第29話「甘い、と閣下が言う」
毒を舐めた次の日というのは、思っていたより地味に来る。
冬の22日目。数える相手のいなくなった最初の朝だ。
目は開いた。開いたのに、そこから先が繋がらない。腕を上げようとして、上がるまでに1拍かかる。指を折ろうとすると、3本目で意思と手の話し合いがはじまる。痺れは夜のうちに手から足へ移っていて、寝返りを打った拍子に足の指が全部他人になった。
天井の梁の数を数えた。4本ある。数え終わっても4本のままで、誰も来ない。
「毒見役」
「マレンさん」
「お目覚めでございますか」
「起きています。起きているだけです」
「医官は昼にまた参ります」
「今日の献立は」
マレンさんが盆を持ち直した。
「そこでございますか」
「そこです。俺の職務ですので」
「本日は毒見役が寝込んでおりますので、若様は水と麦のものだけになさるそうでございます」
「それは献立ではありません」
「わたくしもそう思っております」
マレンさんは俺が死にかけた日から、俺の前で心配の顔を作らない。作らないぶん、水差しの位置がいつも手の届くところにある。
昼まで寝た。
寝たというより、体のほうが起こしてくれなかった。目を閉じているあいだ、頭は議場の卓の上を何度もなぞっている。器を3つ。白い器。アデール・ヴァルドレイが半歩下がって、もう一度近づいた。
「ユエル」
扉のところにトビがいた。
桶を持っている。落とすなよ、と言う前に、そいつは持ち手を両手で握り直した。
「起きてる?」
「起きてる」
「死んだって聞いた」
「誰から」
「厩のガレルさん」
「門番だぞ」
「門番って、いちばん最初にいろんな話を作るんだよ」
トビは桶を床に置いて、寝台の足元に腰を下ろした。座る前に俺の顔を見て、それから寝具の膨らみを見て、生きている形をしているかどうかを確かめている。
「王都でさ、何やったの」
「粥を3つ並べた」
「それだけ?」
「それだけだ」
「ユエル、たまに嘘つくよね」
「嘘じゃない」
嘘ではない。俺がやったのは器を並べて、順番を決めて、最後に自分の口へ入れることだけだ。話の骨だけ抜き出すと、あの1日は毒見の作法をそのまま大きくしただけになる。
「起きたら厨房行く?」
「行く」
「ドランさん、朝から竈の前にいるよ。誰も近づけない」
「怒ってるのか」
「わかんない。でも火だけずっと見てる」
俺は寝台の縁を掴んで体を起こした。
起き上がるのに、腕より腹のほうが働いた。足の裏が床に着いた瞬間、膝から下が自分のものではないみたいに冷たい。
立った。倒れなかった。今日はそれで合格ということにする。
厨房の扉は開いていた。
竈に火が入っている。鍋が2つ。片方は湯だけでもう片方は空だ。ドランさんは前掛けをつけて、いつもの位置に立っていた。
釘に掛けてあった前掛けが、あの人の腰に戻っている。
「ドランさん」
「寝てろ」
「寝ました」
「足りてねえ」
「足りています」
振り返らない。振り返らないまま、火かき棒で薪の位置を1つ直した。灰が1粒も外へ落ちない。20年やってきた手つきは、20日休んでも痩せていなかった。
「ドランさん。お願いがあります」
「聞かねえ」
「まだ言っていません」
「言う前に断ると、こっちの時間が減る」
どこかで聞いた断り方だ。王都の裏通りにも同じことを言う男がいる。腕のいい職人はだいたい似た角度で人を追い返す。
「今夜、あの一皿を出させてください」
火かき棒の先が薪から離れた。
「塩漬け肉と根菜の煮込みです。ドランさんのやつです」
「あれは俺のだ」
「はい。だからお願いしています」
「お前が出すのか」
「一緒に作らせてください」
ドランさんが振り返った。
目の下に線が2本増えている。20日ぶんの寝不足の顔だ。厨房から外されているあいだ、ドランさんが屋敷のどこで何をしていたか、俺は薪の山の組み直し方でしか知らない。
