第2話 薔薇のほうが相応しい
夜会から三日。爪の泥は、また元通りになっていた。
実験農地の端で、土壌の酸性度を測る。指先に取った土を舐め、舌の奥で微かな酸味を確かめる。悪くない。先月の石灰が馴染んでいる。改良三号の穂は日ごとに重くなり、あと二十日もすれば刈り入れの時季を迎える。
三年。品種の選別に一年。交配と失敗に一年。病害耐性の安定にもう一年。この畝の一本一本に、三年分の記録が眠っている。土壌台帳だけで四冊、種籾の世代管理ノートが二冊。すべて私の手書きだ。
隣の畝で、オットーが鋤を置いて汗を拭いている。
「リーネ様、今年の穂は重いですなぁ。こんな実りは、わしの五十年で初めてです」
「おじいさんのおかげよ。石灰を撒く日を三日早めてくれたから、根の張りが変わったの」
オットーが照れたように笑う。この畑を、共に耕してくれた人。
「あら──これが、あの畑?」
声が降ってきた。
振り返ると、畔道にセリーヌ嬢が立っていた。日傘を差し、白いレースの裾を片手で押さえている。その隣に、クラウス様。
ここに来るのは珍しい。いや、初めてかもしれない。クラウス様がこの農地に足を運んだことは、三年の間に一度もなかった。
「見苦しいでしょう、麦畑など」
クラウス様が、私にではなくセリーヌ嬢に向かって言う。
「屋敷の裏庭がこれでは、お客様をお通しできない」
セリーヌ嬢が小首を傾げた。日傘の下で、花のような唇がそっと開く。
「ねえ、クラウス様。この場所に薔薇を植えたら、きっと素敵よ。この土地には、薔薇のほうが相応しいわ」
風が畝を撫でた。麦の穂が、さわりと鳴る。
クラウス様が頷いた。一度だけ、大きく。
「そうだな。来週から、ここを薔薇園に作り替える」
オットーの鋤が、地面に倒れる音がした。
◇
「お待ちください」
執務室に押しかけたのは、その日の夕刻だった。
クラウス様は窓際の椅子に掛け、書類を捲っている。私の顔は見ない。
「あの農地には、三年かけた改良品種があります。今季の収穫で成果が出れば、来季から領地全体の収量を大幅に上げられます」
「聞いた」
「それだけではありません。あの研究には、王宮農政局への報告義務がございます」
クラウス様の指が、一瞬だけ止まった。紙を捲る音が途切れ、執務室に沈黙が落ちる。
けれどすぐに、指は動き出す。
「──報告義務?」
「はい。改良種の研究は、飢饉対策として王宮から……」
「たかが麦だろう」
書類から目を上げないまま、遮られた。
「農政官を雇えば済む。お前が畑に出る必要はない。前からそう言っている」
「農政官では、改良種の管理はできません。土壌の酸性度調整も、種籾の温度管理も、品種ごとの連作障害の回避も──」
「細かい話は、専門の者に任せればいい」
クラウス様が、ようやく顔を上げた。面倒そうな目。夜会のときと、同じ目。
「リーネ。お前は伯爵家の婚約者だ。泥にまみれる必要はない。セリーヌも気にしている」
セリーヌ嬢が、気にしている。
この方にとって、それは充分な理由なのだ。三年の研究より、王宮への報告義務より。
「あの農地を潰せば、来季の収量は確実に落ちます」
「だから農政官を雇うと言っている。話は終わりだ」
書類に視線が戻る。もう私を見ていない。
膝の上で、指を握った。爪の間に泥が残っている。今朝、土の酸味を確かめた指。この指先が知っていることを、この部屋の誰にも伝えられない。
「──畏まりました」
それだけ言って、下がった。
廊下に出ると、壁に手をついた。石壁の冷たさが掌に沁みる。
報告義務の話は、聞こえていたのか。クラウス様の指が止まった一瞬を、私は見逃していない。聞こえていて、それでも「たかが麦」と言ったのだ。
◇
その夜、研究室にこもった。
マルタが燭台を二つ持ってきてくれる。
「お嬢様、お休みにならないのですか」
「少し、整理をしたいの」
土壌台帳四冊。種籾管理ノート二冊。病害記録帳。収量予測の計算用紙。石灰の配合比と投入スケジュール。すべて私の字で埋まった紙の束を、一枚ずつ確認し、革紐で綴じ直す。
この記録がなければ、改良三号の管理はできない。土壌の調整時期も、種籾の保管温度も、連作を避ける畝のローテーションも、すべてこの紙の中にある。私の頭の中にしかないものを、紙に移しただけの代物。
だが、この紙は私のものだ。
婚約契約書を、昨晩読み返した。研究成果の帰属条項。「婚約者が個人の知見により行った学術的研究の成果は、個人に帰属する」──父が契約時に入れてくれた一文。あのとき父は「念のためだ」と笑っていた。
念のため。その一文が、今は。
腰の麻袋を手に取る。種籾を掌に出した。乾いた、小さな粒。爪の先ほどの命。改良三号の原種。母株から選別した、たった一握りの始まり。
畑が薔薇園になれば、地中の種子も根もすべて潰される。畑にある改良種は全滅する。残るのは、この掌の上だけ。
種籾を麻袋に戻し、紐を固く結んだ。
マルタが、冷めた茶を新しいものに替えてくれた。黙って。いつものように。
「マルタ」
「はい」
「この記録は、全部私のものよ。契約にもそう書いてある」
マルタは一度だけ頷き、空の革鞄を棚から下ろした。何を言わなくても、通じる人がいる。三年、この研究室を共にした人。
燭台の炎が、ノートの表紙を橙色に染めている。三年分の研究。三年分の泥。三年分の、分かってもらえるかもしれないという期待。
──もう、いい。
ノートを一冊ずつ、革鞄に入れた。革の底に、紙が積もる重さ。この重さは、誰にも渡さない。
◇
農地が壊される朝は、晴れていた。
鍬と鋤が入り、畝が崩される音を、私は少し離れた丘の上で聞いていた。手には革紐で綴じた研究ノートの束。腰には種籾の小袋。
マルタが隣にいる。何も言わない。
麦の穂が倒れていく。あと二十日で実るはずだった穂が、土と一緒にひっくり返される。金色になりかけた穂先が泥に沈み、作業員の足に踏まれて折れた。
風が麦の匂いを運んでくる。青い、生きている穂の匂い。それが土の湿った匂いに混じり、やがて消えていく。
丘の下で、オットーが立ち尽くしているのが見えた。鋤を持ったまま、動かない。自分が手をかけた畝が壊されていくのを、黙って見ている。その背中が小さい。
涙は出なかった。
出ないのは、もう知っていたからだ。この人は、聞こえていても聞かない人だと。報告義務があると言っても、収量が落ちると言っても。泥を恥と呼ぶその口は変わらない。
畑が壊されたのではない。
私が信じていたものが壊されたのだ。この領地のために泥にまみれていれば、いつかは認めてもらえるという、三年分の期待が。
麻袋の中で、種籾がさらりと鳴る。
私はその音を聞きながら、心の中で、静かに扉を閉じた。
手の中の種籾は、一握り。けれどこれが、あの領地にあった最後の改良種のすべてだった。




