第30話「毒のない食卓は静かすぎる」
毒の来ない屋敷というのは、思っていたより手持ち無沙汰だ。
冬の28日目。査問から7日が過ぎた。
この7日で、離れの窓は全部閉められた。王家の書役が2度来て、帳面を運び出していく。屋敷の勝手口の外の石は蔵番の爺さんがどけて、そのあたりを掃いて、掃いた土を庭の隅へ捨てた。誰も俺に指図しないのに、誰もが自分の場所を1つずつ片づけている。
石の下から食器室の小壺までを運んだ手が誰のものかは、まだ分かっていない。そこから先は査問の続きで、書役がまだ帳面をめくっている。俺の手元では、その1行を空けたまま置いてある。
俺の1日は3回の手順で区切られてきた。匂い。色。銀。ひと匙。1回およそ1分で、それが朝と昼と夕にある。合わせて3分だ。屋敷へ来た日から、俺はこの3分で時間の位置を測ってきた。
その3分に何も出てこなくなると、1日の形が分からなくなる。
異常なしの記録が7日ぶん並んだ板を見ながら、俺は自分が何をしていない人間なのかを考えていた。
「毒見役」
「マレンさん」
「応接室でございます。お客さまがお着きになりました」
「今日はどなたですか」
「お分かりでしょう」
分かっていた。分かっていて聞いたのは、口に出しておいたほうが身構えられるからだ。
応接室の火は昨日から入れてある。
ヴェルナーは前と同じ場所に座っていた。外套の裾に泥がない。今日も玄関の石を3歩だけ歩いてきた靴だ。
供の者が浅い木箱を卓へ置いた。
「公爵閣下。まずはこちらを」
「また菓子か」
「王家の厨房のものでございます」
それから、この使者は俺のほうを向いた。
「毒見役どの。どうぞ、お検めくださいませ。所要は1分でございましたか」
「1分を目安といたします」
「では、そのあいだ黙っております」
俺は箱の蓋を取った。
前と同じ、干した果実を蜜で煮て固めたやつだ。取り分ける。
匂いを取る。粉が先に来て、そのうしろに蜜と干した果実がいる。半月前にこの部屋で取ったのと同じ順で、同じところで終わる。色を見る。断面の粒がそろっていて、沈んだものがない。銀を傾ける。曇りは出ていない。
ひと匙。粉が舌の上で溶けきるまでに数は8まで進んだ。10まで数えて、余分に10を足す。
そのあいだ、ヴェルナーは本当に一言も喋らなかった。体を動かさずに、俺の手のほうだけを見ている。前は止め方を思いつかない顔をしていた。今日は止める気がない顔だ。
「異常ありません。どうぞ」
「ありがとうございます」
「王家の使者に礼を言われる筋合いはありません」
「筋合いのないことをするのが、わたくしの職でございますので」
クレイス・ヴァルドレイは箱に手を出さなかった。
「本題を」
「はい。書面を持ってまいりました」
紙が卓の上を滑ってくる。
王家の書役の封で、封蝋の色は冬の書付と同じだ。マレンさんが受け取って、読み上げをはじめた。
「ヴァルドレイ公爵家に対する告発は、査問の結果、成立せずと判断された。よって公爵位の返上を求める根拠は消滅する。当該条項は取り下げるものとする」
俺は自分の指が数える形に動くのを、そのままにしておいた。
「一方、塩の管理については、先の調停において公爵より同意が示されている。当該同意は査問の結果によって取り消されるものではない。よって、ヴァルドレイ領における塩の産出および出荷は、公爵家と王家の共同管理に移行する。帳面は年に4度、双方の書役が突き合わせるものとする」
マレンさんが紙を下ろした。
「以上でございます」
部屋の中で誰も動かなかった。
俺は自分の頭の中で、その2つを並べ直した。位は残る。塩は半分持っていかれる。第一の条件は根拠が消えて落ちて、第二の条件はこの人が自分の口で飲んだから残っている。
勝った側が払っている。
「公爵閣下。ご不服でございましょうか」
「ない」
「さようでございますか」
「飲むと言った。言ったものは払う」
「結構なお答えでございます」
ヴェルナーは袖の折り返しを直した。
直し方が丁寧だ。この男は帰る前に必ず身なりを整える。整えてから最後の一言を置いていく人間を、俺は前世の会議室で何人か見送っている。
