第四十六話 剛と柔
角来道場。
広い板張りの道場に、晴真たちは並んで座っていた。
その正面を鏑木柔次郎がゆっくりと歩きながら口を開く。
「さて、実際に身体を動かす前に、まず角来流剛柔体術がどういう武術なのか説明しておこう」
刀也がすぐに背筋を伸ばす。
迅も清盛も愛理も道満も、皆真剣な表情になる。
柔次郎は道場の壁に掲げられた二文字へ目を向けた。
そこには大きく――
『剛』
『柔』
と書かれている。
「名前の通り、角来流には大きく分けて二つの考え方がある」
柔次郎が右手を握る。
「まず――剛」
その瞬間、柔次郎の身体を流れる霊力が変わった。
晴真の金桜眼がうっすらと反応する。
「あ……」
晴真が目を見開く。
霊力が腕、肩、胸、腰、脚へと流れ込み、全身へ広がっていく。
ただ流しているのではない。
筋肉、骨、皮膚。
身体そのものへ霊力を染み込ませている。
柔次郎が説明する。
「剛とは、己の霊力で己の身体を鍛え上げる技術だ」
拳を握る。
ミシッ――
僅かに床板が鳴った。
「筋力、瞬発力、身体の強度、踏み込み、打撃。そのすべてを霊力によって底上げする」
刀也の目が輝いた。
「身体強化ですか!」
「そうとも言える。ただし単純に霊力を大量に流し込めばいいわけじゃない。必要な場所へ、必要な量を、必要な瞬間だけ送り込む」
柔次郎は自分の腕を指差す。
「例えば攻撃を受ける瞬間――」
腕へ霊力が集中する。
「ここを霊力で硬質化させる」
道満の眉がぴくりと動いた。
「踏み込む瞬間には脚、拳を放つ瞬間には肩から拳、蹴りなら腰から脚。全身を常に強化しているわけじゃない。そんなことをすれば霊力の無駄遣いだからな」
晴真が頷く。
「必要なところだけ……」
「そう。これが角来流の剛だ」
柔次郎は拳を開いた。
そして今度は力を抜く。
肩、腕、腰。
すべてから余計な力が消えた。
「そして――柔」
空気が変わる。
先ほどまで身体の内側へ強く集められていた霊力が、今度は水のように全身を巡り始める。
道満が目を細めた。
「これは……」
柔次郎が笑う。
「柔とは、力に力で対抗しない。相手の力、相手の動き、そして――」
自分の胸へ手を当てる。
「己の霊力の流れ。そのすべてに逆らわず、流れに身を任せる」
晴真が首を傾げる。
「流れに……?」
「ああ。相手が押してくるなら押し返さない」
一歩下がる。
「その力を受け入れる」
そして身体を僅かに捻る。
「方向を変える」
手を払う。
「崩す」
最後に手のひらを返した。
「そして制する」
清盛が腕を組む。
「なるほど。合気に近い部分もあるな」
「あるね」
柔次郎が頷く。
「投げ、崩し、関節、受け流し、相手の力を利用した反撃。それらを支えるのが角来流の柔だ」
愛理が首を傾げる。
「でも柔ってことは、力を使わないんですか?」
「いや、そこを勘違いしちゃいけない」
柔次郎は首を振って笑う。
「柔は弱いという意味じゃない。使うべきところでは力を使う。ただ、力をぶつけ合わないだけだ」
愛理が「ああ」と頷いた。
すると――
「……不思議だな」
道満がぽつりと呟いた。
全員が道満を見る。
「どうした?」
柔次郎が尋ねる。
道満は少し考えながら答える。
「聞けば聞くほど、なんだか陰陽術に通じるものを感じます」
「陰陽術?」
刀也が首を傾げる。
道満は自分の手を見る。
「霊力を必要な場所へ必要な量だけ流す。霊力による硬質化、流れを読み、逆らわず、必要な瞬間だけ形を変える」
そして柔次郎を見る。
「札術で行う霊力操作と、考え方がかなり近い」
柔次郎が笑った。
「さすが麻賀多宗家、気づいたか」
「やはり」
道満の目が少し輝く。
「そうだな。霊力操作、霊力による肉体の硬質化、霊力の流量調整。確かに陰陽術と近い部分はかなり多い」
晴真も考える。
言われてみれば――
将門流でも、霊爆轟身でも、霊装武具でも。
結局は霊力をどう流すのか。
どこへ流すのか。
