第8話 金色の穂波
穂が、垂れている。
重いのだ。実が詰まって、茎が支えきれないほどに。北方の黒い土の上で、改良三号の第三世代が、金色に熟している。
朝の光が斜めに射し込み、穂先が一斉に揺れた。波だ。丘の斜面を埋め尽くす金色の波。風が吹くたび、ざあっと穂が傾き、また起き上がる。その音が、丘の端から端まで響いている。
ヴェルナー領の実験農地は屋敷の裏庭ほどの広さだった。ここでは、丘の南斜面いっぱいに、私の麦が風に鳴っている。あの日、掌に握った一握りの種が、今、この景色になった。
腰の麻袋に手を当てる。袋は軽い。中身の大半は、もう土の中で根を張り、茎を伸ばし、穂をつけた。残った種籾は、来年のための原種だけ。
「リーネ様!」
畑の下から声が上がった。辺境伯領の農夫たちが、刈り入れの鎌を手に集まってくる。この領地の農夫たちは寡黙な人が多いが、今朝は違う。声が弾んでいる。
先頭の老農夫が穂を一本抜き、掌で揉んだ。殻が割れ、丸々とした粒が転がり出る。大きい。南方の通常種にも負けない粒の張りだ。
「こりゃあ……わしの三十年で見たことがない実入りだ」
別の農夫が穂を折り、同じように粒を確かめ、隣の者に渡す。粒が手から手へ回るうちに、声が変わっていった。驚きから、笑みへ。
「北の土で、こんな麦ができるのか」
「これなら冬の備蓄が余るぞ」
「リーネ様のおかげだ」
おかげ、と言われて、足が止まった。
ヴェルナー領では一度も言われなかった言葉だ。三年間、毎朝畑に出て、泥にまみれて種を育てた。それを「おかげ」と呼んでくれた人は、オットー以外にいなかった。
「皆さんが畝を手伝ってくださったからです。石壁も、排水溝も──」
「いいや」
老農夫が首を振る。
「種が違う。土の扱いが違う。あんたが来てから、この土地が変わったんだ」
鼻の奥が、つんとした。北方の冷たい風のせいにする。
◇
刈り入れは三日かかった。
辺境伯領の記録を繙いても、この区画でこれほどの収量は前例がないらしい。ジーク様が自ら穀物庫の計量に立ち会い、数字を記録していた。
「この土地で、ここまでの収量は見たことがない」
穀物庫の前で、ジーク様が言った。低い声。いつもの実務的な口調。けれど、計量記録を持つ手が、ほんの少しだけ力を込めているのが見えた。
「土が応えてくれました」
「土だけじゃない」
短く言って、視線を穀物庫に戻す。それ以上は言わなかった。この人は、いつもそうだ。言葉を惜しむ。だから、たまに多く語るとき、その重さが違う。
ジーク様が、王宮農政局への収穫報告書を作成すると言った。辺境伯領の公式な記録として、改良種の収量データを提出する。
「あなたの名前も記載する。研究者として」
「──私の、名前を」
「当然だ。この種を作ったのはあなただ。データに著者がなければ、記録にならない」
報告書に、名前が載る。王宮の記録に、リーネ・ファルケンの名が、改良種の成果と共に残る。
クラウス様は、三年間の報告書に私の名を入れたことがない。「ヴェルナー伯爵領の農政成果」として、家名だけが載った。私の名は、どこにもなかった。
ジーク様が、報告書の下書きを見せてくれた。数字が正確に並んでいる。収量、品種、土壌条件、栽培管理の概要。そして研究者の欄に、私の名。
その文字を見つめていると、指先がわずかに震えた。名前がある。私の仕事に、名前がある。
報告書は、翌週には王宮農政局に届くだろう。北方辺境伯領から、改良種の収量報告。品種名には「改良三号・第三世代」と記される。──かつて、ヴェルナー領の王命研究として始まった、あの品種と同じ名前で。
◇
収穫祭の夜。
辺境伯領の小さな広場に、農夫たちが集まっていた。篝火が三つ焚かれ、新麦で焼いたパンと、干し肉の串と、林檎の煮たのが並んでいる。素朴な祭りだ。南方の夜会とは何もかもが違う。飾りもない、楽団もいない。だが、火を囲む人々の顔が明るい。
今年の冬は、備蓄が足りる。来年の種籾もある。それだけのことが、ここでは祭りになる。それだけのことが、人を笑顔にする。
広場の端で、私はパンを齧っていた。新麦の、香ばしい匂い。噛むと甘い。自分の種から育った麦で焼いたパンを、自分の手で千切って食べている。ヴェルナー家の銀食器のコース料理より、この一切れのほうが温かい。
ジーク様が、隣に来た。手にはパンと林檎酒の杯。篝火の明かりが、横顔を橙色に染めている。
「一つ、聞いていいか」
「はい」
「来年も、この土地で種を蒔いてほしい」
風が止んだ。篝火の爆ぜる音だけが、広場に響いている。
仕事の依頼だ。研究の継続。試験栽培の延長。公式にはそれだけの意味のはずだ。
けれど、ジーク様の声は、いつもより低かった。実務の報告をするときの声とは、どこか違う。視線は篝火ではなく、畑のほうを向いている。暗闇の中で金色の穂波はもう見えない。刈り取った後の、空の畝しかないはずだ。それでも、あの丘の方角を見つめている。
この人は、畑を見ている。でも──畑だけを見ているのだろうか。
「……考えさせてください」
言って、自分でも驚いた。即答しなかった。断る理由などないのに。ここにいたい。この土地で種を蒔きたい。それは分かっている。
ただ──この言葉に応えることが、仕事の契約以上の何かを意味する気がして、軽くは返せなかった。答えるなら、ちゃんと考えてからにしたい。種を蒔くように、根が張る覚悟で。
ジーク様は頷いた。急かさない。この人は、いつも待つ人だ。種が芽を出すのも、根が張るのも、待てる人だ。
「待つ」
一言だけ。それから、篝火のほうへ戻っていった。
広場に一人残る。パンの欠片を唇に当てたまま、丘のほうを見た。暗い。でも、あそこに私の畑がある。私の種が根を張った土地がある。
翌朝、畑に出た。
刈り入れの終わった畝に、切り株が整然と並んでいる。その中に一本だけ、刈り残した穂があった。最初に芽を出した株。私が印をつけておいた、始まりの一本。
金色の穂を手折る。手の中で、粒がさらりと鳴った。種籾の小袋と、同じ音。始まりと実りが、同じ音を立てている。
夕方、ジーク様が巡回に来た。
私は、返事の代わりに、その穂を差し出した。
ジーク様の手が、受け取る。太い指が穂の根元を支え、折れないように。指先が一瞬だけ触れて、離れた。
何も言わなかった。けれどジーク様は、その穂を外套の内側に仕舞った。丁寧に。胸の近くに。
篝火の煙が、夜空に溶けていく。北方の星は、南より近く見える。
金色の穂波は刈り取られた。畑には切り株だけが並んでいる。でも、あの穂が一本、この人の手元にある。
それが、今の私に出せる精一杯の答えだった。




