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第百十一話 黒蛇と覇月、五組の激突


 桜駆け、第五走。


この最終区間は、古くから『大番狂わせの第五走』と呼ばれていた。


その理由は、五つの分岐門にある。


先に到着した組から好きな門を選び、門の先に広がる異なる道を進んでいく。


最も短い道を選べば有利になるとは限らない。


強大な物怪が待ち受けていることもあれば、巧妙な罠が仕掛けられていることもある。


逆に、遠回りに見えた道が、結果的に最も早く抜けられることもあった。


これまでも、第五走では数々の逆転劇が生まれてきた。


そして今年もまた、各組が全く異なる試練を乗り越え、最後の直線へと向かっていた。


ところが――。


今年の第五走は、例年とは少し様子が違っていた。


五つの道を抜けた各組が、次々と合流してきたのである。


「おおっ! 見えてきたぞ!」


先頭を走る三組。


岩富舞桜を先頭に、上勝田詩織、麻賀多雛菊、町方智則、坂戸夏樹が続く。


舞桜が跨る霊馬は、紅蓮毛の名馬《焔》。


その力強い走りは、他の霊馬とは一線を画していた。


そして、その三組のすぐ後ろから姿を現したのは――。


「おいおい! 舞桜の奴、もうあんなところにいるぞ!」


立身刀也の声が響く。


一組だった。


ただし、一組には少々奇妙な事情があった。


本来選んだ道から合流したのではない。


途中の仕掛けによって、隣接する三組の道へ入り込んでしまい、結果として三組と同じ道から抜けてきたのである。


「なんで私たち、三組の道から出てきたのかしら……」


麻賀多凛が呆れたように呟いた。


「まあ、無事に出られたんだからいいじゃねぇか!」


刀也が豪快に笑う。


「よくないわよ!」


そんな一組の後ろから、さらに別の集団が現れた。


「おー、みんないるねぇ」


のんびりとした声。


西御門蒼空率いる四組だった。


麻賀多葵、麻賀多楓、海隣寺千景、弥勒絢の四人も、軽やかに霊馬を走らせている。


さらに――。


「朔夜! 前に三組がいるぞ!」


上志津玲司が声を上げた。


志津朔夜を中心とした二組も合流してきた。


そして、最後尾からは勝田天音を中心とした五組が現れる。


五つの道を抜け、五つの組が再び一つの道へ。


順位は――。


一位、三組。


二位、一組。


三位、四組。


四位、二組。


五位、五組。


しかし、その差は驚くほど小さかった。


先頭から最後尾まで、霊馬が本気で駆ければ、あっという間に入れ替わってしまうほどである。


「……すごいわね」


凛が周囲を見渡した。


「ここまで来て、ほとんど差がないなんて」


「第五走らしくなってきたじゃねぇか!」


刀也が嬉しそうに笑う。


どの組が一位になってもおかしくない。


そんな状況だった。


ただし――。


一つだけ、各組が警戒しなければならない存在がいた。


三組の岩富舞桜。


そして、彼女が跨る霊馬《焔》である。


◇


「……おい、朔夜」


二組の上志津玲司が、前方を睨みながら声をかけた。


「このままじゃ、三組に行かれるぞ」


「なんでだ?」


朔夜が尋ねる。


「岩富舞桜が乗っている霊馬を見ろ」


玲司が顎で示した。


「あれは紅蓮毛の《焔》だ」


「……ああ」


朔夜も目を細めた。


「岩富家の名馬か」


「そうだ。あの霊馬は厄介だぞ」


玲司は続けた。


「今は他の組に合わせて走っているようなものだ。あれが本気になったら、俺たちの霊馬じゃ追いつけない」


「確かにな……」


朔夜は考え込んだ。


「どうする?」


すると玲司が、不敵な笑みを浮かべた。


「さっきの罠を真似るのはどうだ?」


「さっきの罠?」


「幻術だよ」


その言葉に、志津香花が顔を上げた。


