エピローグ「おかわりをどうぞ」
春の市は、冬より音が高い。
冬のあいだ、この広場に出ていたのは干したものと塩漬けだけだった。今は生のものが並ぶ。葉のついた根菜と、川の魚と、殻の薄い豆。呼び込みの声が石の壁に当たって返ってくるので、同じ声が半拍ずれて重なる。
雇われた日から数えて、10か月目に入った。
初夏に来て、盛夏を越えた。秋に倒れて、冬に王都へ行って、今この広場にいる。板は4枚目になっている。
食事管理役の仕事は、卓の前ではなく卓の手前にある。
仕入れの札を見て、荷を下ろす場所を見て、触った人間の数を数える。工程が短ければ短いほど、途中で何かが入る隙が減る。前世でも同じことをしていた。違うのは、あのころ俺が守っていたのが工場の名前で、今守っているのが1人ぶんの口だということだ。
「毒見役さんじゃないか」
「食事管理役です」
「なんだそりゃ」
「毒見をしない毒見役です」
「余計に分からんな」
豆の袋を売る男が笑った。
この説明は市で7回した。7回とも同じところで笑われる。分かりにくい職に就いたものだと自分でも思うけれど、名前を変えたのは俺ではない。
広場の奥のほうへ歩いた。
荷を下ろす場所は3つしかなくて、朝はそこに人が並ぶ。並んだ順に台が割り当てられて、遅れた者は壁ぎわの狭いところへ回される。壁ぎわの棚は日が当たらない。日が当たらないぶん、乾いたものを置くのに向いている。
その壁ぎわに、見覚えのある背中があった。
「トビ」
振り返った顔が、冬より1つぶん大きくなっている。
伸びたのは背丈ではなくて頬のあたりだ。この屋敷を出た人間は3か月で顔が変わると、いつかマレンさんが言っていた。
「ユエル!」
「桶は持ってないな」
「持ってたら落としてるよ」
「知ってる」
トビの前には板の台が1つある。
台の上に木の箱が4つ並んでいる。中身は干した果実と乾かした葉と、燻した魚だ。値札は自分で書いたようで、字が大きすぎて枠からはみ出している。
「店か」
「棚。まだ棚」
「棚だな」
「親方のとこで働いてて、朝の1つだけ貸してもらってる。売れたぶんの3分の1が僕の」
「3分の1は安いぞ」
「知ってる。でも台がないと始まらない」
その言い方に迷いがなかった。
俺はしゃがんで、箱の中の燻した魚を1切れつまんだ。指で押すと、表面が固くて中がわずかに戻る。低い温度でゆっくりかけたやつの手ざわりだ。
「これ、誰が燻した」
「親方。でも温度の話は僕がした」
「誰に教わった」
「ユエルが厨房で喋ってたやつ。手をかざして我慢できるくらい、ってやつ」
「聞いてたのか」
「洗い場から全部聞こえるんだよ。あの厨房、声が抜けるから」
俺は魚を戻して、代わりに袋を出した。
屋敷の仕入れの札だ。今日はここへ寄る予定を入れていなかったので、割り当ての欄が空いている。
「乾かした葉のほう、屋敷で使う。ドランさんに見せる」
「え」
「駄目なら断られる。俺が決められるのは、卓に出す前に止めることだけだ」
「……いいの」
「よくない。値は市の相場で書く。安くしたら俺の記録が使い物にならなくなる」
トビが袖で顔をこすった。
それを隠すみたいに、箱の並びを直しはじめる。この癖は林で見たときのままだ。
「ユエル」
「ん」
「そっちが残るとは思わなかった」
俺は札から目を上げた。
「僕、出ていくのはユエルだと思ってた。外から来た人だし、逃げ足が速いって自分で言ってたし」
「言ってたな」
「屋敷にいるの、僕のほうだと思ってた」
トビは箱の角をそろえ終わって、両手を台についた。
「入れ替わったね」
「そうだな」
「どっちが得したんだろ」
「それは10年くらい経たないと分からない」
「長いよ」
「長い。だから毎年、春に数えに来る」
言ってから、俺は自分の言い方に気づいた。
毎年、と言った。来年もこの屋敷にいる前提で喋っている。夏に来たころの俺は、明日の朝までの勘定しかしていなかった。
「ユエル、屋敷の人、来ないの」
「誰が」
「閣下」
「来ない。市に用がない」
「ふうん」
「用ができたら来る。俺が用を作れば来ると思う」
トビが目を丸くした。
「それ、けっこうすごいこと言ってない?」
「言ってないぞ」
屋敷へ戻ったのは、日が傾きかけたころだった。
