第28話「断罪の席に、皿を出す」
王都の議場には物を置く卓が1つもなかった。
冬の21日目。俺が数えてきた日数は今日で0になる。
部屋は思っていたより天井が低くて、段になった席がぐるりと壁に沿って上がっている。中央の床には何も置かれていない。端に書役の机が1つあって、紙と砂の壺が乗っている。あれは書役のものだ。座る人間のための場所は用意されているのに、物を検めるための場所がない。
議場というのは物を扱わない部屋なのだと、入って3歩で理解した。ここは言葉だけで人を裁く場所だ。
俺の職能は言葉の外にしかない。
前世の妹の画面の中で、この人は最後に断罪されて終わる。俺が覚えている筋書きのうち、まだ起きていないのはそこだけだ。
その筋書きの部屋へ、俺は布に包んだ銀の皿を1枚持って入ってきた。
「ユエル」
「はい」
「息が浅い」
「上ってきましたので」
「階段は12段だ」
数えていたらしい。
クレイス・ヴァルドレイは黒の外套を脱がずに、被告側の席の前に立っていた。腰の帯に指輪を通した紐は下げていない。今日は自分の指にはめている。
俺は鎖骨の下が固くなっているのを感じて、そこへ息を1つ入れた。倒れてから、疲れは足より先に胸へ来る。12段でこうなる体で、俺はこれから1日ぶんの仕事をする。
告発側の席には黒に寄せた青の襟が見えた。
アデール・ヴァルドレイは背筋を伸ばして座っている。手に何も持っていない。冬の茶会の幕の内側で見たときと同じだ。あの人は持ち物を減らしておいて、いつでも動けるようにする。
その斜め後ろに、ヴェルナーが座っていた。外套を膝にも掛けずに、背をまっすぐ立てている。
傍聴の段の隅に、セラン・ヴァルドレイが一人で座っている。外套を膝に畳んで置いていて、開廷から閉廷まで母のほうを見なかった。
被告側の後ろの列にはドランさんがいる。
王都へ来るのに借りた上着の肩が合っていない。あの人は昨日から一言も喋っていない。
「開廷する」
査問官は3人だった。
真ん中の老人が読み上げをはじめる。声に抑揚がない。抑揚のない声で読まれると、書いてある中身の重さがそのまま出る。
「ヴァルドレイ公爵領において毒の原料が製造され、王都へ流されている。領内の塩蔵より原料が発見され、王家への届け出がなされた。届け出人、アデール・ヴァルドレイ」
紙がめくられる音がした。
「処分の求めは、公爵位の剥奪および領地の管理権の移管。証言者、アデール・ヴァルドレイ。後見、王家使者ヴェルナー」
「異議はあるか」
「ある」
クレイス・ヴァルドレイの声は短い。短いのに、低い天井の部屋ではよく通った。
「では、証言者から」
アデール・ヴァルドレイが立ち上がった。
立ち方に音がない。声は低くも高くもなくて、聞く側が身を乗り出さずに済む速さで喋る。会議で人の耳を疲れさせない話し方をする人間を、俺は前世で何人か見てきた。あれは訓練で身につくものだ。
「わたくしは、あの家に嫁いで19年になります。夫を亡くしてからは離れにおります」
「届け出の経緯を」
「領の南で塩を扱う者から、蔵の勘定が合わないと聞きました。夏の3つの月です。わたくしは蔵を見に行ける立場にございません。ですから、聞いたことをそのまま王家へ書きました」
「現物は見ていないと」
「見ておりません。見ておりませんが、書かないという道もございませんでした」
議場の段のあちこちで、紙の擦れる音がした。
俺は自分の板を膝の上で握った。書きつけの3枚目だ。夏からの朝と昼と夕が、この板の上に並んでいる。
「厨房のことも申し上げてよろしいですか」
「述べよ」
「あの家の厨房を20年管理しておりますのは、料理長のドランでございます。わたくしはあの者を悪く申したいのではありません。20年、誰よりも卓に近いところにおりました。それだけの事実を申し上げます」
ドランさんが動く音がした。
振り向くと、あの人は膝の上で両手を握りこんでいた。指の関節が白い。それ以外はどこも動いていない。
「被告側、反論を」
クレイス・ヴァルドレイが俺のほうへ目を向けた。
合図はそれだけで、俺は板を持って立った。資格の例外は書面で認められている。王家の調停を受ける代わりに、この人が買った1つ目だ。