「毒見役どの」
「はい」
「あなたのお名前を、王家の書役の帳面に入れておきました」
俺は返事をしそこねた。
「毒見役は家政の職でございますから、本来は載りません。ですが、査問の議場で実演をなさった方の名が、どこにも残らないというのは書面として不格好でございます」
「……なぜ、そんなことを」
「不格好が嫌いなのでございます」
答えになっていない。
なっていないのに、この男は満足そうな顔をした。
「1つ、うかがってもよろしいですか」
「どうぞ」
「あなたは、今回で何を失われましたか」
ヴェルナーの指が止まった。
止まって、それからまた組み直された。位置が王都で見たときより1つ高い。
「何も」
「何も、ですか」
「後見の役は書面の上のものでございます。書面の上のものは、書面が変われば消えます。わたくしが今日持って帰るのは、紙に書かれた権利が1つきりでございます」
「その方は、王家の預かりになりました」
「存じております」
「あなたは、あの方と一度も同じ卓につかれなかった」
「つく必要がございませんでしたので」
俺は口の中を1度湿らせた。
言い返す言葉が3つ浮かんで、3つとも役に立たないと分かった。この男は嘘をついていない。嘘をつく必要のある場所に立っていない。
「毒見役どの。1つ申し上げてもよろしいですか」
「どうぞ」
「わたくしは、あなたを平民の使用人として勘定しておりました。勘定を間違えたことは認めます」
「恐れ入ります」
「今年の帳面は、これで閉じます」
ヴェルナーは立ち上がった。
「帳面というものは年ごとに新しくなりますし、塩は毎年出ます。わたくしは年に4度、この家の数字を見ることになりました。数字を見る者は、いずれ数字の外側も見たくなるものでございます」
「それは、脅しですか」
「勤めの話でございます」
外套を受け取って、この男は玄関のほうへ歩いていった。
馬車の車輪が動きはじめる音を、俺は応接室で聞いていた。
クレイス・ヴァルドレイは卓の菓子の箱を見ている。
「閣下」
「なんだ」
「あの人は、来年また来ます」
「来る」
「その次も来ます」
「来るだろうな」
この人は箱から1つを取って、口へ入れた。
俺が検めたやつだ。順番は守られている。
「ユエル」
「はい」
「味がしない」
「王都の菓子ですので」
「そうか」
そのやり取りを俺は板に書いた。異常なしの欄の隅に小さい字で。
午後、門前に人が集まった。
セラン・ヴァルドレイが荷を1つ持って立っている。馬もいない。荷車もない。麻の袋を肩にかけただけの格好で、離れの門ではなく屋敷の門のほうへ来ていた。
「毒見役の方」
「セラン様」
「ご挨拶に参りました」
「どちらへ」
「北です。母上の実家ではないほうへ行きます」
この子の顔は夏に会ったときより輪郭が細くなっている。
笑い方は変わっていない。上と下が別々に動く笑い方だ。今日は上のほうも一緒に動いていた。見ているこちらのほうが落ち着かなくなる。
「王家へ申し立てを出しました」
「何をですか」
「僕が瓶を2本持たされて、1本を屋敷の勝手口の外の石の下に置いたこと。もう1本を捨てずに持っていたこと。それだけを書きました」
「それだけ、ですか」
「それだけです。母上のことは1行も書いていません」
瓶はもう俺の手元にない。この子の申し立てと一緒に王都へ出した。書き添えたのは3つだけだ。預かった日と場所と、俺が中身を検めていないという一文。
「セラン様。書かれなくてよかったんですか」
「書けません」
「書けない」
「僕が母上のことを書いたら、それは僕が母上に頼まれごとをした話になります」
この子は荷を持ち直した。
「頼まれごとの話は、僕には長すぎるんです」
門の内側で、風が石を撫でていく音がした。
「罪は消えないと言われました」
「はい」
「消えないほうがいいと思いました。消えたら、僕はまた呼ばれるのを待つ人間に戻ります」
セランの足が動いた。
3歩ぶん進んでそれから振り返る。
「毒見役の方。兄上は、笑われますか」