「先ほどの、幻影を見せて相手の判断を狂わせる術式ですか?」


「ああ、あれだ」


玲司が頷く。


「あれで舞桜の気を逸らす。霊馬の足を止められれば、それだけで十分だ」


「そんなに簡単にいくか?」


朔夜が眉をひそめた。


「あいつは岩富家の人間だぞ」


「ふっ」


玲司は笑った。


「俺を誰だと思っている?」


そして、自信満々に言い放った。


「上志津玲司だぞ!」


「はいはい……」


朔夜が呆れたように答える。


「その自信だけは大したもんだ」


「実力も大したもんだろうが!」


「まあ、それは認める」


すると香花が静かに手を挙げた。


「わたくしも、お手伝いいたします」


「おお、助かる!」


玲司が頷いた。


「香花なら、あの術式の構造を覚えているだろう?」


「はい。先ほどの罠に用いられていた術式は、ほぼ把握しております」


「さすがだな」


「ですが……」


香花は少し考えた。


「あの術式は、単なる幻影ではなかったように思います」


「細かいところは任せる。俺が幻影を作るから、香花は術式の再現を頼む」


「承知いたしました」


二人は霊馬を走らせながら、霊力を練り始めた。


玲司が幻術の骨格を組み上げ、香花がそれを補強する。


二人の間に、淡い霊力の糸が張り巡らされていく。


その様子を見て、朔夜は小さく呟いた。


「……やりすぎるなよ」


「わかってるって!」


玲司は笑った。


「ちょっと気を逸らすだけだ」


しかし、この時。


玲司は気づいていなかった。


香花が再現しようとしていた術式には、幻術以外の要素も含まれていたことを。


◇


「ふははははっ!」


先頭を走る舞桜が、高らかに笑った。


「よいぞ、焔! 実に愉快じゃ!」


焔が大きく嘶く。


その紅蓮の毛並みが、風を受けて炎のようになびいていた。


「舞桜! 少し速度を落として!」


後方から詩織が声をかける。


「まだ先は長いんだから!」


「わかっておる!」


そう答えながらも、舞桜の勢いは衰えない。


「焔よ! もう少し行けるか!」


ヒヒィィィン!


焔が応えるように嘶いた。


次の瞬間。


ぐんっ!


三組の速度が上がった。


「うわっ!」


後ろを走る智則が驚いた。


「舞桜! 速すぎるって!」


「はははっ! ついてくるのじゃ!」


三組が、徐々に他の組を引き離し始める。


それを見た刀也が、顔をしかめた。


「……やべぇな」


「どうしたの?」


凛が尋ねる。


「あいつ、本気になり始めてるぞ」


刀也は舞桜の背中を見た。


「舞桜が焔を本気で走らせたら、そう簡単には追いつけねぇ」


「そんなに?」


「ああ。あの馬は化け物だ」


刀也は苦笑する。


「舞桜の奴も、昔からあいつに乗ってるからな。相性が抜群なんだよ」


その時だった。


「……ん?」


先頭を走る舞桜が、不意に眉をひそめた。


前方の道。


木々の間に、誰かが立っていた。


いや――。


一人ではない。


いくつもの人影が、舞桜の周囲に浮かび上がっていた。


『岩富舞桜……』


「……なんじゃ?」


『随分と立派な霊馬に乗っているではないか』


舞桜は目を細めた。


『その馬がいなければ、お前は何もできぬのだろう?』


「……何?」


『紅蓮毛の焔に頼っているだけの小娘が』


舞桜の眉が、ぴくりと動いた。


『岩富家の名に恥じるな』


『己の腕ではなく、霊馬の力で勝つつもりか』


「……貴様ら」


舞桜の声が低くなる。


「誰に向かって物を申しておる?」


『焔に乗っているだけではないか』


『所詮は馬頼みよ』


その瞬間だった。


「ふざけるでないわぁぁぁっ!」


舞桜が手綱を捌き、突然進路を変えた。


そして、薙刀を振り抜く。


ズバァッ!


