第5話 北の土地、最初の畝
「改良三号の第二世代で、耐病性はどの程度安定したのですか」
それが、北方辺境伯ジーク・ヴァルデンの最初の言葉だった。
挨拶ではなかった。名乗りはあったが、短い。「ヴァルデンです。論文を読んだ」。それだけ済ませると、応接間の椅子に腰を下ろす前に質問が始まった。
──研究の中身を聞かれている。
クラウス様の三年間で、一度もなかったことだ。
「第二世代では、黒穂病への耐性が七割。第三世代で九割まで上げました。ただし、耐寒性との両立がまだ課題で──」
「論文では第三世代の仮説だけで、実証データがなかった。実験は途中で止まったのか」
鋭い。この人は、論文を読み流したのではなく、データの欠落に気づいている。
「……はい。実験農地が、先日なくなりました」
それ以上は言わなかった。辺境伯も、聞かなかった。
代わりに、革の鞄から地図を取り出した。北方の領地図。等高線と土壌分類が細かく書き込まれている。自分で作ったのだろう、線に迷いがない。
「俺の領地は広いが、土が痩せている。北方の酸性土壌で、冬が長い。毎年、備蓄が足りずに春を待つ民がいる」
地図を広げる指が太い。武官の手だ。けれど、等高線の書き込みは丁寧で、土壌の区分には農学の知識がなければ使わない記号が混じっている。この人は、自分の土地を知ろうとしている人だ。
「あなたの改良種が、北方でも機能するなら。試験栽培をしてほしい」
──試験栽培。
畑を、くれると言っている。種を蒔く場所を。
「北方の土壌データはありますか」
「ある。持ってきた」
辺境伯が、もう一つの書類束を出した。土壌の酸性度、年間降水量、霜の期間、積雪量。数年分のデータが、几帳面な表にまとめてある。
父が茶を運ばせた。私は茶に手を伸ばす前に、書類に手を伸ばしていた。
数字を追う。酸性度はヴェルナー領より明らかに高い。pH値で見れば、通常の改良三号では根が酸に焼かれる。年間の霜日数も多い。だが──
「第三世代の耐寒品種なら、可能性があります」
辺境伯の目が、わずかに動いた。
「酸性土壌には石灰による中和が基本ですが、北方の場合は春の凍結融解で石灰が表層から流れやすい。投入時期を秋の深まる前に限定し、根の張る層だけに集中させる必要があります」
「時期を限定するということは、年に一度しか調整できないのか」
「はい。ですから、石灰投入だけに頼るのではなく、第三世代の酸性耐性をもう一段上げる品種選別を並行して進めるべきです。母株からの選別で、酸性度五・五まで耐えられる個体を──いえ、それよりも、まず現地の土壌を直接調べて、深さごとの酸性度分布を確かめたほうが……」
言葉が止まらなかった。
頭の中で、改良ノートのページが捲れていく。三年分の記録が、北方の土壌データと重なり、仮説が組み上がる。この土なら。この気温なら。この酸性度なら。
「──失礼しました。つい」
我に返って口を閉じる。初対面の辺境伯に、一方的に捲し立ててしまった。
辺境伯は、黙っていた。
──怒らせただろうか。農学の話を延々と聞かされて、退屈だっただろうか。クラウス様はいつもそうだった。
「続けてくれ」
低い声だった。短い。けれど、退屈の色はなかった。
「石灰の投入時期と、品種選別の並行。その方法を、詳しく聞きたい」
──聞きたい、と。
この人は、続きを求めている。私の研究の続きを。
気づけば、茶が冷めていた。どのくらい話しただろう。土壌の酸性度と石灰の配合比。耐寒品種の選別基準。種籾の保管温度と発芽率の関係。辺境伯は一度も遮らず、時折短い質問を挟みながら、最後まで聞いた。
メモを取っていた。私の言葉を、一つずつ。
クラウス様は三年間、私の報告にメモを取ったことがなかった。
◇
父は、短く言った。
「行きなさい」
応接間から辺境伯が去った後、離れの研究室で荷造りをしていると、父が入ってきた。手には茶が二つ。一つを私に渡す。
「今度こそ、お前の仕事を見てくれる場所だ」
「……お父様。まだ試験栽培の依頼というだけで……」
「あの辺境伯は、お前の論文の不備を指摘できる男だ。データを読む者は、データを作る者を正しく扱う。信用していい」
父らしい判断基準だった。人柄ではなく、データの読み方で人を測る。
革鞄に研究ノートを詰め直す。種籾の小袋を腰に結ぶ。同じ荷物。ヴェルナー家を出たときと、同じ重さ。けれど、今度は追い出されるのではない。求められて、行く。
マルタが、もう一つの鞄を肩に掛けた。当然のように。
「マルタ、あなたまで来なくても──」
「お嬢様の行くところに参ります。北だろうが南だろうが」
それ以上は何も言わなかった。この人に、何度救われてきたか。
「行ってまいります」
父が頷く。母が、道中用の保存食を布袋に包んで渡してくれた。中身は干し果物と堅焼きパン。子供の頃の遠足と同じだった。母は何も言わず、ただ、私の泥の手をそっと握って離した。
◇
北方への旅は、三日かかった。
初日は平野を抜け、二日目から徐々に標高が上がる。馬車の窓から見える畑が、日を追うごとに痩せていくのが分かった。南では金色に実っていた麦が、北に進むほど背が低く、穂が軽くなる。同じ麦でも、土が違えばこうも変わる。
辺境伯の馬車は質素だった。紋章はあるが金の装飾はなく、座席の革も使い込まれて柔らかい。飾りではなく実用のための車だと、乗れば分かる。
三日目の朝。御者が「もうすぐ本領です」と告げたとき、窓の外の景色が一変した。
南の緩やかな平野が消え、起伏のある灰色の丘陵地帯が広がっている。木は低く、風に傾いでいる。空が広い。雲の流れが速く、陽が射したかと思えばすぐに翳る。
馬車を降りた。
風が頬を打つ。冷たい。南とは空気が違う。乾いて、硬くて、鼻の奥がひりつく。秋なのに、もう冬の匂いが混じっている。
足元の土を靴の先で崩すと、黒灰色の粒が散った。酸性の強い土。しゃがんで指で摘み、舌に乗せる。酸味が強い。鉄の味がわずかにある。だが、粒子は細かく、硬すぎない。水捌けも悪くない。
──改良の余地がある。
広い。見渡す限りの荒地が、丘の向こうまで続いている。ヴェルナー領の実験農地は屋敷の裏庭程度だった。ここには、それとは比べものにならない広さがある。
「厳しい土地だ。分かっている」
辺境伯が、隣に立った。風に外套の裾が翻る。
「──いいえ」
立ち上がり、指先についた黒い泥を見る。腰の麻袋が、風に揺れて種籾の乾いた音を立てた。
「この土地なら、私の種は根を張れます」
辺境伯が何か言いかけて、止めた。代わりに、私の手元に視線が落ちる。泥だらけの指先。爪の間に入り込んだ北の土。
何も言わなかった。嫌がりもしない。視線が手元に一瞬だけ留まり、それからまた、広い荒地のほうへ戻っていった。
それだけのことが、私にはひどく新鮮だった。