「毒見役、ユエル・メリクと申します。この家の卓に出たものの記録を持っております」
「述べよ」
「秋に俺が倒れた日、俺の口に入ったのは昼のひと匙です。同じ鉢から閣下も召し上がりました。閣下には何も起きていません。厨房を通ったものが原因なら、同じ鉢から取った2人が同じにならなければおかしい」
書役の筆が動いた。
動いたのを見て、俺は少しだけ息をした。記録が紙に乗るところまでは来た。
「毒見役どの」
声はヴェルナーのものだった。
「その記録を書かれたのは、どなたでございますか」
「俺です」
「では、うかがいます。あなたは秋に解任の通告を受けておられますね」
「受けました」
「その解任状に、雇い主の署名はございますか」
「ございません」
「なぜ」
「……存じません」
「書面には、こうございます。署名を欠いたままにしてあるのは公爵が当人を庇うためであり、当該人物の証言は公爵家の意を受けたものと見なすのが相当である」
ヴェルナーは紙を読まなかった。読まずにそこだけを暗唱した。
「記録も証言も、書いた手が同じでございましょう。庇われている者の言葉は、庇う者の言葉と同じ重さにしかなりません」
査問官が筆を止めさせた。
書役の手が浮いて、紙の上で行き場をなくす。俺が夏から書いてきた3枚が、この部屋では紙束に戻ったのが分かった。
分かっていた。分かっていたのに、実際にそうなると喉の下がざらつく。
「王家の書役より、報告がございます」
端の机から別の声が上がった。
「調停の条件により、ヴァルドレイの離れから発された冬の招待状14通のうち、公爵家宛の1通を除く13通を検めました。いずれも銀に曇りは出ておりません。公爵家宛の1通のみ、縁から内側へ曇りが広がりました」
議場が動いた。
人が座り直す音というのは、一斉に起きると波のように聞こえる。俺は自分の耳の後ろが熱くなるのを感じた。
「アデール・ヴァルドレイ。申し開きを」
「その1通は、わたくしの家から出ております」
アデール・ヴァルドレイは否定しなかった。
「ですから、わたくしは申し上げたいのです。あの家を狙う手は、離れの紙にまで乗ってまいります。わたくしの家は使われております。使われていることに気づけないほど、わたくしは無力でございました」
うまい。
あの人は自分の家から毒が出たという事実を、そのまま自分の被害の証拠に変えた。茶会で自分の家を毒で人が死にすぎた家と呼んで場を明るくしたときと同じ手の使い方だ。頭を下げると部屋は前へ進む。
「毒見役どの。まだ何か」
俺は板を膝の上へ下ろした。
「証言はいたしません」
査問官の眉が動いた。
「申し立てを取り下げるのか」
「取り下げません。証言が軽いのは、そのとおりだからです。俺は公爵家に雇われていて、給金もこの家から出ています。俺の言うことに重さを求めるほうが間違っています」
「では、何をする」
「検めます」
俺は自分の荷を床へ置いた。
「毒見役の仕事は、話すことではありません。物を検めて、順番どおりに手を動かして、最後に自分の口へ入れることです。この部屋には物を置く卓がございません。1つお貸し願えますか」
控えの机が1つ運ばれてきた。
俺は布を広げて、その上に3つの器を並べた。
同じ形の白い器だ。屋敷から3つ持ってきた。中身は麦を煮た粥で、量も同じところで止めてある。3つとも湯気が同じように上がって、表の面に映る天井の色まで同じだった。
「この3つのうち、1つに塩蔵の樽から取ったものが入っています。残る2つには入っていません」
「その見本は」
「封をする前に、俺が蓋を開けた日に取りました。日と時刻は蔵の記録にあります。立ち会いは蔵番と閣下です」
「毒見役どの。あなたが入れた物を、あなたが当てて何になります」
ヴェルナーは丁寧なまま座り直した。
「当てるのは俺ではありません」
俺は器の位置を1度そろえ直した。
「1つ、条件を申し上げます。この場では道具を使いません。銀を当てません。銀は俺の持ち物ですから、使えば俺の細工だと言われます。使えるのは目と鼻だけです」
「それでは何も分かるまい」
「分からないのがふつうです」
俺はそこで顔を上げた。
