第27話「家督と引き換えの朝食」
祝い事のない家に、祝いの菓子が届く朝がある。
冬の13日目。査問まであと8日だ。
王家の使者が来ると知らせが入ったのは前の晩で、マレンさんは夜のうちに応接室の火を入れさせた。冬にこの家で客を通すときは、人ではなく壁と床を先に温める。半日はかかるのだと、俺は朝になってから教わった。この家の作法には必ず理由がついていて、聞けば出てくるくせに、聞くまでは誰も言わない。
「毒見役」
「はい」
「ご一行が菓子をお持ちでございます」
「王家の厨房のものですか」
「そのようにうかがっております」
「では、検めます」
マレンさんの返事が半拍遅れた。
「王家の厨房のものを、でございますか」
「はい」
「……お止めはいたしません」
マレンさんはそれ以上言わずに、廊下の先へ半歩だけ体を向けた。案内する用意はもうできている。止めないかわりに、こちらが決めきったあとで手だけを貸してくる。
銀の毒見皿を布に包んで受け取った。冷えた朝は皿のほうが手より冷たい。
ヴェルナーという男は、思っていたより背が低かった。
外套の裾に泥がついていない。屋敷まで馬車で来て、玄関の石を3歩だけ歩いた人間の靴だ。年は40の手前だろうか。髪をきっちり後ろへ流していて、腹の前で指を組む位置が高い。
「公爵閣下。お目にかかれて光栄でございます」
「用件を」
「まずは、こちらを」
供の者が浅い木箱を運んできた。
蓋を取ると、干した果実を蜜で煮て固めたものが並んでいる。表に粉を吹かせてある。王都の菓子だ。夏に市の並びで見て、値を聞いて、聞かなかったことにして帰った覚えがある。
「王家の厨房のものでございます。査問の前ではございますが、こういうものは先に出しておくものと存じまして」
「置いていけ」
「お召し上がりくださいませ」
クレイス・ヴァルドレイが手を出した。
いつもの速さだ。夏からこの手には何十回も負けている。負けたぶんだけこちらも覚えていて、俺は箱ごと手前へ引いた。
「閣下。まだです」
「……」
「規定です。取り分け、匂い、色、銀器の曇り、少量。所要は1分を目安といたします」
応接室の音がなくなった。
「毒見役どの、と申されましたか」
「ユエル・メリクと申します」
「王家の厨房をお疑いになりますか」
「疑いません。検めるだけです」
「同じことでございましょう」
「違います。疑うのは人の話で、検めるのは物の話です」
ヴェルナーの舌が、そこで一度止まった。
俺は箱から1つを銀の皿へ取り分けた。
匂いを取る。蜜と干した果実と粉。奥のほうに杏の種のあれはいない。色を見る。断面の粒がそろっていて、沈んだものが見当たらない。銀の縁を窓の明かりへ傾ける。曇りは出ていない。
「公爵閣下。本題に入らせていただいても」
「どうぞ」
答えたのは俺だ。
ヴェルナーがこちらを見て、それから公爵のほうを見た。公爵は何も言わない。使者の一行が全員、俺の手元の銀を見ている。
「……失礼いたしました。では、あらためて」
ひと匙。
口に入れて、10まで数える。舌に残るのは蜜と果実の酸だけで金気も痺れもない。喉を通してから、俺は数をもう10だけ足した。奥歯の裏側が乾いているのは、朝から水を飲んでいないせいだ。
「異常ありません。どうぞ」
ヴェルナーが咳払いをした。
「毒見役どのは、いつもこれをなさるので」
「1日に3度やります」
「王家の使者の前でも」
「王家の使者の前だから省いてよいという規定は、この家の書式にございません」
クレイス・ヴァルドレイが皿へ手を伸ばした。
俺の手のほうが速い。皿を引く。伸びた指の先が空を撫でて、そのまま卓の上に取り残された。
「閣下」
「なんだ」
「終わっております。手順は終わりました。どうぞ、と申し上げました」
「聞いた」
「聞いたのに取りにこられるんですか」
「癖だ」
癖らしい。
王家の使者の前で、公爵と毒見役が菓子の皿を取り合っている。ヴェルナーは止めなかった。止め方を思いつかない顔で、供の者のほうを1度見た。
「では、本題を」
ヴェルナーは椅子の背へ体を預け直した。
「王家は此度の告発を重く見ております。ヴァルドレイ領において毒の原料が作られ、王都へ流れているという申し立てでございます。物証も出ております。塩蔵の樽が3つ」
「出したのはうちだ」
「さようでございます。だからこそ王家は、穏当に済ませたいと考えております」
「言え」
「公爵位のご返上と、塩の管理権の王家への移管。この2つをお認めいただけますなら、告発は取り下げの方向で調整がつきましょう」
火鉢の炭が音を立てて崩れた。
数える対象がない。今この部屋で動いたのは物ではなく、この家の背骨のほうだ。
「取り下げるのは誰だ」
「王家でございます」
「告発したのは王家ではない」
「はい。ですが、査問を開くのも閉じるのも王家でございます」
ヴェルナーは脅していない。事実の順番を並べているだけで、その順番がこちらの逃げ道をふさいでいる。