「レシピは変えねえぞ」
「変えません」
「1つも変えねえ」
「材料も分量も変えません。変えるのは工程だけです」
「同じことじゃねえか」
「違います」
俺は卓に手をついた。
「根菜を先に、低い火で長く煮させてください。今の作り方だと、根菜は肉と一緒に強い火へ入ります。強い火で入れると、根菜は崩れるだけです。低い火でゆっくり火を通すと、中の味が動きます」
「動く」
「動きます。同じ人参が、途中から別の味になります。前世で……前の仕事で、その現象をさんざん見ました」
「魔法みてえなこと言うな」
「魔法じゃありません。温度の話です」
ドランさんは俺を見ていた。
包丁を持っていない手が、卓の縁を親指で押している。押して、離して、また押した。
「時間は」
「鐘3つぶん要ります」
「長えな」
「長いです。あと、干し肉の塩は3回で抜いてください。2回だと残ります」
「誰に教わった」
「あなたにです」
ドランさんが黙った。
黙って、竈の火を1つぶん小さくした。
「根菜は洗え。皮は剥くな。剥くと逃げる」
「かしこまりました」
「あと、座ってやれ。倒れられると鍋が汚れる」
夕方まで、俺たちは厨房にいた。
俺は椅子に座って根菜を洗い、途中で2回休んだ。休むたびにドランさんが何も言わずに湯を1杯置いていく。置き方が乱暴なので、いつも縁から少しこぼれる。こぼれたぶんを拭くのは俺の仕事らしかった。
低い火の鍋は湯気の立ち方が違う。
強い火は上へまっすぐ上がる。低い火は鍋の縁に沿って横へ流れて、途中で消える。厨房の空気がゆっくり重くなって、根菜の匂いが床のあたりに溜まりはじめた。
「おい」
「はい」
「これ、匂いが変わったぞ」
「変わります。そこからが本番です」
「本番」
「はい」
ドランさんは鍋を覗きこんで匙を1本取った。
汁をすくって、口へ入れる。入れてから、動かなくなった。
「……なんだこれ」
「どうですか」
「知らねえ味だ」
「同じ材料です」
「知ってる。俺が20年入れてる材料だ」
あの人は匙を鍋の縁に置いた。
両手を腰へやって、天井のほうを1度見上げる。天井には何もない。
「肉、入れるぞ」
「お願いします」
夕食の刻限に、俺は食堂へ上がった。
長卓に椅子が2つ。片方が当主の席で、もう片方が俺の席だ。今日は俺の席にも器が出ている。
運ぶのは俺の仕事にした。ドランさんは厨房から出ない。20年、あの人は卓に顔を出したことがない。
廊下の曲がり角に人影があった。
俺は名前を呼ばなかった。呼べば入らなくなる人の呼び方を、俺はこの屋敷で覚えた。
「閣下」
「来たか」
クレイス・ヴァルドレイは席についていた。
左手が卓の上にある。右手は膝の上だ。夏からこの人は俺が皿を置くのと同じ速さで手を出してきた。今日は出てこない。昨日の議場から、この人の手は自分の側で止まったままだ。
「本日の献立です。塩漬け肉と根菜の煮込み。麦のパン。干した果実を戻したもの」
「煮込みか」
「はい」
俺は自分の器から取り分けた。
匂いを取る。塩漬け肉の脂と根菜の湯気。奥に引っかかるものはない。色を見る。汁が濁っていない。銀の縁を明かりへ傾ける。曇りは出ていない。
ひと匙。
舌に乗せて、10まで数える。数えているあいだに、口の奥のほうで何かが遅れて立ち上がってきた。低い火のせいだ。3時間ぶんの味が、後ろから追いついてくる。
「毒はございません。どうぞ」
この人が匙を取った。
1口目。いつもの速さでいつもの量。飲み下す。
2口目。
匙が止まった。
食堂の中で動いているものが何もなくなった。火の音もしない。俺は自分の指がまだ痺れていることを、そのとき急に思い出した。
この人は器を見ていた。
縁のあたりへ目を落として、それから匙をもう一度入れる。口へ運んで、飲み下したあとで、喉のところへ手が動いた。
