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泥まみれの妻が恥でしたら、どうぞ薔薇だけで冬をお越しください  作者: 九葉(くずは)


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7/12

第7話 最初の冬の気配

 数字が、合わない。


 クラウスは、執務机の上に広げられた収穫報告書を二度読み返した。農政官が対面に立ち、目を伏せている。


「──前年比、四割」


「はっ。通常種の区画は概ね例年並みですが、旧改良種の区画が壊滅的でして」


「壊滅的とはどういうことだ。同じ麦だろう」


 農政官が、一瞬だけ口を結んだ。それから、慎重に言葉を選ぶ。


「改良種は、通常種とは管理方法が異なります。土壌の酸性度調整、連作障害の回避、種籾の世代管理──いずれも、前任者の記録がなければ対応できません。通常の農法で管理した結果、品種の特性が維持できず、収量が激減しました」


「だから記録を探せと言っただろう」


「前任者の個人資産として持ち出されており、法的に請求はできません。婚約契約書にも明記されておりますので──」


「分かっている」


 報告書を机に叩きつける。紙が一枚、床に滑り落ちた。


 前年比四割。昨年の半分以下。税収の見積もりも、備蓄の計画も、領民への配給計算も、すべて昨年並みの収穫を前提に組んである。その前提が、根元から崩れた。


 あの改良種は、そこまで収量に差があったのか。


 いや──そんなはずはない。たかが麦の品種が違うだけで、ここまで変わるものか。


「備蓄の状況は」


「確認いたします」


 農政官が下がる。扉が閉まり、執務室に沈黙が落ちた。


 窓の外で、薔薇園の深紅が風に揺れている。秋の陽を受けて、見事に咲き誇っている。造園業者は腕がよかった。セリーヌも満足していた。


 ──麦の代わりに、薔薇が咲いている。


 その思考を、クラウスは振り払った。薔薇園は関係ない。問題は農政官の力不足だ。あの女が記録を持ち逃げしたからだ。



    ◇



 穀物庫は、半分だった。


 クラウスは自ら足を運び、棚の麦袋を数えた。昨年の同じ時期と比べ、明らかに少ない。干し肉の束も薄く、塩漬けの甕も列が空いている。


「この備蓄で、春まで持つのか」


「……厳しいかと。領民への配給を減らすか、近隣から買い付けるか」


「買い付ける金は」


 農政官が沈黙した。その沈黙が、答えだった。


 穀物庫を出ると、秋の風が首筋に冷たかった。領地の畑が見渡せる丘に立つ。刈り入れの終わった畑は茶色く、低い株が並んでいる。かつてリーネの実験農地だった場所には、薔薇の列が整然と並び、深紅の花弁が風に揺れていた。


 美しい庭だ。セリーヌが喜ぶ庭だ。


 東側にも薔薇園を広げた。セリーヌの笑顔を見れば、正しい判断だったと思える。思えるはずだ。


 ──だが、薔薇は食えない。


 その言葉が頭をよぎり、クラウスは眉を寄せた。誰の声だったか。自分の声ではない。もっと静かで、もっと低い──リーネの声だ。あの女が去る前、最後の方で何か言っていた。収量がどうとか、冬がどうとか。


 聞いていなかった。


 いや、聞く必要がなかった。農政官を雇えば済む話だったのだから。そのはずだったのだから。



    ◇



 使用人を通じて、領民の声が届くようになった。


「今年の麦は少ない」「冬を越せるのか」「リーネ様がおられた頃は、こんなことはなかった」


 最後の一言を運んできたのは、オットーだった。


 老農夫は執務室の前まで来て、使用人に取り次ぎを求めた。クラウスは会わなかった。扉越しに、しわがれた声が聞こえる。


「リーネ様がいれば。あの方が畑を見てくださっていれば、今年もたっぷり実ったはずだ。わしは五十年この土を耕しておるが、あの麦ほどの──」


「農政官に任せてある。下がれ」


 使用人を通じて、そう伝えた。老人の足音が遠ざかり、廊下に静寂が戻る。


 ──リーネ様がいれば。


 いれば、何だ。あの女がいなくても、麦は麦だ。農政官を雇った。通常の農法で管理している。それで四割になったのは──不運だ。天候か、土の問題か。リーネのせいではないが、リーネがいたから上手くいっていたわけでもない。


 そのはずだ。


 執務机に戻ると、書類の山の上に二枚の紙が並んでいた。一枚は、造園業者からの薔薇園維持費の請求書。もう一枚は、穀物庫の残量報告書。


 請求書の金額に、目が止まる。薔薇の品種管理、土壌改良、水遣り、剪定、冬囲い。毎月これだけの金がかかる。花を咲かせるために。


 穀物庫の報告書に目を移す。備蓄残量、昨年同期比五十二パーセント。予測される不足分。買い付けに必要な概算額。


 ──二枚の紙が、並んでいる。


 扉を叩く音がした。セリーヌだった。薄桃色のドレスを揺らし、髪に薔薇を一輪挿している。


「クラウス様、薔薇園に東屋を建てたいの。お客様をお招きできるように」


「……今は、少し立て込んでいる」


「まあ、お忙しいの?」


 セリーヌが唇を尖らせる。それから、すぐに笑顔に戻した。この切り替えの早さが、この女の武器なのだと、クラウスは知っている。知っていて、抗えない。


「でもね、ブレヒト侯爵夫人をお招きする約束をしてしまったの。薔薇が満開のうちにと思って。あなたの社交にも役立つでしょう?」


 社交。侯爵夫人。そう言われると、断る理由が薄くなる。領地の財政問題を社交界に知られるわけにはいかない。体面は保たなければ。


「──分かった。見積もりを取れ」


 セリーヌが「ありがとう」と言って出ていく。ドレスの裾が翻り、薔薇の香りが執務室に残った。甘い匂い。穀物庫の乾いた空気とは、何もかもが違う匂い。


 机の上で、二枚の紙が風に揺れる。請求書と報告書。花の金と、麦の不足。


 クラウスはまだ、どちらを捨てるべきか分かっていなかった。



    ◇



 同じ頃、北方。


 辺境伯領の試験農地で、私は膝をついて土壌記録をつけていた。


 第三世代の芽は順調に育っている。黒灰色の土を割って伸びた茎は、日ごとに太さを増し、秋の終わりに向けて根を深く張りつつある。冬を越せるかどうかは、この根の深さにかかっている。毎朝、一本ずつ葉の色と茎の張りを確かめ、ノートに記録する。地味な作業だ。でも、この積み重ねがなければ、種は守れない。


 北の風は日に日に冷たくなる。手がかじかんでも畑にいると不思議と気にならない。手は泥だらけで、膝も汚れている。けれど、誰もそれを恥とは言わない。


 ここでは、泥は当たり前のものだ。


 夕方、ジーク様が巡回の帰りに畑に寄った。長靴のまま畝に入り、記録ノートを覗き込む。芽の状態について一つだけ質問し、私の答えに頷いて去っていく。それだけのことが、毎日ある。それだけのことが、ここでは当たり前にある。


 マルタが温かい茶を持ってきてくれた。畑の端の石壁に腰を下ろし、両手で椀を包む。北方の茶は、南より濃く、少し苦い。でも体が温まる。


 ヴェルナー領のことは、もう考えなくなっていた。あの畑のことも、あの人のことも。


 ここに、私の土がある。私の種がある。見てくれる人がいる。それで充分だった。

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