俺はそこで1つ気づいた。
この使者は告発した人の名を口に出していない。物証の話をして、査問の話をして、条件の話までした。その全部を、告発者の名を使わずにやっている。
「ご返事は」
「今は出さん」
「期日は冬の21日目でございます。書面のやり取りには日数がかかりますので、遅くとも3日前には」
「聞いた」
「では、菓子はお納めくださいませ」
ヴェルナーは立ち上がって、こちらへ小さく頭を下げた。
「毒見役どの。手際が結構でございました」
「恐れ入ります」
「1分でしたか」
「1分と少しです。今日は数を余分に足しました」
「なぜ」
「王都の菓子は、俺の舌に馴染みがないので」
ヴェルナーは今度は笑わずに出ていった。
一行が玄関を出ていく音を、俺は応接室で聞いていた。
馬車の扉が閉まって、車輪が動きはじめる。そのあとで、廊下のほうから足音が1つ戻ってきた。
セラン・ヴァルドレイが扉のところに立っていた。
冬の外套を着たままで、手袋を片方だけ外している。離れから使者の道案内で来ていたのだと、俺はそこでようやく理解した。
「毒見役の方」
「セラン様。お忘れ物ですか」
「はい」
そう言って、この子は部屋を見回さなかった。
扉を閉めて、袖の内側へ手を入れる。出てきたのは小さなガラス瓶で栓がない。腹のところがわずかに膨らんでいて、光に向けると向こう側の指が透ける。
俺は近づかなかった。それでも匂いだけが先に届いた。
乾いた葉と樹脂。
「これは、秋に僕が持たされたものです」
「セラン様」
「2本ありました。1本は屋敷の勝手口の外へ置いてきました。石の下です。もう1本は、林で捨ててこいと言われました」
言い終わって、セラン・ヴァルドレイは瓶を卓の端へ置いた。
置いた手をすぐには離さない。指の腹でガラスの腹を1度なでる。
「捨てられませんでした」
「……はい」
「なぜ捨てなかったのかは、今も説明できません」
瓶は卓の端にある。俺はそれを検めるでも受け取るでもなく、立っているだけだった。
検める手順は知っている。持ち主に返す手順も知っている。今この場に当てはまる手順を、俺は1つも持っていない。
「セラン様。俺に何をしろと」
「何も」
「何も、ですか」
「置いていくだけです。母上は、置いてくるだけでいいと僕におっしゃいました。だから僕は、置いてくるのが上手いんです」
声に力が入っていなかった。恨みも怒りも入っていない。荷を下ろす人の声だ。
「秋に、3日ありました」
「3日」
「あなたが寝ていた3日です。僕は毎日、母上の部屋の前を通りました。扉はどの日も開いていました」
セラン・ヴァルドレイはそこで一度、言葉を切った。
「呼ばれませんでした。頼まれごとが1つもない日が3日続いたのは、あの3日が初めてです」
俺は返す言葉を探して、見つからなかった。
この子が言っているのは正しさの話ではない。母親が悪いことをしたから許せない、という順番で来ていない。呼ばれなかったから、順番が並んでしまったと言っている。
「セラン様。これは使えません」
「使えない」
「はい。これを査問に出せば、俺たちが何をどこまで知っているかが、そのまま向こうに伝わります。伝わったら、向こうは別の道を選びます」
「では、捨ててくださって結構です」
「捨てません」
セラン・ヴァルドレイが顔を上げた。
まばたきの間隔が短くなっている。声のほうはさっきと同じ高さで、顔だけが追いついていない。
「僕は、何も申し上げていません」
「はい。何もうかがっておりません」
外套の裾をひるがえして、この子は廊下へ出ていった。
足音が遠ざかる。俺は瓶を白い布に包んで、上着の内側へ入れた。肋のところで、木の匙の包みと当たって小さな音が鳴る。
執務室へ上がった。
クレイス・ヴァルドレイは卓の前に座っていて、書付を1枚も広げていない。羽根ペンにも触っていない。
「閣下」
「聞いていたな」
「応接室にいましたので」
「どう読む」
俺は自分の耳を疑いかけた。
どう読む、と聞かれている。塩と家督の話だ。俺の職務は皿の上までで、この卓から先は俺の権限が1つも及ばない場所にある。
「閣下。俺が申し上げてよいことでは」
「聞いている」
「……はい」
椅子をすすめられなかったので、俺は卓の横に立ったまま話すことにした。立って話すほうが頭が回る。前世の会議でも俺は最後まで座らない側の人間だった。
「あの使者は、アデール様の名を一度も出しませんでした」
「出さなかったな」
「告発の中身と、物証と、条件まで話して、告発した人の名だけを避けています。避けているのではなくて、勘定に入れていないんだと思います」
「続けろ」
「茶会に招かれていたのは、夫を亡くした家ばかりでした。アデール様は喪の色を先代が亡くなった年からやめておられません。ご自分の家も、その数のうちに入ります」
俺は言いながら、冬の庭の幕の内側を思い出していた。