虚空に鋭い斬撃が走った。


「きゃっ!」


詩織が驚く。


「舞桜!? 何してるの!」


「姿を現せぇ!」


舞桜が怒鳴った。


「妾が焔頼りで走っておるじゃと!?」


さらに薙刀を振るう。


「妾の武を愚弄するとは、よい度胸じゃ!」


「舞桜! 落ち着いて!」


詩織が必死に呼びかける。


「何もいないわよ!」


「何を言うておる!」


舞桜は見えない何かを睨みつけていた。


「そこにおるじゃろうが!」


その様子を見て、雛菊が異変に気づいた。


「……待って!」


雛菊は霊力を目に集中させる。


すると、舞桜の周囲に薄い霊力の膜が見えた。


「幻術だわ!」


「幻術!?」


詩織が振り返る。


「誰かが舞桜に幻を見せてるの!」


雛菊は叫んだ。


「しかも、挑発してる!」


「なんですって!?」


だが、その時にはすでに遅かった。


「……許さぬ」


舞桜の全身から、凄まじい霊力が溢れ始めた。


「妾を侮辱したこと……後悔させてやるのじゃ!」


「舞桜! やめなさい!」


詩織の声も、もはや届いていなかった。


◇


「……おい」


二組の下志津凌雅が、前方を見て呟いた。


「玲司」


「なんだ?」


「あれ……不味くねぇか?」


玲司が前を見る。


そこには、薙刀を大きく構え、全身に黒々とした霊力を纏わせる舞桜の姿があった。


「…………」


玲司の表情が固まった。


「……想定外だな」


「カッコよく言ってる場合じゃないでしょ!」


中志津牡丹が叫んだ。


「どうすんのよ、あれ!」


舞桜の周囲に、黒い霊力が渦巻いていた。


それはまるで、生き物のようにうねっている。


「……おいおい」


凌雅が苦笑した。


「あいつ、まさか……」


舞桜は薙刀を水平に構えた。


その穂先に、凄まじい霊力が集まっていく。


黒い霊力は、やがて巨大な蛇の頭の形を取り始めた。


「貴様らぁぁぁ!」


舞桜が吠える。


「まとめて薙ぎ払ってくれるわぁぁぁっ!」


そして――。


「岩富流薙刀術!」


薙刀が大きく引かれる。


「奥義――!」


地面が震えた。


「《黒蛇大蛇薙》!」


ゴォォォォォォォッ!


舞桜が、巨大な横薙ぎを放った。


その瞬間。


薙刀の穂先から放たれた黒い霊力が、巨大な大蛇へと姿を変えた。


漆黒の鱗。


大きく開かれた口。


巨大な二本の牙。


その黒蛇は、うねるように大地を這い、後方へ向かって襲いかかった。


横薙ぎの斬撃と、蛇そのものが襲いかかるような霊力の奔流。


二つの性質を併せ持つ、岩富流の大技だった。


「うわぁぁぁっ!」


「なんだ、あれは!」


各組の選手たちが悲鳴を上げる。


黒蛇が通った道の木々が、次々と薙ぎ倒されていった。


バキバキバキッ!


「おい! 舞桜!」


刀也が怒鳴った。


「何考えてやがる!」


しかし、舞桜は止まらない。


「消し飛ぶがよい!」


黒蛇が猛烈な勢いで迫ってくる。


その射線には、一組も二組も四組も五組もいた。


「まずい!」


凛が叫ぶ。


「このままじゃ、みんな巻き込まれる!」


その時だった。


「ったく……!」


刀也が舌打ちした。


「しょうがねぇな!」


そして、勢いよく霊馬から飛び降りた。


「刀也!?」


豪太が驚く。


「お前、何する気だ!」


「決まってんだろ!」


刀也は背中の霊装武具に手をかけた。


「いとこの俺が、何とかするしかねぇじゃねぇか!」


その手に握られていたのは――。


霊装武具《煉獄》。


刀也は大地を踏みしめた。


そして、丹田から全身へ、霊力を一気に巡らせる。


(……くそっ)


体が重い。


ここまでの道中、刀也は何度も大技を使っていた。


木々を薙ぎ倒し、道を切り開いた時にも、相当な霊力を消費している。


残っている霊力は、決して多くなかった。


だが――。


「そんなこと言ってる場合じゃねぇ!」


刀也は煉獄を構えた。


「術式解放!」


その瞬間。


ゴォォォッ!


刀身から、真紅の炎が噴き上がった。


炎が刀身を包み込み、その形を巨大な刃へと変えていく。


「《煉獄》!」


轟々と燃え盛る巨大な炎の刀身。


その熱気だけで、周囲の草木が激しく揺れた。


刀也はさらに、残された霊力を全身から刀身へと集中させた。


「……いくぞ!」


足を踏み込み、腰を落とす。


そして、巨大な煉獄を振りかぶった。


「立身裏一刀流――!」


全身の霊力が、刀身へと流れ込む。


「《覇月》!」


ズガァァァァァァンッ!


