第3話 持ち出すもの、置いていくもの
革鞄の底に、ノートが積まれていく。
土壌台帳、四冊。種籾管理ノート、二冊。病害記録帳。収量予測の計算用紙。石灰の配合比と投入スケジュール。三年分の紙束は、両手で抱えるとずしりと重い。畑が消えても、紙は残る。紙の中に、三年分の畑が生きている。
マルタが棚から別の束を下ろした。王宮農政局との往復書簡の写し。研究報告書の控え。そして、昨年の学会誌──私の論文が掲載された一冊。
「これも入れますか」
「……ええ。入れて」
学会誌を手に取る。厚い表紙の隅に、投稿時の日付。あの頃はまだ、改良三号の耐病性が安定していなかった。それでも途中経過として発表したのは、王宮農政局の担当官に「記録は残しておきなさい」と助言されたからだ。
掲載されたとき、クラウス様には報告した。「ああ、そうか」と言われただけで、誌面を開くことはなかった。
誰かが読んでくれただろうか。この国のどこかで、改良種の収量データに目を止めた人がいるだろうか。
──考えても仕方がない。今は。
学会誌を鞄に入れ、革紐を締める。
「お嬢様」
マルタが、化粧台の引き出しを指した。宝石箱。婚約時にヴェルナー家から贈られた首飾り、耳飾り、腕輪。蓋を開けると、燭台の光を受けて石が鈍く光る。どれも上等な品。売れば小さな屋敷が建つだろう。
「置いていくわ」
「全部、ですか」
「全部。衣装も、調度品も。ヴェルナー家のものは、一つも持ち出さない」
マルタが一度だけ頷く。何も聞かない。この人は、私が何を持ち出し何を捨てるか、その意味を分かっている。
宝石は返す。記録は持つ。
婚約契約書の条項が、頭をよぎる。「婚約者が個人の知見により行った学術的研究の成果は、個人に帰属する」。父が契約時に入れてくれた一文。あのとき父は「念のためだ」と笑っていた。
その「念のため」に、今、救われている。
◇
クラウス様の執務室を訪ねたのは、午後の鐘が鳴った直後だった。
書類を整えていた彼の手が、私の言葉で止まる。
「婚約の解消を、お願いに参りました」
窓から差す光が、執務机の上に四角い影を落としている。羽根ペンが、インク壺の縁に掛けたまま揺れた。
「──何だと?」
「婚約契約に基づき、正式な手続きを取らせていただきたく存じます」
クラウス様が書類を机に置いた。三年の間、この部屋で正面から目を合わせたことが何度あっただろう。今、初めてのように私を見ている。
「急にどうした。畑のことをまだ怒っているのか」
怒り。この方は、そう受け取るのか。
「怒ってはおりません。ただ、この家に私がいる理由がなくなりました」
「理由だと?」
「領地のために働くことが、私の役割だと思っておりました。その場を失いましたので」
クラウス様の眉が寄る。苛立ちか、困惑か。しかし、その口から出たのは引き留めの言葉ではなかった。
「……勝手にしろ」
椅子から立ち、窓に向かう。背中だけが見える。
「お前の代わりなど、いくらでもいる。農政官を雇えば済む話だ」
代わり。いくらでも。
その言葉を、私はただ受け取った。返す言葉は、もう持っていない。
「畏まりました。本日中に荷物をまとめ、明朝には発ちます。宝石と衣装はすべてお返しいたします。研究資料のみ、契約に基づき持ち出させていただきます」
「好きにしろ」
窓の外を見たまま、振り返らない。私が何を持ち出し、何を置いていくのか、聞きもしなかった。
扉を閉める。廊下の石壁に、午後の光が細く射している。
泣きたいのかと、自分に聞いてみた。
──違う。もう、泣く段階は過ぎている。
◇
荷造りは、驚くほど早く終わった。
革鞄が二つ。一つは研究資料。一つに着替えと日用品。腰には種籾の小袋。それだけだった。
三年暮らした部屋を見回す。紋入りの調度品、衣装箪笥、宝石箱。鏡台の上にはセリーヌ嬢の趣味で選ばれた香水瓶が並んでいる──贈り物だと言われたが、使ったことはない。この部屋に、私のものは元から少なかった。研究道具と着替え。あとはマルタ。
「お嬢様、一つだけ確かめたいことが」
マルタが台所へ足を向ける。私もついていく。
穀物庫の重い扉を引く。薄暗い室内に木の棚が並び、麦袋、干し肉の束、塩漬けの甕が整然と積まれていた。備蓄の量を目で追い、頭の中で計算する。
──足りない。
今季の収穫が前提で組まれた備蓄量。改良三号の畑が潰された今、秋の収穫は通常種だけになる。通常種の収量は改良種の六割がいいところ。この備蓄では、来年の春まで持たない。
手を伸ばし、麦袋の一つに触れた。乾いた麻布の手触り。この袋の中身を育てたのも、私の畑だ。
マルタと目が合った。
「……分かっているわ」
分かっている。けれど、もう私の責任ではない。あの畑を潰したのは、この家の当主だ。収量の話は、何度もした。報告義務のことも伝えた。聞こえていても聞かなかったのは、あの方だ。
穀物庫の扉を閉めた。木の軋む音が、暗い廊下に響いて消える。
知っていて、去る。それは冷たいことだろうか。
いいえ。冷たいのは、三年間の声を聞かなかったほうだ。
◇
翌朝、馬車が玄関前に着いた。
秋の朝は冷える。吐く息がわずかに白い。
「あら、お帰りになるの?」
声は、玄関の柱の陰から。セリーヌ嬢が薄い上着を羽織り、寝起きのままの顔で立っていた。──泊まっていたらしい。
「寂しくなるわ。リーネ様がいらしたほうが、私も安心でしたのに」
安心。何に対する安心かは、聞くまでもない。正妻の座を争う相手が自分から消えるのだから、安心だろう。口元は笑っているが、目は笑っていなかった。値踏みするような視線が、私の荷物──革鞄二つだけ──を一瞬で舐めた。
「薔薇園、楽しみにしていてくださいね」
──ええ。どうぞ。薔薇は美しいでしょう。冬が来るまでは。
口には出さなかった。「お元気で」とだけ言い、馬車に乗り込む。
マルタが隣に座る。革鞄が二つ、足元に並ぶ。宝石はない。衣装もない。あるのは泥の染みたノートと、一握りの種と、三年分の記録。
馬車が動き出す。車輪が砂利を踏む音。ヴェルナー家の門が後ろへ流れ、並木道に出る。
振り返らなかった。
窓の外を、朝の光に染まった農地が流れていく。かつて私の畝があった場所は、もう鍬で均されて平らだ。あそこに薔薇の苗が植えられるのだろう。美しい庭になるに違いない。食べられないけれど。
膝の上に置いた手が、まだ泥の痕を残している。この手のまま、父の元へ帰る。
私が持ち出したのは、泥のついたノートと一握りの種だけ。
でもそれが、あの領地にとってどれほどの重さだったか──彼が知るのは、最初の冬だ。




