第26話「捨てられなかったのは誰か」
干した魚の水は3回替えると塩が抜けきる。
1回目の水は魚のにおいがして、2回目は薄い潮になる。3回目でにおいが止まり、水が水のままになった。
2回だと残る。4回だと味まで持っていかれる。教わったとおりにやってみたら、教わったとおりの結果になった。厨房の3年目が横で「なんで分かるんですか」と言うので、俺は「教わったからだ」と答えた。
ドランさんは屋敷にいる。厨房にいないだけだ。
朝、洗い場の裏を通ったら、あの人が薪の山を組み直していた。誰にも頼まれていない。前掛けはしていない。
声はかけなかった。かけるべき言葉を、俺はまだ持っていない。
夕方、廊下でマレンさんに呼び止められた。
「毒見役」
「はい」
「お渡ししたいものがございます」
「今ですか」
「今でございます」
言い方に迷いがなかった。
迷いがないのがかえって引っかかる。上着のときも薬のときも、マレンさんはまず用向きから言ってから物を出した。
「どこで」
「書斎でございます」
「閣下がおられます」
「はい」
書斎の扉を、マレンさんは自分でノックした。
取次は下の者がやる仕事だ。53歳の侍女頭がわざわざ拳の背を扉に当てているのは、中の人間に「用があるのは自分だ」と伝えるためだ。
「若様。マレンでございます」
「入れ」
書斎の卓には塩蔵の帳簿が積んだままになっていた。
封をかけた3樽の件で、この人は昨日から数字を洗い直している。夏の欄に印がついていて、印のところだけ紙が波打っていた。
「ユエルも一緒か」
「はい。わたくしがお連れいたしました」
「何の用だ」
マレンさんは腕にかけていた布を卓の上へ置いた。
布は白い。洗いすぎて薄くなったやつで、四隅の縫い目がほつれかけている。
結び目をほどく手がいつもより遅い。
中に、木の匙が1本あった。
柄が短い。子どもの手に合わせた長さで、握るところが浅く削ってある。木の色は日に焼けて濃く、匙の縁が一箇所欠けていた。欠け方が新しくない。長い時間、欠けたまま置かれていたものの色をしている。
「毒見役。これをお持ちください」
「……これは」
「レイという子の匙でございます」
書斎の空気が動かなくなった。
俺は卓の上の匙を見ていた。見ているのに、頭のほうがまだ受け取っていない。名前が出たことと、木の匙が卓にあることが、俺の中でまだ繋がらない。
「マレン」
「若様」
「それは捨てろと言ったはずだ」
「はい」
「13年前だ」
「はい。わたくしは捨てませんでした」
マレンさんは顔を上げた。
マレンさんはいつも半歩下がって、手を前で組んで、目を少し落として話す。今は下がっていない。目も落ちていない。
「若様。わたくしは、あの日に申し上げそこねたことを、13年ぶん抱えております」
「マレン」
「あのとき、あなたさまのお手から皿を取り上げられたのは、あの部屋でわたくしだけでございました」
クレイス・ヴァルドレイは何も言わない。
「取り上げませんでした。先の公爵さまが召し上がれと仰いましたので、わたくしは書式に従いました。使用人が主人の命に逆らう規定は、この家の書式にございません」
マレンさんの声がそこで一度切れた。
「ございませんでした。ですから、逆らわない理由なら、わたくしはいくらでも持っておりました」
マレンさんは布の端を指でそろえた。
「止められなかったのは、わたくしでございます」
俺は卓の匙から目を離せずにいた。
頭の中で言葉が順番を探している。
止められなかった、と言うためには、止めるべきことが起きていなければならない。皿を取り上げる、と言うためには、皿が誰かの前へ出ていなければならない。
出ていたのはレイという子の前ではない。
まだそこまで言われていない。言われていないのに、俺の口の中が乾きはじめている。
「マレン」
「はい」
「もういい」
「若様——」
「もういい。お前が言うことではない」
クレイス・ヴァルドレイは椅子から立ち上がった。
卓を回って、木の匙の前に立つ。手は伸ばさない。そのまま、しばらくそれを見下ろしていた。
「毒見役だ」
この人の声がいつもより低い場所から出てきた。
「厨房の下働きの子どもだった。12かそこらだ。うちの毒見役が3人続けて辞めたあとに、頭数として卓へ座らされた」
「……閣下」
「レイという」
名前が2度目に出た。
1度目はマレンさんの口からで、2度目はこの人の口からだ。この人が人の名を口に出すのを、俺は毎日聞いている。俺の名も呼ぶ。呼ぶのに、今の言い方はまるで別の器官を使っているように聞こえた。
「俺は7つだった」
「はい」
「あの子は俺の皿から先に食う。それが仕事だ。俺は毎晩それを見ていた」
夏の厩で、この人は犬の話をした。
俺の皿から食っていた。俺が食わせた。毛の色は覚えていない、見ていた場所が暗いから。
全部そのままだ。置き換えたのは1語だけで、あとは何ひとつ嘘を言っていない。
「その夜は杏だった」
俺は自分の呼吸が浅くなるのを聞いた。
「煮た杏だ。あの子は匂いを取って、色を見て、匙を入れた。異常なしと言った。それから卓を下がって、廊下で倒れた」
「……」
「音がした。木の匙が床に落ちる音だ。誰かが拾ってこいと言って、下の者が走った」
クレイス・ヴァルドレイは卓の端に手を置いた。
置いた手に力が入っていない。支えているのではなく、乗せてある。
「父が、皿をこちらへ押した」
書斎の中で、紙のこすれる音すらしなくなった。
「食え、と言われた」
俺は口を開けた。