「ですが、この場には分かる方がおられます。アデール様は現物をご覧にならずに、蔵の何列目の何番目に毒があるかを書いて王家へ届け出られました。目も鼻も使わずに当てられた方です。目と鼻がおありなら、なお当てられるはずです」
アデール・ヴァルドレイの手が、膝の上で1度だけ返った。
「毒見役」
「はい」
「わたくしを試すおつもり」
「試すのではありません。お確かめいただきます。あなたは、毒を防いだ側のお立場で今日ここにおられます」
議場が黙った。
「防いだ側の方に、防ぎ方を見せていただきたいのです」
査問官の3人が短く言葉を交わした。
真ん中の老人が卓のほうへ手を上げる。
「認める。ただし順序を定める。被告側が先に試せ」
思っていたより早く道が開いた。
俺は頭を下げて、クレイス・ヴァルドレイのほうを向いた。
「閣下」
「言え」
「3つとも、召し上がっていただけますか」
「なぜ俺が」
「告発されている側が先に試すのが筋だと、査問官がお決めになりました」
この人は何も聞かなかった。
理由も危なくないのかも、どれに入っているのかも聞かない。歩いてきて、卓の前に立って、右から順に器へ匙を入れた。1つ目。2つ目。3つ目。飲み下す速さがどれも同じだ。
議場の全員が見ている。
「毒はどれだ、と問うのか」
「はい」
「分からん」
段の上のほうで誰かが息を吸った。
「もう一度うかがいます。1つ目と2つ目と3つ目で、味に違いはございましたか」
「ない」
「違いではなく、味そのものはいかがでしたか」
「……ない」
声が出るまでに1拍あった。
その1拍を、この部屋の誰も聞き取らなかったと思う。俺は夏から毎日この人の食事を見てきたから、その1拍がどこから出てくるか知っているだけだ。
「毒見役どの。これは何の余興でございますか」
ヴェルナーが立ち上がっていた。
「毒の公爵と呼ばれるお方が、毒を見分けられぬと。それは公爵閣下のお立場を、あなたが自分で削っておられるのでは」
「削っておりません。事実を1つ、この場に置いております」
俺は器を元の位置へ戻した。
「閣下は3つの歳から、微量を反復して口にさせられてきた体です。舌の感覚が鈍って、何を召し上がっても同じところへ落ちます。毒を扱う人間の舌ではありません。毒を盛られ続けた人間の舌です」
クレイス・ヴァルドレイは何も言わなかった。
席へ戻って腰を下ろす。座る音がしない。
「アデール様。お願いいたします」
アデール・ヴァルドレイが立った。
卓まで4歩ある。その4歩のあいだ、あの人はこちらを見なかった。見なければならないのは器のほうで、それは正しい判断だ。
1つ目の器の縁に指をかけて、少し傾ける。顔を近づける。息を吸う。
2つ目。同じ。
3つ目で動きが変わった。
顔を近づけたまま止まって、それから体ごと半歩引いた。引いてから、もう一度近づく。
俺は自分のうなじが冷たくなるのを感じた。
ここから先は俺が何を言っても罠になる。だから何も言わない。
「……これでございます」
白い指が3つ目を指した。
「3つ目に入っております」
「お間違いございませんか」
「間違いございません」
「理由をうかがってもよろしいですか」
「毒には毒の匂いがございます」
議場の書役の筆が走った。
その音が止まるのを待って、俺は3つの器を布ごと手前へ引いた。
「2つ目と3つ目に、塩蔵のものは入っておりません」
アデール・ヴァルドレイが顔を上げた。
「入っているのは1つ目です。2つ目には何も入れておりません。3つ目に入れたのは、月桂樹の香りだけを真似た草です。毒はありません。煮出して香りを移してあります」
誰も動かなかった。
「毒見役どの。そのような草を、どこで手に入れられました」
「王都の薬師です」
俺は器から手を離して、指先を布で拭った。
「秋にあの店で取引をしたとき、質問を1つ預けたままにしてありました。1つ目は毒の話に使って、2つ目を空けておきました。冬になってから、それを使いました」
「何をお尋ねに」
「匂いだけを真似られるものはあるか、と書いて送りました」
返事は3行だった。草の名前と、煮出す湯の量と値段だ。値は秋の取引より高くついたうえに先払いで、こちらの名前を書くなという条件までついていた。あの薬師は肩入れをしない。しない代わりに、売り物だけは間違いなく届く。