俺は答えを探した。
正直なところを言うことにする。
「笑いません」
「そうですか」
「でも、この前、味の話をされました」
セラン・ヴァルドレイはうなずいた。
うなずいて、それきり振り返らずに坂を下りていった。麻の袋が肩で1度跳ねて、そのあとは背中の形しか見えなくなる。
門のところに残ったのは俺と、いつのまにか隣に立っていたトビだ。
「あの人、どこ行くの」
「北だそうだ」
「北ってどこ」
「知らない」
「ユエルさ」
「なんだ」
「あの3枚、使った」
俺はトビのほうを見た。
こいつは門柱に背中を預けて、両手を袖の中へ入れている。冬になると手を出さない癖がある。
「何に使ったんだ」
「乗合の券。市まで行って、帰ってきた」
「それで終わりか」
「終わり。行って、見て、帰ってきた」
「何を見た」
「店。あと、店の裏。あそこ、朝に荷を下ろす場所が3つしかなくて、みんな並んでる」
トビは袖から手を出して、指を3本立てた。
それから自分でその指を見て、なんとなく折った。
「僕、数えてたんだよ。ユエルみたいに」
「うつるからな」
「あの金さ、持ってると重かった。使ったら軽くなった」
「そうか」
「軽くなったぶん、行き先が1つ決まった」
俺は何も言わなかった。
言わなくてよかったのだと思う。こいつは俺に相談しに来たのではなくて、報告しに来ている。報告は聞いておけばいい。前の仕事でもそうだった。
夕方、執務室へ呼ばれた。
卓の上に紙が1枚出ている。公爵家の書式で、上のほうに紋が刷ってあるやつだ。
「毒見役」
「はい」
「今日で終いだ」
俺は自分の返事が遅れるのを聞いた。
「……解任状には、雇い主の署名が要ります」
「これは解任状ではない」
この人は紙をこちらへ滑らせた。
上のほうに、見たことのない職の名が書いてある。
食事管理役。
「読め」
「食事管理役。主人の口に入るいっさいの物について、仕入れから卓に出るまでの工程を管理する者」
俺は目を上げた。
「続きがあります」
「読め」
「当該の職は、毒見の義務を負わない」
紙の上のその一行を俺は3回読んだ。
毒見の義務を負わない。つまり、この職に就いた人間は毒を口へ入れなくていい。工程を管理して、記録を取って、卓に出す前に止めればいい。前世の俺がやっていた仕事にそっくり戻る。
「閣下」
「なんだ」
「これ、俺に毒を食わせないための書式ですね」
「書式の話だ」
「書式の話として、うかがっています」
「工程を先に止めるほうが安い。舐めてから止めるのは遅い」
理屈は正しい。正しいのに、この人がその理屈にたどり着くまでに半年かかっている。
半年かけて、この人は俺を卓から下ろす方法を探すのではなく、卓に置いたまま毒から離す方法を探した。
「1つ、抜けています」
「言え」
「勤務の場所が書いてありません。工程の管理なら、厨房と食器室と塩蔵が持ち場になります。食堂に立つ理由が、この書式にはありません」
俺は羽根ペンを取った。
ペンは手の中にあるのに紙へ下ろせない。俺が書くと、それは俺が自分で自分の席を作った書式になる。書式は作った人間の都合で歪む。前の仕事で、俺はそれを何度も突き返す側にいた。
「閣下」
「なんだ」
「俺は、ここから先を書けません」
この人は俺の手からペンを取った。
取り上げるときの手つきが乱暴ではない。書斎で俺がこの人からペンを取ったときと同じ角度だった。
紙の下の空いたところに3行が足された。
俺は逆さまの字を読んだ。
「同席のこと。食事管理役は、主人の食事の席に同席するものとする。時刻は朝、昼、夕。以上を職務とする」
「読めたか」
「読めました」
「なら座れ」
俺は紙を受け取った。
毒見の要らない食卓に、椅子が2つ並ぶ規定が今できた。片方が当主の席で、もう片方が俺の席だ。
窓の外で、坂を下りていった背中のことをまだ少し考えている。北の道は冬に閉じる場所があると、いつかトビが言っていた。あの子は歩いて行くのだろうか。
閉じ切らないものを1つ抱えたまま、俺は明日の献立を聞きに厨房へ下りた。




