第4話 代わりはいくらでもいる
実家の門を馬車がくぐったとき、庭の林檎が色づき始めていた。
子爵家の屋敷は、ヴェルナー伯爵邸と比べれば小さい。けれど、門から玄関までの石畳に雑草が一本もないのは、母が毎朝手入れをしているからだ。この家の人間は、自分の手を使うことを恥だと思わない。
「リーネ」
父が玄関に立っていた。書斎着のまま、上着も羽織らずに。私の顔を見て、革鞄を見て、腰の麻袋を見て──それから、泥の残った手を見た。
「よく耐えたな」
それだけだった。
責めもしない。婚約解消の経緯も聞かない。ただ「よく耐えた」と。
母が奥から出てきて、何も言わずに食卓へ導いた。温かいスープと、焼きたてのパン。林檎の甘煮。素朴な食事が、白い湯気を立てている。
スープを一口含む。塩と野菜の素朴な味が、喉の奥をじんわりと温める。
──ああ、帰ってきたのだ。
匙を置く手が、少しだけ震えた。泣きはしない。泣かないと決めたから。でも、この食卓の温度が、三年ぶりに喉を通る母の味が、私がどれだけ遠くにいたかを教えてくれる。
ヴェルナー家の食事は、いつも整っていた。銀の食器、三段のコース、給仕が注ぐ葡萄酒。献立は完璧だったが、誰かが私のために温め直してくれたスープは、一度もなかった。クラウス様と同じ食卓につくことすら、月に数えるほどだった。
「部屋は前のままにしてある」
父が、パンを千切りながら言う。
「研究室にしたければ、離れを使え。棚も机もある。日当たりもいい」
──研究室。
畑はもうない。けれど、記録と種籾はある。研究を続ける場所さえあれば、私はまだ種苗学者でいられる。種は土を選ばない。正しい手があれば、どこでも芽を出す。
「ありがとうございます、お父様」
「礼はいい。お前の仕事を見てきたのは、お前自身だ」
父はそれ以上何も言わず、林檎の甘煮に手を伸ばした。母が黙って、私の椀にスープを注ぎ足す。それだけのことが、今の私には充分だった。
◇
同じ頃、ヴェルナー伯爵領。
クラウスは、執務室で新たに雇った農政官の報告を聞いていた。
「──以上が、領地農地の現況です。通常種の播種は順調に進めておりますが、旧実験農地の跡地については、薔薇園の造園業者と打ち合わせの上──」
「薔薇園のことはセリーヌに任せてある。お前は残りの畑を管理しろ」
「はっ。ただ、一点確認ですが……改良品種の管理資料は、どちらに」
クラウスの手が止まる。
「管理資料?」
「はい。前任の方が管理されていた改良種の種苗台帳、土壌調整記録、病害対策データなど。引き継ぎ資料がどこにも見当たらないのですが」
──ああ、そうか。あの女が持っていったのか。
契約上は問題ないと、管財人にも確認した。個人の学術研究資産。婚約契約書にそう書いてある。
「ない。前任者が個人資料として持ち出した」
農政官の顔が、わずかに強張る。
「……それでは、改良種の管理方法が不明です。通常の農法で対応しますが、品種特性が分からない以上──」
「通常の農法で構わん。たかが麦だろう。品種が違っても、麦は麦だ」
農政官は口を噤んだ。一礼して、下がる。
クラウスは窓の外を見た。旧実験農地では、すでに造園業者が薔薇の苗を運び込んでいる。セリーヌが選んだ深紅の品種。来年の春には、見事な庭になるだろう。
あの女がいなくても、何も変わらない。
むしろ清々した。社交界での体面も良くなった。セリーヌは文句を言わず微笑んでくれるし、客人を招いても泥まみれの婚約者を説明する必要もない。
扉が叩かれる。セリーヌが、薄い布地のドレスを揺らして入ってきた。手には紙束。
「クラウス様、造園業者からの見積もりが届いたわ。薔薇園をもう少し広げたいの。東側の畑も使えないかしら。領地の入り口から薔薇が見えたら、きっと素敵よ」
東側の畑。あれは通常種の麦が植わっている区画だ。
「……それは、さすがに」
「お客様がいらした時に、最初に目に入るのが麦畑では寂しいでしょう? 薔薇のほうが、ヴェルナー家に相応しいわ」
──薔薇のほうが、相応しい。
リーネの言葉が脳裏をかすめた。あの女は確か、収量がどうとか報告義務がどうとか言っていた。だが、それは農政官の仕事だ。
「分かった。東側の一部を使っていい。ただし、全部ではないぞ」
セリーヌが花のように笑って、「ありがとう」と囁いた。その笑顔を見ると、正しい判断をしたのだと思える。
窓の外で、一人の老農夫が造園業者に何か訴えている。オットーだ。リーネにべったりだった老人。腕を振り、声を荒げている。業者は困った顔で首を横に振っていた。
「リーネ様の畑は、どうなるんですか。あの種がなくなったら、来年の収穫は──わしは五十年この土地を耕してきたが、あの麦ほどの実りは見たことがない。それを薔薇に替えるなんて──」
使用人を通じて、要約された伝言が届いた。クラウスは書類に目を落としたまま答える。
「黙って従えと伝えろ。農政のことは農政官に任せた。老人の繰り言に付き合う暇はない」
使用人が下がる。
代わりはいくらでもいる。リーネの代わりも。あの麦の代わりも。
──そのはずだった。
◇
子爵家の離れは、小さいが日当たりがよかった。
机に研究ノートを広げ、種籾の小袋を棚に置く。窓から入る午後の光が、ノートの表紙を照らしている。
畑はない。でも、記録はここにある。原種もある。土さえあれば、いつでも始められる。
マルタが茶を運んできた。それから、少し迷うように言う。
「お嬢様。旦那様が、お渡ししたいものがあると」
食卓に降りると、父が封書を一通、差し出した。
白い封筒に、濃い藍色の封蝋。紋章は──北方の山と鷲。見覚えのない家紋だった。
「三日前に届いた。お前宛てだ」
封を切る。便箋は簡素で、文字は硬い筆致で短く書かれていた。
──リーネ・ファルケン殿。
貴殿の改良種に関する論文を拝読した。寒冷地における収量改善の可能性について、直接お話を伺いたい。ご都合のよい日時をお知らせ願いたい。
北方辺境伯 ジーク・ヴァルデン
便箋を持つ指が、止まった。
論文を。読んだ。
あの学会誌を。クラウス様が「ああ、そうか」と開かなかった、あの論文を。この人は、読んだのだ。
父が茶を啜りながら、何でもないように言う。
「辺境伯ヴァルデンといえば、北方随一の実直な領主だと聞いている。農政に熱心な方だ」
便箋を、もう一度読む。硬い字。短い文。飾りがない。社交辞令も、追従も、世辞もない。用件だけが、簡潔に書かれている。
──寒冷地における収量改善。
改良三号の耐寒品種。あの論文に書いた、まだ実証段階に入っていなかった仮説とデータ。北方の痩せた土地でも収量を上げられる可能性。それを読んで、会いたいと言っている人がいる。
データの話がしたい、と。私の研究の中身を聞きたい、と。
手紙を膝の上に置いた。封蝋の藍色が、夕日を受けて鈍く光っている。
畑はなくなった。けれど、種はある。記録もある。そして今、それを読んだ人がいる。
子爵家の食卓で、父が一通の手紙を渡した夕暮れ。それが、始まりだった。




