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泥まみれの妻が恥でしたら、どうぞ薔薇だけで冬をお越しください  作者: 九葉(くずは)


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第11話 麦と薔薇の監査

 ヴェルナー領の空は、冬の灰色だった。


 馬車を降りると、冷たい風が頬を叩いた。半年前、この門を出ていった朝と同じ風だ。あのときは秋の始まりだった。今は、冬の只中。


 隣にハインリヒ監査官、その後ろにジーク様。私は記録ノートの束を抱えて立っている。告発者ではない。研究者として、立ち会いを求められた者。それだけだ。


 門の内側に、クラウス様が立っていた。顔色が悪い。半年で頬が削げ、目の下に濃い影が落ちている。正装しているが、上着の肩が微かに合っていない。痩せたのだ。その隣にセリーヌ嬢。薄い微笑みを貼りつけているが、立ち位置がクラウス様から半歩離れている。後ろに先代伯爵のディートリヒ卿。腕を組み、石のような顔。使用人が数名、壁に張りつくように並んでいた。


 誰も、私を見なかった。監査官の封蝋の赤だけを見ていた。



    ◇



 穀物庫の扉が開く。


 ハインリヒが中を見回した。棚は、ほぼ空だった。麦袋が数えるほど。干し肉の束は端の棚に一列。塩漬けの甕は半分以上が空。


 監査官は何も言わず、手帳に数字を書き付けた。


「次に、旧実験農地を」


 一行が外に出る。冬枯れの畑を抜け、屋敷の南側に回ると──薔薇園があった。


 冬囲いの藁が外され、剪定されたばかりの薔薇の株が整然と並んでいる。花はない。冬だから。だが、庭としての手入れは行き届いている。石畳の小道、鉄の柵、東屋の骨組み。金がかかっている。一目で分かる。


 そして、その薔薇園の向こうに、荒れた畑が広がっていた。かつて改良種以外の通常種が植わっていた区画。刈り残された茶色い株が冬風に揺れ、雑草が畝を覆っている。排水溝は泥で詰まり、石灰を入れた形跡もない。放棄された畑の匂いがする。乾いた、死んだ土の匂い。


 同じ領地の中で、薔薇だけが手入れされ、麦が捨てられている。


 ハインリヒが、薔薇園と荒れた畑を交互に見た。長い沈黙。手帳のペンは動かさず、目だけで現場を記録している。それから、クラウス様に向き直った。


「これが、王命研究に供された農地ですか」


 静かな声だった。静かだからこそ、冷たかった。


「──いえ、これは、農地の一部を観賞用に……」


「王宮への転用届は提出されていません。研究農地の使用変更には、農政局の承認が必要です」


 クラウス様の唇が、わずかに震えた。



    ◇



「農政官に管理を任せていた。通常の農法で──」


「改良種の管理資料は」


「前任の──リーネが個人資産として持ち出した。あの女が記録を持ち逃げしたから、こうなったんだ」


 ハインリヒのペンが止まる。眼鏡の奥の目が、手元の書類に落ちた。


「ファルケン殿の研究記録は、婚約契約書の帰属条項に基づく個人資産です。当局でも確認済みです。持ち出しに法的問題はありません」


 クラウス様の弁明が、一つずつ、紙で切られていく。証拠と制度と記録で。声を荒げるまでもなく。


「では、改良種の原種は現在どこに」


「……ない。この領地には、もう」


「辺境伯領には、同一品種の原種および増殖分が種苗庫に保管されています。同品種の今季収量は、辺境伯領において過去最高を記録しました」


 ハインリヒが、二枚の報告書を並べた。辺境伯領の収穫量。ヴェルナー領の収穫量。同じ年。同じ品種の血統。数字の差が、白い紙の上で、何よりも雄弁だった。



    ◇



「私は薔薇が好きだと言っただけですわ」


 セリーヌ嬢の声が、薔薇園の脇に響いた。


 クラウス様が振り返る。セリーヌ嬢は、監査官のほうを向いていた。クラウス様ではなく。


「農地を潰せと命じた覚えはありません。すべて伯爵ご自身のご判断です。私は、花が好きだと申し上げただけ」


 笑みはない。甘えた口調も消えている。あの花のような唇が、冷えた声で事実だけを述べている。


 クラウス様が何か言いかけた。「セリーヌ、お前が薔薇を──」。だが最後まで言えなかった。セリーヌ嬢はもう、こちらを見ていない。


「クラウス」


 背後から、低い声。ディートリヒ卿だった。先代伯爵は、息子を見なかった。監査官に向かって一礼し、平坦な声で言う。


「愚かな息子の独断です。先代としても、まことに遺憾に存じます。家としては、当主の判断に関知しておりませんでした。家名の存続について、別途ご相談させていただければ」


