第25話「塩蔵の奥から出てくるもの」
塩蔵は思っていたより暗い。
海から2つ丘を越えた低い場所に、屋根の長い建物が3棟並んでいる。窓は明かり取りが一列だけで、床は板ではなく踏み固めた土だ。中へ入ると、鼻の奥へ先に来るのは潮ではなく乾いた粉の匂いだった。
「毒見役どの。奥は冷えますで」
蔵番の老人が灯りを掲げた。
蔵番は先代の代からここにいる。歩幅が小さくて、樽と樽のあいだを通るときだけ足が速くなる。
「何棟ぶん見ますか」
「3棟です」
「今日で?」
「今日でです」
「日が暮れますな」
「暮れるまでやります」
俺は指を1本ずつ折って伸ばした。
冷えると、右手の指が言うことを聞かなくなる。倒れた日から残っているやつで、寒い日はいつもより1拍ぶん遅れる。医師は残るかもしれないと言った。残ったのだと最近は思っている。
「ユエル」
うしろから声がした。
役職ではないほうで呼ばれている。倒れる前の何日か、この人は俺の名を一度も口にしなかった。
クレイス・ヴァルドレイは、帳簿を抱えて入ってきていた。7冊ある。書斎の卓に積んであったやつを、この人は自分で馬に括りつけて持ってきた。
「閣下。お持ちします」
「いい」
「重いでしょう」
「お前が持つと数が減る」
「減りません」
「冗談だ」
この人の冗談は聞き取るのに時間がかかる。分かったころには次の話に移っている。
樽の列は1棟につき8列で、1列に20ほど並んでいる。
どれも同じ形をしていて、腹に焼き印が押してある。押してあるのは汲んだ浜の名と乾かした月だ。夏の浜と秋の浜で塩の粒が違うのだと、来た日にドランさんが樽を叩いて教えてくれた。
俺は帳簿を開いた。
「閣下。夏に汲んだ海水の量と、乾かした塩の重さと、樽に詰めたぶんが合わない月があるとうかがいました」
「3つある」
「その3つは、どの列に入りましたか」
この人は指で欄をたどった。
「奥の棟の、8列目だ」
いちばん奥だ。
いちばん奥というのは、蔵ではいちばん動かない場所を意味する。手前から出して手前から詰めるのが荷の作法で、奥は年に何度も触られない。
8列目に着くまでに、俺は蔵を2棟ぶん歩いた。
2棟で息が上がる。夏なら勘定に入れない距離だ。倒れてから、体の目盛りが1つぶん下がっている。
途中で3回、樽の蓋を開けて中身を見た。粒がそろっている。指でつまむと角が立っていて、光に近づけると面がきらきら返る。銀の匙を差しても縁は白いままだ。
異常なし。異常なしを2棟ぶん積み上げてから、俺は奥の棟へ入った。
8列目の蓋を、手前から順に開けていく。
1つ目。粒がそろっている。
2つ目。同じ。
3つ目。
粒が大きい。
俺は灯りを近づけた。
塩の粒は乾き方で大きさが変わる。ゆっくり乾かせば大きくなるし、急げば粉になる。だからこれだけなら、乾かし方の違いで説明がつく。
つくのに、俺は蓋を戻さなかった。
色が違う。
塩の白は青みを含んでいる。これは灰に寄っている。灯りを回すと、粒の面が光を返さずに吸った。
俺は匙を差した。
10まで数えて、引き上げる。
縁が黒い。
黒くなった場所が、縁から内側へ雲の形に広がっていた。秋の狩場の樽と同じで、冬の招待状と同じだ。
「閣下」
「出たか」
「出ました」
俺は匙を布で拭いて、もう一度差した。
もう一度出た。
4つ目も開けた。同じ。5つ目、同じ。6つ目からは粒がそろっていて、銀は白いままだった。
「3つです。3つ目から5つ目まで」
クレイス・ヴァルドレイは灯りを俺の手元へ寄せた。
「塩ではないのか」
「塩も入っています。混ぜてあります。粒の大きいほうが混ざりもので、たぶん砕いた石です」
「食えば死ぬか」
「この濃さなら、1回では死にません。毎日食えば死にます」
俺は樽の腹の焼き印を見た。
夏の浜の名前と、乾かした月が押してある。押し方が浅い。他の樽は焼き印が木の目を潰しているのに、これは表面をなでて止まっている。
「閣下。この3つ、印を押し直しています」
「読める字は同じだ」
「同じ字を、あとから浅く押しています。中身を入れ替えて、外側だけ元に戻したんです」