どれだけ流すのか。
それが重要だった。
柔次郎が晴真を見る。
「特に晴真君」
「はい」
「君は霊力の量が多い。だからこそ角来流の剛を覚えるなら、単純に大量の霊力を身体へ流し込む癖はつけない方がいい」
晴真がぎくっとする。
「……はい」
愛理が笑った。
「晴真、絶対やるもんね。全部ドバーって」
「そ、そんなこと……」
道満、刀也、迅、与一。
全員が晴真を見る。
「やるな」
「やる」
「絶対やる」
「間違いなくやる」
「みんな酷いよ!」
笑いが起こる。
桜花まで愛理の肩の上から頷いていた。
「晴真様ならやりますね」
「桜花まで!?」
道場に笑い声が響く。
柔次郎も笑ったあと、再び真剣な表情へ戻った。
「そしてもう一つ。角来流では、剛と柔を別々の技術とは考えない」
「え?」
刀也が首を傾げる。
柔次郎は拳を作る。
「剛だけでは、自分より強い力に押し負ける」
次に拳を開く。
「柔だけでは、崩した後に決めきれないことがある」
そして握る。
開く。
再び握る。
「剛から柔へ、柔から剛へ。攻めながら受け、受けながら攻める」
道満が理解する。
「状況によって切り替える……」
「そう。そして最終的には、切り替えている意識すらなくなる。身体が勝手に最適な方を選ぶ」
刀也が目を輝かせる。
「かっけえ……」
迅も珍しく真剣に頷いた。
「確かに面白いな」
清盛も笑う。
「将門流とは全然考え方が違う」
その言葉に柔次郎が清盛を見る。
「そうか?」
「え?」
「違うように見えて――」
柔次郎は少し笑った。
「案外、根っこは近いかもしれないぞ」
清盛が眉を上げ、愛理も興味深そうに聞いている。
しかし柔次郎はそれ以上説明しなかった。
「まあ、言葉で説明するのはこの辺にしておこう」
パン!
両手を叩く。
「武術なんてものは、百回説明を聞くより――」
ニッと笑う。
「一回見た方が早い」
その瞬間、剛快が立ち上がった。
「おっ、やるか!」
なぜか嬉しそうだった。
柔次郎は呆れたように笑う。
「まだ何も言ってないぞ」
「俺だろ? どうせ」
「まあな」
柔次郎が道場中央へ歩き、剛快も立ち上がった。
晴真が驚く。
「剛快さんと柔次郎先生が?」
「ああ」
剛乃介が腕を組みながら笑った。
「見るには一番分かりやすい」
愛理が二人を交互に見る。
「でも親子じゃなくていいんですか?」
「わしがやったら壊れるじゃろ」
剛乃介が平然と言う。
「何が!?」
愛理が思わず突っ込む。
「床じゃ」
「床!?」
剛乃介は笑う。
「柔次郎なら加減が上手い」
その頃、中央では柔次郎と剛快が向かい合っていた。
体格差はかなりある。
柔次郎も鍛えられているが、剛快はそれ以上。
肩幅、腕、脚。
どれを見ても一回り大きい。
迅が呟く。
「普通に考えたら、力比べじゃ剛快さんだよな」
「そうだな。単純な腕力なら剛快さんの方が上だ」
清盛が答える。
道満がその言葉に反応する。
「それなら……柔次郎先生がどう戦うか」
皆の視線が集まる。
柔次郎は軽く構えた。
両手を前へ。
力みはない。
対する剛快は腰を落とし、両拳を握る。
その瞬間――
ズン。
空気が震えた。
「うわ……」
晴真が声を漏らす。
剛快の全身を濃い霊力が包んでいた。
だが外へ漏れているのではない。
皮膚のすぐ内側。
筋肉、骨。
身体そのものに霊力が食い込んでいる。
柔次郎が皆へ声を掛ける。
「まず剛を見せよう。剛快!」
「おう!」
「手加減はいらねぇ 叔父さん」
剛快が笑った。
「言ったな!」
ドン!!
床が鳴る。
「速っ!」
迅が目を見開く。
あの巨体が一瞬で柔次郎の目の前へ。
剛快が右拳を振り抜く。
ブォン!!
空気が唸った。
愛理が思わず身を引く。
「当たったら洒落にならないじゃん!」
だが柔次郎は避けなかった。
「え!?」
晴真が目を見開く。
柔次郎が左腕を上げる。
そして拳が当たる――その一瞬だけ。
左腕へ霊力が集中した。
「剛」
ドゴォン!!