坂の途中で息が上がる。倒れてから、体の目盛りは1つぶん下がったままだ。右手は冷える日に遅れるし、疲れは足より先に胸へ来る。医師は残ると言った。残ったのだと今はもう思っている。
門を入ると、玄関の脇に馬車の轍が新しく残っていた。
王家の書役が午前のうちに来ている。塩の帳面の突き合わせは年に4度で、今日が春の1度目だった。使者本人は来ない。来るのは書役で、数字だけを見て、数字だけを持って帰る。
それでも俺は轍の幅を覚えて帰ることにしている。次に来る車が同じ幅かどうかは、見ておいて損がない。
厨房の扉を開けると、湯気が先に出てきた。
「遅い」
「市で捕まりました」
「誰にだ」
「元うちの従僕です」
ドランさんは竈の前にいる。低い火の鍋が1つ、いつもの位置にかかっていた。鐘3つぶんの煮込みは、この厨房の冬からの決まりになった。
「ドランさん。これ、市で見つけました」
「なんだ」
「乾かした葉です。低い火の煮込みに入れると、香りが後ろから来ます」
「試してねえだろ」
「試してません。試すのは工程を決めてからです」
「じゃあ明日だ」
「明日ですね」
ドランさんは布を投げてよこした。
俺はそれで手を拭いて、卓の隅の帳面を開く。この冬から、俺たちは1冊つけている。閣下の口に届いたものを書いていく帳面だ。
今のところ3つある。
蜜。低い火の根菜。それと、なぜか塩の強い干し肉。3つ目だけ理屈が分からない。分からないので、そのまま書いてある。分からないものを分かったことにすると、記録は嘘になる。
3つで多いのか少ないのかを、俺には判断できない。比べる相手がいないからだ。世の中の舌は、1日に何十も味を受け取っているはずだ。
秋の前に蜜が1つ目に入って、そこから冬まで欄は増えなかった。増えなかった月のぶんも同じ帳面に書いてある。異常なしと書くのと同じ手つきで新しい欄を足せる日が来るまでは、たぶんまだかかる。
「ユエル」
「はい」
「お前、市でなんて名乗った」
「食事管理役です」
「長えな」
「長いです」
「鍋を運べ」
食堂の長卓には、椅子が2つ出ている。
20人ぶん並べられる長さの卓に、使われている椅子は2脚だけだ。片方が当主の席で、もう片方が俺の席になる。夏に来た日から数えて、この眺めは何も変わっていない。
変わったのは、俺の席にも器が出ていることだ。
「閣下」
「戻ったか」
「戻りました。市で棚を1つ見てきました」
「棚」
「知っている顔が売っておりました。乾かした葉を仕入れます。値は相場です」
「そうか」
クレイス・ヴァルドレイは席についている。
左手は卓の上で、右手は膝の上だ。器はもう置いてあるのに、この人は手を出さない。冬からこの形が続いている。俺がひと匙を口に入れる必要はもうないのに、この人は俺が椅子に座るまで匙を取らない。
俺は席についた。
卓の隅に木の匙が置いてある。柄が短くて、縁の左側が欠けているやつだ。食器としては使わない。俺が座るときの目印として、そこに置いてある。
「本日の献立です。塩漬け肉と根菜の煮込み。麦のパン。春の豆を茹でたもの」
「豆か」
「殻が薄いので、今の時季だけです」
この人が匙を取った。
1口目。いつもの速さで、いつもの量。2口目までのあいだが、夏より少しだけ長くなった。
俺も自分の器へ匙を入れた。
毒見のためではない。同じ時刻に、同じものを、隣で食べる。それが今の俺の職務に書いてある。書式に書いてあることは、この家では強い。
「ユエル」
「はい」
「豆は」
「はい」
「……音がする」
「音、ですか」
「噛むと鳴る」
俺は板を出しかけて、やめた。
帳面は厨房にある。取りに行けば話が切れる。切れたら、この人はもう同じことを言わない。
「明日、覚えていてください」
「覚えていない」
「では、俺が覚えます」
この人は何も答えなかった。
器の縁に匙を立てかけて、そこから手を離さずにいる。中身はもう残っていない。
俺は立ち上がって、その器を取った。
厨房から運んできた鍋の蓋を開ける。湯気が顔に当たって、根菜の匂いが鼻の奥まで届いた。低い火で長くかけたものは、湯気の重さが違う。
器に入れて、卓へ戻す。
匙はもうこの人の手にある。まだ何も言われていない。言われる前に出すのが、俺の職務に書いてある。
「おかわりをどうぞ」