俺は3つ目の器を持ち上げた。
「香りだけを真似る草があります。この草は、口に入れても何も起きません」
持ち上げた器の中身を、俺は自分の口へ入れた。
湯気の匂いは月桂樹だ。乾いた葉と樹脂。飲み下しても舌にも喉にも何も来ない。麦のほかには何も入っていない。
「何も起きません」
俺は器を卓へ戻した。
「アデール様。あなたが今お選びになったのは、毒ではありません」
アデール・ヴァルドレイの襟の下で喉が1度動いた。
「あなたが選ばれたのは、あなたのご指定になった香りです」
議場の音がそこで完全に消えた。
「毒見役どの。ご指定とは、何を指して仰る」
問うたのは真ん中の査問官だった。
「離れから閣下の私室へ、季節ごとに香りものが届いております。中身をお選びになるのは贈り主です。何が届いているかは、屋敷の者にお尋ねくだされば誰でも申し上げます」
俺は誰の顔も見なかった。見る必要がない。この部屋で今起きたことは、俺が言ったから起きたのではない。あの人が自分で歩いて、自分で嗅いで自分で指した。
「毒の在処は、匂いでは分かりません。塩蔵から出たものは無臭です。銀は曇りますが、鼻は何も言いません」
「……」
「閣下。3つ目に、匂いはございましたか」
「あった」
「何の匂いでしたか」
「葉だ。湯気に混じっていた」
「毒でしたか」
「分からん」
段のどこかで、紙が1枚床へ落ちた。
「匂いは、鼻のある方なら誰にでも取れます。閣下も取っておられました。取れないのは、その匂いが毒かどうかのほうです」
俺はアデール・ヴァルドレイのほうへ向き直った。
「毒に毒の匂いがあると仰ったのは、匂いのするほうが毒だと決めておられたからです。決めておられたのは、その匂いを毒の目印にお選びになった方だけです」
アデール・ヴァルドレイは、卓の前に立ったまま動かなかった。
顔から表情が抜けていくところを俺は見なかった。俺が見たのは指のほうだ。冬でも荒れない、きれいな指をしている。その指がゆっくり丸まって、ひらいて、また丸まった。
「わたくしは」
「はい」
「わたくしは、あの家に19年おりました」
その先は続かなかった。
査問官が筆を上げるまで、議場は誰の咳も鳴らなかった。
「毒見役どの」
立ち上がったのはヴェルナーだ。
「証明がお済みでございません」
組んだ指の位置が、屋敷で見たときよりわずかに低い。
「3つ目が無毒であることは分かりました。2つ目も同様でございましょう。では1つ目は。1つ目に毒が入っているという証明が、まだ何一つございません」
「はい。まだです」
「入っていないのかもしれませんな。3つとも空でございましたら、これは実演ではなく手品でございます」
「そのとおりです」
俺は1つ目の器を手前へ引いた。
「ですから、検めます。先ほど銀を当てないと申し上げたのは、目と鼻だけで当てていただくためです。当てる番は終わりましたので、ここから先は俺が検める番です」
「その銀は、あなたの持ち物でございましょう」
「はい。ですから、曇ったからといって、そこで信じていただく必要はございません」
銀の毒見皿を布から出した。
取り分ける。匂いを取る。何もない。色を見る。粥の白のままで、沈んだものが動かない。銀の縁を明かりへ傾ける。
縁が黒い。
黒くなった場所が、縁から内側へ雲の形に広がっていく。塩蔵の8列目で見たものと同じ形だ。
「銀が曇りました」
「銀が曇ることと、人が死ぬこととは別でございましょう」
「別です」
俺はうなずいた。
「銀は目印です。目印は物を指すだけで、その物が体に何をするかは言いません。だから毒見の作法は、銀で終わらずにひと匙で終わります。俺の仕事は、目印の先を確かめるところにあります」
クレイス・ヴァルドレイが立ち上がった。
議場の段の上まで、その音が届いたのが分かった。人が一斉にそちらを見る。
俺は顔を上げなかった。上げなくてもこの人が今どこを見て、どこへ手を伸ばそうとしているかは分かる。夏から数えて何十回も同じことが起きていて、そのたびに俺は負けている。
「閣下」
名前でも役職でもない。2文字だけ言った。
伸びてこなかった。
俺は銀の皿の縁を持ったまま待った。待つあいだ、卓の向こうで外套の裾が動く音がして、それから止まった。