「帳簿では」
この人は7冊のうち1冊を開いた。
指が欄を下りて、途中で止まる。
「破損。廃棄」
「……廃棄」
「3樽。夏の終わりだ」
廃棄された樽が蔵のいちばん奥に立っている。
俺は帳簿の字を見た。
「閣下。この行を書いたのは」
「書役だ」
「蔵番の方ではなく」
「蔵の帳面は屋敷で清書する。夏のぶんを書いたのが誰かは、明日調べさせる」
背中を丸めて樽を覗きこんでいた蔵番の老人がそこで顔を上げた。
「わしは廃棄した覚えがございませんで」
「覚えは要らん。判は」
「押しました。押せと言われれば押します。読めませんので」
この人は何も言わなかった。
字の読めない蔵番に判を押させれば、責める場所はどこにもできない。誰も嘘をついていないのに、書いたものだけが嘘になる。狩場の水の樽と同じ形をしている。あのときは5人の手を経ていた。
俺は3つの樽に自分の布を1枚ずつかけた。かける前に、1樽からひとつまみだけ別の布へ取っておく。検めたものの見本は残す。秋に自分で書き足した規定の、3行目だ。
「これ、動かさないでください。誰も触らないように」
「封をさせる」
「封もお願いします。それと、閣下」
「なんだ」
「これは、俺たちの物証であると同時に、向こうの物証になります」
この人がこちらを見た。
「言え」
「ヴァルドレイ領の塩蔵から、毒の原料が3樽出ました。その事実は、盛られた側の証拠にも、盛った側の証拠にもなります。外から見れば、この家は毒の原料を持っていた家です」
蔵の中が急に広く感じた。
クレイス・ヴァルドレイは、封をかけた樽をしばらく見ていた。
「それでも出す」
「はい」
「隠せば、次に見つけるのは向こうだ」
「そう思います」
屋敷へ戻ったのは、日が落ちきってからだった。
門を入った時点で分かった。灯りが多い。玄関広間に人が立っていて、その中に領の代官の外套が混ざっている。
マレンさんが階段の下で待っていた。
「若様。お戻りをお待ちでございました」
「誰だ」
「代官のご一行と、王家の書役の方が」
「用件は」
マレンさんは俺のほうを一度見て、それから答えた。
「料理長のことでございます」
厨房の火は落ちていなかった。
竈に鍋が2つかかっていて、片方から湯気が立っている。ドランさんは竈の前に立ったまま、こちらへ背を向けていた。
代官が書付を読み上げた。
「ヴァルドレイ公爵領の塩蔵より、毒の原料が発見された旨、王家へ届け出があった。届け出人はアデール・ヴァルドレイ」
俺は自分の耳を疑った。
今日の昼だ。俺が樽の蓋を開けたのは今日の昼で、封をさせたのは夕方だ。
「届け出は、いつ出されたものですか」
「毒見役どの。使用人が口を挟む場ではない」
「日付だけで結構です」
「3日前だ」
3日前。
俺が蔵へ行くと決めたのは4日前だ。茶会で俺は離れの工程を見せてもらっている。見せた側は見に来た側が次にどこを見るかも読める。
「続けます。毒の原料が塩蔵にあり、その塩が公爵家の厨房へ運ばれている。以上により、公爵家の食卓へ毒を入れる機会を最も多く持つ者は、20年にわたり厨房を管理してきた料理長ドランである。査問の日まで、当人を厨房の職から解くよう申し渡す」
鍋の湯気が天井へ上がっていく。
ドランさんは振り返らない。
「お待ちください」
「毒見役どの」
「1つだけ、記録に残していただきたいことがあります」
「使用人の言い分を書き取る場ではない」
「毒見役です」
代官が黙った。
「毒見役は、公爵家の書式に定められた職です。主人の口に入るいっさいの物を、主人より先に検める者。俺の記録は、この家の食卓について残っている唯一の記録です」
俺は上着から板を出した。
雇われた日から、朝と昼と夕に何が出たかを書きつけてきた板だ。板は3枚目になっていて、1枚目と2枚目は部屋の櫃に入っている。
「秋に俺が倒れた日、俺の口に入ったのは昼のひと匙です。同じ鍋から閣下も召し上がりました。閣下は何ともありません」
「耐性がおありだと聞いている」