「ユエル」
「はい」
「これは」
「塩漬け肉と根菜の煮込みです」
「そうではない」
「はい」
「……甘い」
俺は返事をしなかった。
できなかった。口を開けたのに、そこから先の道具が全部どこかへ行っていた。
夏の食堂で、この人は毒を口に入れて、味がしないと言った。泥の味しかしない、毒でも同じだ、と。声が平坦すぎて、強がりにすら聞こえなかったのを俺は覚えている。
あれから半年ぶん、俺はこの卓に座っている。座って、匂いと色と銀を順に見る。最後にひと匙を口へ入れる。数えた回数は板に書いてあって、板はもう3枚になった。
3枚ぶんの朝と昼と夕の先に、たった1語が置かれた。
「閣下」
「なんだ」
「もう一度、仰っていただけますか」
「言わん」
「1回だけです」
「言わん」
この人は器のほうへ目を落としたままだ。
耳のうしろが赤い。冬の食堂は寒い。寒い部屋で耳だけ赤くなる理由を、俺は品質管理の知識では説明できない。
「閣下。今のは、蜜のときの道です」
「なんの話だ」
「秋の前に、卓に器を5つ並べたことがあります。塩と酢と焦がし麦と胡椒と蜜です。あのとき、閣下は蜜のものだけ空にされました」
「覚えている」
「覚えておられるんですか」
「覚えがある、と言ったはずだ」
言った。たしかにこの人はそう言った。
あのとき俺は記憶のほうから手を伸ばして輪郭をつかんでいるのだと解釈した。解釈は当たっている。当たっていたのに、そこから今日までに半年かかった。
「ドランさんの材料は1つも変えていません。工程だけ変えました。根菜を低い火で長く煮ると、中の味が動きます」
「動くのか」
「動きます。もともと入っていたものが、出てくるだけです」
クレイス・ヴァルドレイは匙を持ち直した。
3口目を口へ運ぶ。それから4口目。この人が同じ器へ4度匙を入れるところを、俺は座って数えていた。
「ユエル」
「はい」
「作ったのは誰だ」
「ドランです。俺は火の番をしました」
「呼べ」
「呼びません」
「なぜだ」
「あの人は卓に出ません。20年出ていません」
この人は何か言いかけて、口を閉じた。
そのまま器の底へ匙を入れた。残っていたものを寄せて、それも食べる。
俺が皿を下げて厨房へ下りたのは、それからしばらく経ってからだ。
厨房の火は落ちかけていた。
鍋が壁ぎわに寄せてある。竈の前の床に、ドランさんが座っていた。
膝を立てて、その上に腕を投げ出している。前掛けはつけたままだ。俺はその姿を見て、扉のところで足を止めた。
あの人は休むときも壁に寄りかかるだけで、腰から下を床につけない。20年ぶん床を知らない足が、今日は床の上に伸びている。
「ドランさん」
「聞いた」
「はい」
「廊下で聞いた」
「はい」
「入ってねえぞ。入ってねえからな」
「存じています」
ドランさんは天井のほうを見ていた。
目のふちが赤い。手の甲でこすった跡が、頬のところに横に1本ついている。
「20年か」
「20年です」
「長えな」
「長いです」
「……そうか」
それきり、あの人は何も言わなくなった。
俺は洗い場の縁に腰を下ろした。座ると足の裏の感覚が戻ってきて、戻ってきたぶんだけ痺れも一緒に戻ってくる。明日も半日は使い物にならないだろう。
竈の火が薪を1本ぶん落として、そのぶんだけ影が動いた。
「ユエル」
「はい」
「明日、根菜は何を入れる」
「まだ決めていません」
「決めろ。俺は鍋を火にかける」
「では、明日も低い火で」
「鐘3つぶんだろ。分かってる」
ドランさんは床に座ったまま、火かき棒へ手を伸ばした。
伸ばして、届かなかった。届かないので、そのまま手を下ろす。立ち上がる気配がない。
俺は火かき棒を取って、あの人の手のところへ置いた。
「ありがとよ」
その一言を、俺は板に書かないことにした。