開けて、何も出てこなかった。
早く理解すると、そのぶん早く納得しなければならなくなる。俺は今、納得したくない。
「閣下。それは」
「食った」
「……」
「杏は美味かった記憶がある。7つのころは、まだ味があった」
この人はそこで一度、卓の匙のほうへ目を落とした。
「俺は死ななかった。あの子は死んだ。同じ皿だ」
俺の膝の裏が急に頼りなくなって、俺は椅子の背に手をかけた。
3つの歳から微量を飲まされていた子どもの体は、その夜の杏を殺しきれなかった。飲まされていなかった子どもの体は殺された。
同じ卓で同じ器で。片方だけが生き残るように、あらかじめ作られていた。
「閣下」
「なんだ」
「あなたは、そのときに」
「言うな」
この人は俺のほうを見なかった。
「言葉にすると、それが理由になる。理由になったものは言い訳に使える。俺は使いたくない」
俺は口を閉じた。
卓の木の匙へ手を伸ばした。
持ち上げる。軽い。木は乾ききっていて、握ると子どもの指の跡が浅く残っているのが分かる。柄の先が少しへこんでいる。噛んだ跡だ。緊張したときに柄を噛む癖のある子だったのだと思う。
欠けているのは縁の左側で、そこだけ手ざわりが荒い。
「マレンさん」
「はい」
「これ、拾ったのはどなたですか」
「下働きの子でございます。わたくしはその子から受け取りました」
「捨てろと言われたのは」
「若様からでございます。そのあと、若様は同じことを二度は仰いませんでした」
俺は匙を握った手をそのまま下ろした。
捨てろと言ったのはこの人だ。二度言わなかったのもこの人だ。二度言えば捨てられていた。マレンさんは二度命じられたら従う。
二度言わなかった命令は、この家では命令として立たない。
「閣下」
「なんだ」
「これは、俺が預かってよろしいですか」
「捨てろ」
「捨てません」
クレイス・ヴァルドレイがこちらを向いた。
この人の目に、俺は何を見たのか説明できない。怒りではない。呆れでもない。夏の食堂で、美味しいですかと聞かれたときの顔に少しだけ似ていた。
「……好きにしろ」
「かしこまりました」
俺は白い布で匙を包み直した。
結び目は俺の結び方でつけた。端を2回くぐらせるやつだ。
執務室に書付が届いた。
卓の燭台にはもう火が入っている。王家の書役の封で、封蝋の色が代官のものと違う。マレンさんが受け取って、読み上げた。
「査問の期日。冬の21日目。場所は王都、査問の議場」
「あと18日ですね」
冬の21日目という数え方を、俺はまだ体で持っていない。俺の勘定だと、雇われて半年になる少し前だ。
「はい。続きがございます」
マレンさんの目が紙の下のほうで止まった。
そこから読み方が変わる。声の高さを変えずに、区切る場所だけを短くする。悪い知らせを読む人の癖だ。
「証言の資格について。査問の席で証言を為す者は、家格を有する者、または王家に登録された職に就く者に限る。医師、薬師、書役。これに準ずる者」
「毒見役は」
「ございません」
「入っていないんですか」
「毒見役は家政の職でございます。王家の帳面に載る職ではございません」
俺は自分の板を握った。
夏から書いてきた記録が3枚ある。3枚ぶんの朝と昼と夕が、この一文で紙束に戻る。
「まだございます」
「読んでください」
「……なお、公爵家の毒見役ユエル・メリクについては、秋のうちに解任の通告を受けた事実が申し立てられている。当人は、雇い主の署名がない限り解任は成立しないと門前で主張している。署名を欠いたままにしてあるのは公爵が当人を庇うためであり、当該人物の証言は公爵家の意を受けたものと見なすのが相当である」
書付を読む声が終わった。
執務室の中で、いちばん動かなくなったのはクレイス・ヴァルドレイだった。
俺は書付を見た。
署名がないから解任は成立していない。それは俺が門で使った理屈で、この家の書式にそう書いてある。書いてあるものは強い。
その強いものを、向こうは逆から読んだ。
署名がないのは庇っているからだ。
庇う人間の言うことは、庇われる側の言葉と同じ重さしか持たない。
俺が門の前で勝ち取ったものが、そのまま俺の証言の値打ちを削る石になっている。
あの茶会の卓に並んでいたのは、夫を亡くして2年目から誰も訪ねてこなくなる家ばかりで、アデール様の家もその数のうちに入る。訪ねる人のいない家が、王都の議場の日取りまで動かせるものだろうか。
「閣下」
返事がない。
卓の向こうで、この人は書付の一点を見たまま動かない。今日は手が震えていない。震えていないのに、俺は秋の書斎で見た形をそこに重ねてしまった。
「閣下。俺の雇用契約の写しを、書棚から出していただけますか」
「……何をする」
「読みます」
「読んでどうなる」
「分かりません。分からないので読みます」
この人はしばらく黙っていた。
それから立ち上がって、書棚の下の段から紙の束を抜いた。抜いて、卓へ置く。置く手つきは乱暴ではないのに、紙が卓を打つ音がした。
「マレンさん」
「はい」
「書式の穴は、書いた人間が『まさかそんなことをする奴はいない』と思った場所に開くと、夏に教わりました」
「申しました」
「あのときは、その穴が俺の味方をしました」
「はい」
「今度は、向こう側に開いています」
マレンさんは何も答えなかった。
卓の上の燭台の位置を、俺の手元へ半歩ぶん寄せた。
俺は契約の写しを開いた。
冬の21日目まであと18日ある。
上着の内側で、包み直した木の匙が肋のあたりに当たっていた。