「あの日の量なら、耐性のない人間でも寝込むだけです。俺は3日寝ました。閣下は3日、水しか口にしていません。倒れなかったのではなく、そもそも入っていないんです」
代官が書役のほうを見た。書役は筆を止めている。
「鍋が原因なら、鍋から取り分けた2人が同じになります。ならなかった。だから鍋ではありません。厨房を通っていないところで、俺にだけ入りました」
「では、どこから入った」
俺は口を閉じた。
自分の手の甲が冷えきったままなのに気づいたのはそのあとだ。
言えない。油の壺のことはこの部屋で言えない。言えばそこから先の道が全部塞がる。
「……分かりません。今は言えません」
「分からぬのなら、料理長を疑わぬ理由にはならん」
「疑う理由にもなりません」
「毒見役どの」
「同じことです。分からないものは、どちらの側にも使えない。使ってはいけないものを、あなたは今、片方だけに使っています」
代官の顔が赤くなった。
「公爵閣下。この者を下がらせていただきたい」
「続けさせろ」
声は卓の向こうから来た。
クレイス・ヴァルドレイは厨房の入口に立ったままだった。外套も脱いでいない。塩蔵の粉が肩に白く乗っている。
「閣下。使用人の言い分を——」
「この家の毒について、書式で口を開ける人間は、この屋敷にこの男しかいない」
代官が息を吸った。
「毒見役の言うとおりだ。3日ぶんの記録は俺が知っている。俺が水しか飲まなかったのも事実だ」
誰も口を開かなかった。
竈の火が薪を1本ぶん落として、そのぶんだけ影が動く。
俺は自分の膝の裏が汗ばんでいるのに気づいた。塩蔵で冷えきったはずの体が、今ごろになって熱を出している。
それでも書付は取り下げられなかった。
王家へ届け出が出ている以上、査問の日までは手続きが動く。代官の権限で止まるものではないと、代官は最後にそう言った。言い方には嫌味がなかった。
クレイス・ヴァルドレイは書付を受け取って、卓へ置いた。
羽根ペンを取る。署名をする前に、この人は下の空いた場所へ3行書き足した。
「解くのは厨房の職のみ。屋敷を出す必要はない。給金は据え置く。以上を条件として認める」
「閣下。それは」
「書式に反するか」
「……反しません」
「なら書く」
署名の音がした。
紙の上をペン先が走る音は、この人が書くときだけ乾いて聞こえる。冬になってから、この人の手はもう震えていない。
代官たちが引き上げた。
厨房には3人が残った。
ドランさんはまだ竈のほうを向いている。
「ドランさん」
「聞いてた」
「はい」
「うるさかった」
「すみません」
「褒めてねえぞ」
ドランさんが火かき棒を取った。
竈の火を中央へ集めて、灰をかけて、種火だけを残す。灰は1粒も外へ落ちない。20年やってきた手つきだ。
「明日から、誰が火を見るんですか」
「下の連中だ。3年目と5年目がいる」
「大丈夫ですか」
「駄目だ」
「駄目ですか」
「駄目に決まってんだろ。火の落とし方も知らねえ」
ドランさんが火かき棒を壁へ立てかけた。
振り返って、こちらを見る。いつもは鍋か、まな板の上の何もない場所へ向かって話す。今日は俺の顔を見ている。
「おい」
「はい」
「明日の朝、干した魚の水を替えるのはお前だ」
「……はい」
「3回替えろ。2回だと塩が残る。4回だと味が抜ける」
「3回ですね」
「覚えとけ、ユエル」
俺は水を替える回数より先に、名前のほうを頭へ入れた。
「覚えます」
ドランさんは前掛けを外して、竈の脇の釘へ掛けた。
釘の前掛けは畳んでいない。明日また取る形で掛けてある。
厨房を出ていく背中を俺は見送った。
鍋が1つ、まだ火の上に残っている。
卓が終わったあとに残しておくと言われた鍋だ。今日は誰も卓につかなかったから、中身はそのまま煮詰まっている。
俺は蓋を取った。
塩漬け肉と根菜。汁が減って、色が濃くなっている。
毒見役の飯は毒見をした人間しか食えない。
俺は匙を1本取った。
鍋の縁で1度鳴らしてから、自分の口へ運ぶ。
味は濃い。濃いのは煮詰まったからで、明日の朝までにはもっと濃くなる。ドランさんがいないあいだ、この鍋の火加減を覚えるのは俺の仕事になる。