火鉢が7つ。卓が3つ。黒と紺が半分。あの日、俺はあの人の有能さを見て帰ってきた。有能さだけを見て帰ってきたのがまずかった。
「1年目はみんなが訪ねてきて、2年目から誰も来なくなる。あれはご自分の話でもあります」
「訪ねる者のいない家が、王家を動かしたか」
「アデール様が届け出をお出しになったのは冬の頭です。それから20日足らずで議場が開きます。書面を1度往復させるだけで日数の要る土地で、この早さはふつうではありません」
「日取りを早めた手があると」
「あると思います。後ろ盾のない未亡人の紙1枚で、王家の日取りはここまで動きません」
クレイス・ヴァルドレイは黙っていた。
しばらくして、卓の上へ両手を置く。置いた手はもう震えていない。何を考えているのかは読めない。
「条件を飲む」
「閣下」
「公爵位は返す。塩の管理も渡す」
「お待ちください」
「待つ日数がない」
俺は足の指に力を入れた。靴の中で、そこだけが冷たいままだった。
この人は自分の家を1つ手放すと言っている。「俺が死んでも家は残る」と夏に言ったときと声の高さが同じだ。
「閣下。1つ、うかがわせてください」
「言え」
「今、俺に読ませたのはなぜですか」
返事まで少しあった。
「一人で決めると、また同じことをする」
「同じこと」
「秋に、お前を解いた」
その一言が今この場の話として出てくるとは思っていなかった。
秋の執務室で、この人は俺に紙を渡さずに解任を言い渡している。あのとき理由を聞かせてもらえなかった。聞かせてもらえないまま門を出て、翌日に書式を持って坂を上った。
「では、俺からも申し上げます」
「言え」
「飲むのなら、買ってください」
「買う」
俺は指を2本立てた。
「1つ。査問の席に、俺を立たせてください。証言の資格は家格を持つ者か、王家の帳面に載る職に限られます。毒見役は載っていません。王家が調停をする側なら、資格の例外を1つ書き足せます」
「もう1つは」
「離れから出た招待状は14通です。公爵家に届いた1通に、銀を曇らせるものが乗っていました。残りの13通を、王家の書役に検めさせてください」
この人の眉が動いた。
「13通が無事なら、うちの1通だけが特別だったことになります。13通のうち1つでも曇れば、俺の言い分が消えます」
「自分の首を賭ける必要があるか」
「あります。検める人間が自分に都合のいい試しかたをすると、その記録は使い物になりません。前世でもそうでした。外れる目を先に書いておかないと、当たった目に値がつかないんです」
クレイス・ヴァルドレイは羽根ペンを取った。
取って、まだ書かない。ペン先を紙の上へ置いて、そのまま止めている。
「ユエル」
「はい」
「席が買えても、お前の証言は軽いままだ」
言われて、俺はうなずいた。
「はい。庇われている人間の言うことは、庇う人間の言葉と同じ重さにしかなりません。書付にそう書いてありました」
「なら、席を買う意味がない」
「あります。証言はしません」
「では何をする」
「検めます。俺の仕事は、話すことではなくて手を動かすことです」
この人はしばらく俺を見ていた。
それからペンを紙へ下ろした。ペン先が走る音は、この人が書くときだけ乾いて聞こえる。
「閣下。もう2つございます」
「多いぞ」
「短く申し上げます。塩蔵の3樽は、査問の日まで誰の管理下に入りますか」
「公爵家の蔵に置いたまま、封は王家の書役のものだ。鍵は蔵番が持つ。開けるには書役の立ち会いが要る」
「では、封のあとは誰も中身を出せませんね」
「出せん」
「封の前なら」
この人が顔を上げた。
「俺は蓋を開けた日に、見本をひとつまみ取って布に包んであります。毒見役は検めたものの見本を残す。秋に規定へ足しました」
「足したのはお前だ」
「足したのは俺です。書式に反しますか」
「……反しない」
「では、持っていきます」
クレイス・ヴァルドレイは何も言わずに、書きかけの紙の端をそろえた。
「最後の1つは」
「王都へ書きつけを1通、出させてください」
「誰にだ」
「薬師です」
「呼ぶのか」
「呼びません。呼べません。あの人は無償では動きませんし、肩入れした相手が死ぬのを何度も見てきた人です。証人の席へ立たせたら、あの人の商売がその日で終わります」
「では何を頼む」
「買い物です」
「中身は」
「今は申し上げません」
この人の目がこちらへ来た。
「言えないのか」
「言いたくないんです。言うと、俺が自分の手順を先に喋る癖のある人間だと、俺自身に知られてしまうので」
返事はなかった。
かわりに、卓の引き出しから紙が1枚出てきて、俺の前へ滑ってきた。書きつけを出すための用箋だ。上のほうに公爵家の紋が刷ってある。
俺はそれを取った。
冬の13日目の朝が終わって、査問まであと8日ある。
上着の内側では木の匙と栓のないガラス瓶が肋のところで並んでいる。そこへ、これから書く1通ぶんの重さが加わる。




