返す手段はない。通常種は蒔いたが、収量は改良種の半分にも満たない。来年も同じことが起きる。再来年も。
窓の外に、薔薇園が見える。冬囲いの藁で覆われ、深紅の花はもう見えない。だが造園業者は季節を問わず手入れに来る。薔薇は麦より手がかかる。麦より金がかかる。そして、麦と違って一粒の税収も生まない。
◇
昼過ぎ、セリーヌが執務室に来た。
いつもの甘い笑顔ではなかった。眉が寄り、唇が薄く引かれている。手には紙束──造園業者と衣装店と宝石商からの請求書。
「クラウス様。先月の支払いが、まだ届いていないと業者から催促が来たわ」
「……少し待ってくれ。今、手元が」
「手元?」
セリーヌの声が、一段冷えた。
「ヴェルナー伯爵家の当主が、手元の資金に困るの? 私をこの家に迎えると仰ったのはあなたよ。薔薇園も、衣装も、すべてあなたが約束したことだわ」
「分かっている。だが今季の収穫が──」
「収穫のことは分からないわ。お金の話は苦手なの。でも、約束は約束でしょう?」
セリーヌが請求書を机に置いた。三枚。重なった紙の下に、穀物庫の報告書が隠れる。
「東屋の建設費も、まだよ」
「──東屋は、少し延期してもらえないか」
「まあ。ブレヒト侯爵夫人をお招きする約束は、もうしてしまったのに」
微笑みが戻る。だが、目の奥の温度が違う。以前は甘かった目が、今は何かを計っている。何を──クラウスには分からない。分かりたくもなかった。
「必ず払う。少し時間をくれ」
セリーヌは「ええ」と頷き、出ていった。扉が閉まる音が、いつもより硬かった。
◇
夕刻。使用人が、封書を運んできた。
白い封筒に、王宮の紋章の封蝋。赤い蝋が、燭台の光に鈍く光っている。
封を切る。便箋は短く、文面は官僚的だった。
──ヴェルナー伯爵殿。
貴領において実施中の王命飢饉対策研究(改良種栽培事業)について、進捗報告書が未提出である。速やかに提出されたい。なお、本研究に供された農地の使用状況についても報告を求める。
王宮農政局監査官 ハインリヒ
紙を持つ指が、震えた。
王命研究。飢饉対策。報告義務。
リーネが、去る前に言っていた。「王宮への報告義務がございます」と。あの日、執務室で。書類から目を上げずに「たかが麦だろう」と遮った、あの日。
報告書を提出せよ。農地の使用状況を報告せよ。
──農地は、薔薇園になっている。
王命で指定された研究農地を、私的に花園に転用した。改良種の原種は失われた。研究は完全に停止している。進捗など報告できるはずがない。
便箋を、二度読んだ。三度読んだ。読むたびに、「王命」の文字が喉の奥に沈んでいく。
王命の妨害。そう取られかねない。いや──そう取られる。王命で指定された農地を、届け出もなく私的に転用した。改良種を失い、研究を停止した。これを「妨害」と呼ばずに何と呼ぶのか。
爵位に関わる。
その認識が、ようやく腹の底に落ちた。冷たい汗が、背筋を伝う。
──リーネを連れ戻せばいい。
そう思った。あの女が戻って研究を再開すれば、報告書は書ける。原種があれば畑は復元できる。時間はかかるが、まだ間に合うかもしれない。
「子爵家に使者を出せ。リーネを──ファルケン家の娘を呼び戻す。こちらの非を認めてもいい。条件は向こうの言い分を聞く」
使用人が走った。
返答は、翌日の夕刻に届いた。冷たく、短い報告だった。
「リーネ様は、すでにファルケン子爵邸にはおられません。北方辺境伯領に移られたとのことです」
──北方辺境伯。
辺境伯ヴァルデン。あの、北の領主の元に。
「なぜだ」
「改良種の研究のために招かれた、と」
椅子の肘掛けを、握り締めた。革が軋む音がした。
あの女は、種を持って出ていった。記録を持って出ていった。そして、別の領地で研究を続けている。あの腰の麻袋の中身が──あの一握りの種が、今、別の土地で芽を出しているのか。
「……戻らないか」
「子爵殿は『娘は自分の意思で行った先にいる。連れ戻す権限はこちらにはない』と」
使用人が下がった。
執務室に一人、残される。窓の外は暗い。冬の夜は早く来る。薔薇園の冬囲いが、月明かりの中で白く浮かんでいる。
机の上で、王宮の督促状と、セリーヌの請求書と、穀物庫の報告書が重なっている。三枚の紙。三つの問題。どれも、一人では解けない。
リーネは確かに言っていた。
報告義務がある、と。収量が落ちる、と。種がなくなる、と。あの執務室で、書類の向こう側から、静かな声で。
聞こえていた。聞こえていて、「たかが麦だろう」と言った。
彼はただ──聞いていなかっただけだ。
◇
夜。セリーヌは、客室の鏡の前で髪を梳いていた。
銀の櫛が、栗色の巻き毛を滑る。鏡の中に映る自分の顔は、まだ若く、まだ美しい。
クラウスの領地は傾いている。収穫の失敗。備蓄の不足。領民の転出。そして今日、王宮からの封書。あの封蝋を見たときのクラウスの顔は、青を通り越して白かった。
造園業者への支払いが滞っている。衣装の代金も。東屋の建設費など、もう出てこないだろう。
──この人、もう駄目かもしれない。
櫛が止まる。鏡の中の目が、冷たく光った。
薔薇が好きだと言った。麦畑より薔薇が相応しいと言った。それは本当だ。でも、農地を潰せと命じたのはクラウスだ。判断したのはクラウスだ。
私は花が好きだと言っただけ。
銀の櫛を置き、便箋と羽根ペンを取り出す。書く宛先は、ブレヒト侯爵夫人。東屋のお招きの件──ではなく、もう少し先の話。もしヴェルナー家を離れることになった場合に、頼れる先があるかどうか。
薔薇は美しいが、枯れる庭には長居できない。
セリーヌは、そういう女だった。




