第12話 この土地で、種を蒔く
春の土は、温かかった。
指を入れると、冬を越えた土が柔らかく受け止める。霜が解け、地中の水が動き出している。北方の春は遅い。南では花が咲く頃、ここではようやく雪が消える。だが来る。必ず来る。待てば、来る。
試験農地の畝を歩く。冬を越した改良三号の株が、枯れ色の中からわずかに緑を覗かせている。根は生きていた。北方の長い冬を、零下の土の中で、この種は耐え抜いた。第三世代の耐寒性能が、数字ではなく命として証明されている。
腰の麻袋に手を当てる。今季蒔く種籾が入っている。昨秋の収穫から選別した、第四世代の種。一握りだった原種が、世代を重ねるたびに強くなっていく。この土地に合わせて、この土地のために。
朝の空気は冷たいが、もう冬の硬さはない。鼻の奥に、土が解ける匂いがする。始まりの匂い。
マルタが水と朝食の残りを持ってきてくれた。堅焼きパンと、干し果物。畑の端で齧る朝食は、もう日課になっている。
「お嬢様、お手紙です。ファルケン子爵家から」
父の手紙を開く。短い便箋に、父らしい簡潔な文章。
──ヴェルナー伯爵領は王宮に召し上げられた。クラウス・ヴェルナーは爵位を剥奪され、一族は辺境の末端領地へ移封された。領民の大半は近隣に散ったが、オットー翁は残って次の領主の農政を手伝うと言っているそうだ。
父は最後にこう書いていた。
──セリーヌ嬢は侯爵家に身を寄せようとしたが、「薔薇園の伯爵の寵姫」の評判が先に回り、どの家も門を開けなかったらしい。社交界では「薔薇だけで冬を越そうとした領主」の話が、今季一番の笑い話になっている。
便箋を畳む。
笑い話。あの薔薇園が、あのクラウス様が、社交界の笑い話に。
──ざまあみろ、とは思わなかった。
いや、少しだけ思ったかもしれない。けれど、それは一瞬で消えた。
あの人が失ったものを数えるより、私が今持っているものを数えるほうが、ずっと温かい。北方の畑。生きている種。信頼できる侍女。私の仕事を見てくれる人。泥にまみれることを恥と呼ばない土地。
手紙を懐に仕舞い、畝に戻る。今日やるべきことがある。土壌の酸性度を測り、石灰の配合を決め、春蒔きの時期を見極める。私の仕事は、ここにある。過去ではなく、この土の中に。
◇
午後。畑の端で記録をつけていると、長靴の足音が近づいてきた。
ジーク様だった。いつもの巡回の格好。厚手の上着に革の手袋。手袋を外しながら、畝に入ってくる。
「春の土は、どうだ」
「いい状態です。凍結融解で石灰が流れましたが、想定の範囲内で──」
「そうか」
短く頷く。それから、畝の横に立ち、少し黙った。いつもの寡黙とは違う。何かを測っている。言葉を選んでいる。
──この人が言葉を探すのは、珍しい。
「一つ、聞いていいか」
「はい」
「あの時の返事を、聞いてもいいか」
あの時。収穫祭の夜。篝火の傍で。
「──来年も、この土地で種を蒔いてほしい、でしたね」
「ああ」
ジーク様の声は低い。いつもと同じ低さ。だが、視線が畑ではなく、私を見ている。農地の報告を聞くときの目ではなかった。
風が吹く。春の風は、冬とは違って柔らかい。畝の枯れ草が揺れ、その下から緑の芽が覗く。
「私は、この土地で種を蒔きたいです」
言った。声は静かだったが、揺れなかった。
「来年も。その先も」
ジーク様が、手を差し出した。泥のついた手。素手だった。いつの間に手袋を外したのか。太い指、硬い掌。武官の手であり、領主の手であり、自分で等高線を描き、自分で畑を歩く人の手。
「ならば、俺の隣で蒔いてくれ」
その手を、取った。
泥と泥が触れた。私の指先に残る黒い土と、彼の掌についた北方の土。同じ匂い。同じ温度。握り返された手は、硬くて温かい。
指輪はない。花束もない。膝をつく芝居もない。泥だらけの畑の真ん中で、泥だらけの手を重ねた。それだけ。
それだけで、充分だった。
ジーク様が──いや、ジークが、少しだけ笑った。口角がわずかに上がるだけの、あの笑み。初めて芽が出た朝に見たのと同じ顔。
「ジーク様、一つだけ」
「何だ」
「畑の中では、様はいりません。前にご自分でそう仰いました」
ジークの肩が揺れた。笑ったのだ。声は出さなかったが、目が笑っていた。
恥だと言う人は、ここにはいない。
◇
夕暮れ、二人で種苗庫に寄った。
重い扉を開ける。乾いた穀物の匂いが、温かい空気と一緒に流れ出す。棚いっぱいに、麻袋が並んでいる。改良三号・第三世代。第四世代。耐寒選別株。酸性耐性株。ラベルの一枚一枚に、私の字が並ぶ。
あの日、腰に一つだけ下げて屋敷を出た麻袋。中身は一握りだった。
今、この棚を見上げている。一握りが、棚三段を埋めている。来季の作付け用、再来季の予備、原種保存用。未来が、粒になって並んでいる。
ジーク様が隣に立ち、同じ棚を見上げた。
「一握りから、ここまで増えた」
「ええ」
「……大したものだ」
短い。けれど、声に力がある。この人の「大したものだ」は、社交辞令ではない。数字を見て、畑を歩いて、収量を計った上での評価。
棚の一番上に、小さな麻袋が置いてある。最初の原種。あの日持ち出した一握りの残り。始まりの種。
ジーク様が、その袋を見た。
「これは」
「始まりの種です。最初の一握り。あの朝、腰に結んで馬車に乗った袋。ここから全部、始まりました」
ジーク様は何も言わず、その袋にそっと手を添えた。触れるだけ。持ち上げはしない。私のものだと分かっているから。
一握りの種が、棚三段の未来になった。一人で握りしめて出た朝から、ここまで来た。
種苗庫を出ると、夕日が畑を橙色に染めていた。春の夕暮れは柔らかい。あの夜会の百本の蝋燭より、この一筋の夕日のほうが温かい。
◇
翌朝。
畑に出た。春の土を掘り返す。素手で。指の間に泥が入り込み、爪の間が黒くなる。膝をつき、畝を立て、種を蒔く。一粒ずつ、土に押し込む。
隣に、足音。
ジーク様が、同じように膝をつき、同じように泥の中に手を入れた。不器用な手つきで、種を土に押し込んでいる。深さが均一ではない。配置も少しずれている。
「──ジーク、もう少し浅く」
「こうか」
「はい。そのくらい」
二人で、畝を進む。泥だらけの手と手が、同じ土の上で並んでいる。不器用な領主と、泥にまみれる研究者。
遠くで、領民の子供たちが畑の脇を走り抜けていく。笑い声が、北方の澄んだ空気に響いて消える。マルタが畑の端で茶を淹れている。湯気が、春風に流されていく。
誰もそれを恥とは呼ばない。
ここでは、これが一番尊い仕事だ。
泥にまみれた手を、もう隠さなくていい。この土地では、それが一番美しい手だから。




