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泥まみれの妻が恥でしたら、どうぞ薔薇だけで冬をお越しください  作者: 九葉(くずは)


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第1話 泥にまみれる婚約者

 朝露が指の間を伝う。


 冷たい。けれど、この冷たさが土に届く頃には温み始める。朝一番の水遣りは、井戸水ではなく露のほうがいい。改良三号の根は繊細で、急な温度差を嫌うから。


 畝の端にしゃがみ、葉の裏をひっくり返す。虫食いはない。茎の太さも順調。三年かけた品種交配が、ようやく安定期に入った手応えがある。今季の収穫で数字が出れば、来季は作付け面積を倍にできる。王宮への報告書にも、胸を張れる結果が書けるだろう。


 隣の畝に移り、土の色を確かめる。指先で摘むと、適度な湿りと粒の細かさ。酸性度の調整が効いている。先月、石灰を入れるタイミングを三日早めたのが正解だった。


 腰の麻袋に手を当てる。中の種籾が、さらりと乾いた音を立てた。改良三号の原種。母株から選別した、一握りの命。これさえあれば、何度でもやり直せる。


「──リーネ様」


 マルタの声に顔を上げると、朝の光がもう白い。畑に入ってから、二刻は経っていたらしい。


「旦那様から、今夜の夜会にお供するようにと」


「今夜?」


「はい。ブレヒト侯爵邸にて。ドレスのご用意を、と」


 土を払い、立ち上がる。爪の間に入り込んだ黒い泥が、陽の下ではやけに目立つ。


 ──夜会。


 クラウス様が私を同席させるのは珍しい。大抵は一人で出かけるか、最近はセリーヌ嬢を伴うことが多い。わざわざ声がかかるのは、先方の夫人への挨拶が必要な格式の席だろう。


 つまり、正式な婚約者が隣にいないと体裁が悪い、ということだ。


 屋敷に戻り、水で手を洗う。爪の泥は、二度洗っても薄く残った。三度目で爪刷毛を使い、ようやく人前に出せる程度になる。それでも、指先の皮が硬いのは隠せない。鋤を握り、種籾を選別し、土壌を掘り返してきた三年分の皮膚。


「その手で行くのか」


 廊下でクラウス様とすれ違った。彼の視線が、私の指先に落ちて止まる。


「爪の泥くらい落としてから来い。客の前で恥をかかせるな」


 言い終わる前に、もう歩き出している。長い廊下に靴音だけが残った。


 ──恥。


 この手は今朝、彼の領地の麦を育てていた手だ。その麦が、この領地の税収の三割を支えている。だが、それを言ったところで靴音は止まらない。


 マルタが黙って、長手袋を差し出してくれた。肘まで覆う白絹。日に焼けた肌も、硬い指先も、これで隠れる。



    ◇



 夜会は、予想通りの格式だった。


 広間に入った瞬間、蝋燭の数で分かる。百を超える燭台が、磨き上げた大理石の床を金に染めている。香油の甘い匂いが鼻先をかすめ、弦楽の調べが天井に溶けていた。


 私の隣には、クラウス様がいない。


 入り口で別れた。正確には、セリーヌ嬢が先に彼の腕を取り、私はその三歩後ろを歩く。広間に入る頃には五歩に開き、最初の挨拶が終わる頃には、彼の視界から消えていた。


 壁際に立つ。給仕からグラスを受け取り、口はつけない。


 ここでの私の仕事は、聞かれたら「クラウス・ヴェルナーの婚約者です」と答えること。それだけだ。それ以上を求められたことはないし、それ以下にされたこともない。──いや、それ以下かもしれない。求められてすらいないのだから。


「まあ、あの方がヴェルナー伯の──」


「ほら、あの手。手袋の上からでも分かるわ」


 扇の陰から、声が漏れる。


 手袋をしていても、日に焼けた肌の色は隠せなかった。白絹の裾から覗く手首が、蝋燭の金色の中で浮いている。この広間にいる令嬢たちの手は、みな白い。


 知っている。知っていて、ここに立っている。


 広間の中央で、笑い声が弾けた。


 セリーヌ嬢がクラウス様の腕に寄り添い、何か囁いている。白い肌、白い指、手入れの行き届いた爪先。花弁のような唇が動くたび、周囲の視線が吸い寄せられていく。


 美しい人だ、と思う。素直にそう思える。あの白い手は鋤を持ったことがなく、爪の間に泥が詰まったこともない。それが正しい令嬢の手なのだろう。


 クラウス様が上機嫌で何かを語り始めた。取り巻きが笑い、セリーヌ嬢が恥じらうように俯く。完成された社交の絵面だった。


 その輪の端で、誰かが話題を振った。


「ヴェルナー伯の婚約者殿は、農地に出ておられると聞きましたが」


 くすくす、と笑いが混じる。クラウス様の声が、広間の喧騒を縫って壁際まで届いた。


「──ああ。泥にまみれる婚約者など、社交界で笑われるだろう?」


 笑い声が重なった。セリーヌ嬢が困ったように首を傾げ、取り巻きの令嬢たちが扇で口元を覆う。可哀想に、と言いたげな目が、ちらりと壁際へ向けられた。


 蝋燭の炎が揺れる。手の中のグラスで、琥珀色の酒が小さく波打った。


 ──笑われる。


 笑われているのは、私ではない。私が育てた麦でもない。笑われているのは、婚約者が畑にいるという体裁の悪さだ。この領地の三割の税収が、どの畑のどの品種から生まれているか、この広間の誰も知らない。


 クラウス様も。


「あの畑の麦が、領地の税収の三割を支えておりますのに」


 声に出していた。小さく、グラスに向かって。


 聞こえるはずもない距離だった。聞こえたとしても、この笑い声の壁を越えはしない。


 マルタだけが、私の隣で唇を引き結んでいた。



    ◇



 帰りの馬車の中で、クラウス様は一言も話さなかった。


 セリーヌ嬢の馬車は別だ。侯爵邸の正面で「おやすみなさい、クラウス様」と甘い声が響き、クラウス様は柔らかく微笑んで手を振った。


 馬車の扉が閉まると同時に、その微笑みが消えた。


「次はもう少し、まともな格好で来い。手袋も新しくしろ。あの手では話にならん」


 それだけ言って、目を閉じた。


 ──まとも。まともな格好。まともな手。まともな婚約者。


 窓の外を、月明かりの並木が流れていく。馬車の振動が、腰の麻袋をわずかに揺らした。種籾の、さらさらした乾いた音。


 屋敷に着いて、クラウス様が寝室へ消えた後、私は一人で裏口を抜けた。


 実験農地は、屋敷から歩いて半刻。靴を履き替える暇もなく、夜会のドレスの裾が露に濡れる。構わない。


 月が高かった。


 畝の間に立つと、夜風が麦の穂を揺らした。銀に光る穂先が、波のように傾いていく。昼間とは違う匂いがする。土の湿り気と、麦の青い息吹が混じった、生きている畑の匂い。


 手袋を外す。白絹の下から現れた指先に、まだ泥の痕が残っている。


 この手で種を選び、この手で土を耕し、この手で三年かけて、この麦を育てた。


 泥は、落ちない。落とす気もない。


 腰の麻袋に触れる。種籾のさらさらした感触が、指先を伝う。この一握りが、この畑の始まりだった。


 笑われても構わない。この麦が実れば、領地は冬を越せる。それでいい。


 それだけでいい。


 ──あの時の私は、そう思っていた。


 月の下で、私の麦は静かに穂を揺らしていた。この畑がなくなることなど、想像もしていなかった。

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