第10話 報告書は嘘をつかない
王宮農政局の書簡が届いたのは、収穫祭から十日後だった。
封蝋は赤。王宮の紋章入り。ジーク様が辺境伯領の収穫報告書を提出した返答として届いたものだが、宛名は私になっていた。
──リーネ・ファルケン殿。
辺境伯領より提出された改良種収量報告を受領した。本品種は、ヴェルナー伯爵領にて王命飢饉対策研究として登録されている改良三号と同一品種と思われる。ついては、同研究の経緯について、研究者本人より直接報告を求めたい。
王宮農政局監査官 ハインリヒ
便箋を置く。指先が、わずかに冷たかった。
王命研究。登録されていた品種名。王宮は、辺境伯領の報告書とヴェルナー領の記録を照合したのだ。同じ品種が、片方の領地で成果を出し、もう片方の領地からは進捗報告すら届いていない。その矛盾に、気づいた。
「告発ではない」
ジーク様が言った。書簡を読み終えた辺境伯は、腕を組んだまま窓の外を見ている。
「あなたは事実を報告するだけだ。何が起きたかを、記録に基づいて話せばいい」
「……ええ。分かっています」
告発するつもりはない。恨みで誰かを追い詰めたいわけでもない。ただ、王宮が経緯を求めている。研究者として、聞かれたことに答える。それだけだ。
研究ノートを棚から下ろす。四冊の土壌台帳。二冊の種籾管理ノート。病害記録帳。三年分の記録が、革紐で綴じられたまま、ここにある。
この紙束が、私の三年間だ。そして同時に、ヴェルナー領で何が行われていたかの証拠でもある。
◇
王宮農政局は、王都の東棟にあった。
石造りの廊下を歩く。靴音が硬く響く。ジーク様が同行を申し出たが、「報告は私一人で行います」と断った。ジーク様は頷いた。「分かった。待っている」と一言だけ。
監査官ハインリヒは、五十がらみの痩せた男だった。書類に埋もれた執務机の向こうで、眼鏡の奥の目が私を値踏みしている。感情の読めない目だ。数字だけを信じる人間の目。
「ファルケン殿。改良三号の研究経緯を、時系列でお聞かせ願いたい」
「はい」
ノートを開く。記録に沿って、話す。
「第一年度。王宮農政局の飢饉対策指令に基づき、ヴェルナー伯爵領の実験農地にて、通常種AとBの交配を開始しました。目的は、収量と耐病性の向上です」
「続けてください」
「第二年度。交配種から耐病性の高い個体を選別し、改良二号として固定。同時に、耐寒品種への派生研究を開始しました」
ハインリヒの羽根ペンが、紙の上を走っている。速記に近い筆致だ。一言も漏らさない、という意思が見える。
「第三年度。改良三号として収量安定化の実証段階に入りました。今季の収穫で最終データが取れる予定でした」
「予定でした、と」
「はい。実証段階に入った直後に──実験農地が薔薇園に転用されました」
ペンが、止まった。
ハインリヒが顔を上げる。眼鏡の奥の目が、初めて感情の色を帯びた。驚きではない。確認だ。今聞いた言葉が、自分の推測と一致したことを確かめる目。
「薔薇園」
「はい。伯爵の判断により、実験農地が観賞用の薔薇園に作り替えられました。改良種の原種は農地の破壊と共に失われました」
「王宮への転用届は」
「提出されておりません。私は転用の決定を事前に知らされておらず、報告義務がある旨を伯爵に伝えましたが──」
言葉を切る。これ以上は私の推測になる。事実だけを話す。
「伯爵はどのように」
「『たかが麦だろう』と仰いました」
ハインリヒのペンが、また止まった。短い沈黙の後、ペンが動き直す。今の言葉も、記録されたのだろう。
「私が個人資産として保管していた種籾のみが残り、それが現在辺境伯領で栽培されている改良三号と同一のものです。研究記録はすべてここにあります」
四冊のノートを、机に並べた。ハインリヒが一冊を取り、頁を捲る。日付、数値、土壌条件、品種の特性。三年分の泥のついた記録を、監査官の乾いた指が辿っていく。
「──精密な記録だ」
短い評価だった。それ以上は言わない。けれど、ペンを置いた手が、ノートの背表紙をそっと押さえた。記録の価値を、この人は分かっている。
「ヴェルナー伯爵領への現地監査を実施します」
ハインリヒが言った。淡々と。感情を挟まない、官僚の声で。
「王命研究に供された農地の現況と、改良種の管理状況を確認する必要があります。ファルケン殿にも、研究者として立ち会いを求めます」
「──畏まりました」
◇
王宮を出ると、冬の陽が低く傾いていた。
門前の馬車の傍に、ジーク様が立っていた。外套の襟を立て、白い息を吐いている。待っていてくれたのだ。寒いのに。
「終わったか」
「はい。監査が、ヴェルナー領に入ります。私も立ち会うことになりました」
「……一人で行くのか」
「自分の研究の始末は、自分でつけます」
ジーク様が黙った。反論はしない。代わりに行くとも言わない。ただ、少しの間を置いて頷いた。
「必要があれば、辺境伯領の収穫データを正式に提出する。俺にできるのはそれだけだ」
それだけ、と言うが、それは充分すぎる助力だった。数字は嘘をつかない。辺境伯領の収穫量が公式に記録されている。同じ種が、同じ年に、どれほど違う結果を出したか。その数字が、何よりも雄弁な証拠になる。
「ありがとうございます、ジーク様」
「礼はいらない。あの麦を育てたのはあなただ」
馬車に乗る前、ジーク様が外套の内側に手を入れた。あの日渡した金色の穂を確かめるように。見えたわけではない。けれど、その仕草がそうだった。
辺境伯邸に戻り、種苗庫に寄った。
重い扉を開けると、乾いた穀物の匂いがした。暗い室内に、棚が整然と並んでいる。棚いっぱいに、麻袋が詰まっていた。
あの日、腰に下げて屋敷を出た一握りの種籾。それが今、この棚を埋めている。一袋ずつ、品種名と世代と採取日が私の字で書かれたラベルが貼ってある。改良三号・第三世代・耐寒選別株。改良三号・第三世代・酸性耐性株。来季の作付け用。再来季の予備。原種保存用。
一握りから、これだけの未来が生まれた。
手を伸ばし、最初の袋に触れた。さらり、と中身が鳴る。あの音。ヴェルナー家を出た朝、馬車の中で膝の上の麻袋が立てた音と、同じ音。
同じ種が、同じ年に、これほど違う結果を出した。
監査官の書類には、二つの領地の収穫量が並ぶことになる。辺境伯領──過去最高。ヴェルナー領──過去最低。その差を生んだのは天候でも運でもない。種を恥と呼んだか、尊いと呼んだか。それだけの違いだ。
報告書は、嘘をつかない。