顔を上げると、この人は立ったままそこにいた。手は体の脇に下りている。
この人が卓の上の皿へ手を伸ばさずにいるのを、俺は今日まで一度も見ていない。
俺は上着の内側から白い布の包みを出した。
結び目を解く。中から木の匙が出てくる。柄が短くて、握るところが浅く削ってあって、縁の左側が欠けている。
「毒見役どの。それは」
「私物です」
それ以上は聞かれなかった。
銀の皿から、木の匙でひと匙に満たない量を取る。匙の縁が欠けているので、そこから少しこぼれた。こぼれたぶんは布が吸った。
口へ運ぶ。
舌に乗せて、10まで数える。
最初に来たのは金気だ。前世で錆びた計器に触れた指を舐めたときの、あれに近い。飲み下すと、舌の奥に砂を薄く敷いたようなざらつきが残った。痛くもないし、痺れもしない。
「金の味がします。舌の奥がざらつきます」
書役の筆が走る。
「この量では、今この場で何も起きません。杏の種のようなものならその場で来ますが、塩に混ぜるたぐいは何刻か遅れます。効きはじめるのは今夜で、明日は使い物にならないと思います」
「その場で倒れぬものを、毒と呼べるのか」
「呼べます。倒れるまでの時間が長いだけで、入ったものは同じです」
「右の手を上げます」
俺は右手を目の高さまで上げた。
指を1本ずつ折って、伸ばす。3本目で遅れた。
「この遅れは、秋に倒れてから冷えた日にいつも起きるものです。今日の毒とは関係がありません。関係がないことを、先に申し上げておきます」
「医官」
査問官が呼んだ。
白い襟の男が来て、俺の手首を取った。それから目のふちを引っ張って、口を開けさせた。
「舌の奥に色が出ております。鉱物のものでございましょう。量は少ないかと」
「毒か」
「毒でございます」
議場の段が鳴った。
俺は椅子に座らせられて、水を渡された。飲む前に匂いを取ってしまって、渡した書役の若い男が困った顔をした。癖なので許してほしい。
「休廷とする」
査問官の声が遠くから聞こえた。
そのあとのことは、順番がところどころ抜けている。
告発は成立しないという判断が出た。塩蔵の3樽の件は、届け出人自身の関与を問う手続きへ移される。現物を見ずに在処を特定した届け出と、今日の実演の結果が根拠になる。アデール・ヴァルドレイは王家の預かりとなり、裁きの場は日をあらためて開かれることになった。
ドランさんの厨房の職はその場で戻された。
あの人は立ち上がって、査問官に一度だけ頭を下げて、それきり何も言わなかった。
ヴェルナーは何も咎められなかった。
後見の役は書面の上のもので、告発の中身を作った人間ではないという扱いになる。帰りぎわ、あの使者は俺の前で足を止めて、外套の襟を整えた。
「毒見役どの。手際が結構でございました」
「先日もそう仰いました」
「先日は菓子でございましたので」
言い終えると、あの男は俺の脇を抜けて議場を出ていった。
傍聴の段の隅の席は、いつのまにか空になっていた。
畳んだ外套も一緒になくなっている。セラン・ヴァルドレイが出ていく音を、俺は聞き取れなかった。
人がいなくなった議場に、卓が1つだけ残っていた。
俺の布と、白い器が3つ乗っている。2つ目の器には手をつけていない。麦の粥がまだ半分以上残っていて、湯気はもう上がっていなかった。
クレイス・ヴァルドレイは、卓の向こうに立ったままだ。
「閣下」
「なんだ」
「勝っておりません」
「知っている」
「家督の条件は生きています。公爵位の返上も、塩の管理も」
「それも知っている」
俺は2つ目の器を手前へ引いた。
匂いを取る。麦と塩。色を見る。冷えたぶん表に薄い膜が張っている。銀の縁を傾ける。曇りはない。
ひと匙を口へ入れて、10まで数えた。
「異常ありません」
器を両手で持って、卓の向こうへ差し出した。
「どうぞ」
この人は器を受け取った。
匙を入れて、口へ運ぶ。冷えた粥を、いつもの速さでいつもの量だけ。
俺はそれを座って見ていた。指の遅れはまだ戻らない。明日は動けないだろうという予感が、ざらつきの残る舌の下のあたりにもう来ている。
夏から今日まで、俺はこの卓の順番を1度も守らせてもらえなかった。
今日は俺が先でこの人があとだ。