激しい音とともに、晴真たちの髪が風圧で揺れる。
しかし柔次郎は動いていない。
剛快の拳を一本の腕で受け止めていた。
「嘘だろ……」
刀也が呆然とする。
道満は違う部分を見ていた。
「今、当たる瞬間だけ……」
柔次郎が頷く。
「そう。常に硬くしている必要はない。衝撃を受ける場所と瞬間、そこだけを硬質化する」
そして柔次郎の腰が沈んだ。
霊力が左脚、腰、背中、肩、右拳へ。
一瞬で流れる。
「こうやって霊力を――」
右拳を突き出す。
「繋ぐ」
ドンッ!!
拳は剛快の胸元寸前で止まった。
だが、その風圧だけで剛快の道着が大きく揺れる。
剛快が笑う。
「相変わらず怖ぇな!」
柔次郎も笑った。
「今のが――剛」
晴真たちを見る。
刀也が興奮して拳を握る。
「すげえ! じゃあ柔は!?」
「慌てるな」
柔次郎が笑い、剛快を見る。
「もう一度。今度は思い切り来い」
「おう!」
剛快が腰を落とす。
今度は拳ではない。
真正面から踏み込み、柔次郎の身体を掴みにいく。
「うおおおっ!」
巨体が突っ込む。
晴真は思った。
――避ける?
しかし違った。
柔次郎はほんの半歩だけ前へ出た。
剛快の腕に触れる。
力を受ける。
逆らわない。
腕を引き、身体を捻る。
剛快の突進する力が、そのまま斜め前へ流れていく。
「え?」
剛快の身体が崩れる。
次の瞬間。
柔次郎の腰が剛快の懐へ入った。
手、肘、肩、腰。
すべてが滑らかに繋がる。
「柔」
ふわっ――
一瞬、剛快の巨体が宙へ浮いた。
「えええっ!?」
晴真たちの声が揃う。
ドン!!
剛快が畳へ転がる。
しかし痛そうな音とは裏腹に、綺麗に受け身を取っている。
剛快自身が大笑いした。
「はははは! やっぱこれ嫌いだ! 俺の力を全部利用しやがる!」
柔次郎が手を差し出す。
「だから突っ込みすぎるなって、何年言ってる」
「分かってても止まれねえんだよ!」
柔次郎が剛快を引き起こし、晴真たちを見る。
「今のが柔だ」
道満がじっと二人を見る。
「剛では自分の霊力で自分を強くする。柔では自分と相手の力の流れを利用する」
「その通り」
柔次郎が頷く。
すると晴真が口を開いた。
「でも先生」
「はい」
「今、剛快さんを投げた最後……ほんの少しだけ足に霊力を入れませんでした?」
柔次郎がぴたりと止まる。
剛乃介がニヤリと笑った。
清盛も道満も愛理も晴真を見る。
柔次郎は少し驚いたあと、嬉しそうに笑った。
「よく見ていたな」
晴真が「やっぱり」と呟く。
「そう。今の投げは柔だ。だが最後に相手の身体を浮かせる瞬間だけ――」
自分の足を見る。
「剛を使った」
道満が目を見開く。
「つまり……完全に別々ではない」
「そういうこと」
柔次郎が笑う。
「剛の中に柔があり、柔の中に剛がある。二つを自在に行き来する」
壁に掲げられた二文字。
『剛』
『柔』
柔次郎がその中央へ立つ。
「それが――角来流剛柔体術だ」
静まり返る道場。
そして刀也が勢いよく立ち上がった。
「先生!」
「はい」
「やりたいです!」
迅も立つ。
「俺も」
清盛まで前へ出る。
「俺もお願いします」
愛理も拳を握った。
「私も!」
道満も静かに立ち上がる。
「興味深い」
最後に晴真まで目を輝かせた。
「僕もやってみたいです!」
柔次郎はぞろぞろと前へ出てくる子供たちを見て苦笑する。
「……ずいぶん元気だな」
剛乃介が後ろから豪快に笑った。
「はははは! いいじゃないか! 全員まとめて鍛えてやれ!」
柔次郎がため息をつく。
「兄さんは簡単に言うなぁ」
その時――
道場の入口から元気な声が響いた。
「晴真君!」
振り返ると、そこには道着姿の角来桜華と弓月が立っていた。
桜華は愛理を見るとニッと笑う。
「お待ちしておりました!」
愛理も笑った。
「やっと来た」
桜華が道場中央へ進み出る。
「お約束です」
構える。
「将門流古武術――」
愛理も前へ出て拳を握る。
「角来流剛柔体術」
「いいよ」
二人が向かい合う。
柔次郎はその姿を見て小さく笑った。
「ちょうどいい。説明は終わりだ」
そして晴真たちへ視線を向ける。
「ここからは――実戦で見てもらおうか」