 家名の存続。息子ではなく、家名を守りに来たのだ。


 クラウス様の目が、父親の背中を追った。ディートリヒ卿は振り返らない。セリーヌ嬢は三歩離れた場所で爪先を見ている。使用人は壁際で沈黙し、農政官は目を逸らしている。


 広い庭に立っているのに、クラウス様の半径一歩に、誰もいない。つい半年前まで、夜会で取り巻きに囲まれていた人だ。セリーヌ嬢の腕を取り、社交界の中心で笑っていた人だ。


 その人が、冬の薔薇園で、一人で立っている。


「待ってくれ──俺は……俺は悪くない。あの女が出て行ったから──」


 声が震えている。体面を保つ余裕は、もうなかった。唇の端が引き攣り、目が泳いでいる。助けを求めるように周囲を見回すが、視線を合わせる者はいない。セリーヌ嬢は背を向け、ディートリヒ卿は石のように動かない。


「戻って来い、リーネ! お前がいないから、こうなったんだ!」


 叫びが、冬の薔薇園に響いた。


 私を見ている。半年前に「勝手にしろ」と言った目で、今度は「戻れ」と言っている。


 ──ああ。


 この人は、最後まで分かっていない。私がいたからではない。私を蔑んだから、こうなったのだ。


「泥にまみれる妻は、もうこの領地にはおりません」


 静かに言う。声は震えない。怒りでもない。恨みでもない。ただの事実だ。


 クラウス様の顔から、血の気が引いていくのが見えた。半年前、「勝手にしろ」と窓の外を見ていた横顔が、今は正面からこちらを向いている。口が開く。何か言おうとして、声にならない。喉が、乾いた音を立てた。


 オットーが、監査官の前に進み出た。しわがれた声が、冬の空気を震わせる。


「リーネ様は、毎日泥にまみれて、あの種を育てておられました。あの畑がなくなってから、この土地は変わりました。わしは五十年この土を耕してきたが──あの方ほど、この土地を愛した人を知りません」


 クラウス様が、一歩後ずさった。老農夫の声から逃げるように。膝が揺れている。支えるものが何もない。愛人も、父も、使用人も、誰一人として手を差し出さない。


 老農夫の証言が終わると、監査官がペンを置いた。


 ハインリヒが、クラウス様に向き直る。


「王命研究の妨害、および領地管理義務の懈怠により、爵位と領地に関する審問を開始します。追って王宮より正式な召喚状を送達いたします」


 クラウス様の膝が、折れた。


 冬の地面に片膝をつき、そのまま動けなくなっている。「審問」という言葉が、目の前の男の背骨を砕いたように見えた。手が地面を掻く。泥がつく。あれほど嫌っていた泥が、今、この人の手についている。


 けれど、その泥には何の価値もない。この人の泥は、何も育てない。


 風が吹いた。薔薇園の冬囲いの藁が、一枚めくれた。その向こうに、剪定された薔薇の枝が痩せた指のように伸びている。


 ジーク様が、荒廃した農地を一瞥した。それから、クラウス様に向かって低く言った。


「泥にまみれる者がいなくなった畑は、こうなるのですよ、ヴェルナー卿」


 短かった。けれど、それ以上は要らなかった。


 ジーク様が私のほうを向く。「行こう」と、目で言った。声ではなく。手を差し出しもしない。ただ、一歩先に歩き出して、私が追いつくのを待っている。


 歩き出す。研究ノートの束を抱えたまま。振り返らない。


 背中に、クラウス様の声が追いかけてくる。何か叫んでいる。「待て」か「戻れ」か。もう、聞こえなかった。聞く必要がなかった。


 監査官が最後に見たのは、荒れ果てた麦畑の隣で、場違いに手入れの行き届いた薔薇の庭だった。


 薔薇は、冬を越す力を持たない。

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