凄まじい轟音とともに、刀也の一撃が放たれた。


真っ赤に燃え盛る、巨大な三日月形の斬撃。


それは地面を削りながら一直線に飛び、迫り来る黒蛇へと激突した。


ドゴォォォォォォンッ!


「うわぁぁっ!」


凄まじい衝撃が周囲を襲った。


漆黒の大蛇と真紅の三日月。


二つの巨大な霊力が、真正面から激突する。


「ぐっ……!」


刀也が歯を食いしばった。


「くそっ……!」


黒蛇が、少しずつ覇月を押し始める。


舞桜が放ったのは、全力に近い一撃。


対して刀也は、これまでの戦いで霊力を消耗しきっていた。


「……やべぇ!」


刀也の額から汗が流れる。


「押し切られる……!」


巨大な黒蛇が、真紅の三日月を飲み込もうとしていた。


「だったら……もう一発!」


刀也は再び煉獄を構えようとした。


その時。


「おいおい!」


後方から声が響いた。


「無理しすぎだろ、刀也!」


「……あ?」


振り返る刀也。


そこには、霊馬から飛び降りた凌雅の姿があった。


その隣には、巨大な戦斧を構えた牡丹もいる。


「下志津凌雅!?」


「一人で格好つけようとすんなよ!」


凌雅が笑った。


「俺たちもいるんだからな!」


「そういうこと!」


中志津牡丹が戦斧を肩に担いだ。


「アタイたちも加勢するぜ!」


「……お前ら」


刀也は一瞬驚いた。


そして、にやりと笑う。


「ありがてぇ!」


凌雅が霊力を刃に集中させる。


「いくぞ!」


牡丹も戦斧を大きく振りかぶった。


「食らいな!」


二人の斬撃が、同時に放たれた。


ズバァァァッ!


凌雅の鋭い斬撃。


そして、牡丹の豪快な戦斧から放たれる、重量感のある霊力の刃。


二つの斬撃が、刀也の覇月へと重なった。


「うおおおおおっ!」


刀也が叫ぶ。


黒蛇と真紅の三日月が、さらに激しくぶつかり合う。


一瞬、拮抗した。


そして――。


ドッゴォォォォォォォンッ!


巨大な爆発が起こった。


黒と赤の霊力が弾け飛び、周囲を凄まじい衝撃波が襲う。


木々が根元から折れ、枝が千切れ、土砂が巻き上がった。


「うわっ!」


「みんな、伏せて!」


各組の選手たちが、慌てて霊馬を守る。


凛たちも手分けして結界を張り、飛んでくる破片を防いだ。


しかし――。


「……っ!」


牡丹が目を見開いた。


爆発によって吹き飛ばされた大木の残骸が、一直線に自分へ向かってきたのである。


「やばっ!」


戦斧を構え直そうとした。


だが、間に合わない。


(しまった!)


その瞬間だった。


「危ねぇっ!」


ドンッ!


何者かが、牡丹の体を覆うように飛び込んできた。


「えっ!?」


牡丹の視界が、大きな背中で塞がれる。


次の瞬間。


バキィィィンッ!


木の残骸が、その背中に激突した。


だが――。


砕けたのは、木のほうだった。


「……っ!?」


牡丹は目を見開いた。


目の前にいたのは、岩のように逞しい体格の少年。


一組の岩名豪太だった。


その全身には、硬質な霊力が巡っていた。


角来流の《剛》。


肉体を強化し、極限まで硬化させる技である。


豪太はその術によって、自分の体を盾にして牡丹を守ったのだった。


「……大丈夫か?」


豪太が振り返った。


「怪我ねぇか?」


「…………」


牡丹は、ぽかんと口を開けていた。


「……あ、ありがとう」


思わず礼を言う。


だが、すぐに我に返った。


「って! なんでよ!」


「……あ?」


「なんで敵のアタイを助けんだよ!」


牡丹が叫んだ。


「アタイたち、別の組だろ!」


豪太は不思議そうな顔をした。


そして、当然のように答えた。


「女子が怪我しそうになってんのに、助けねぇ奴がいるかよ!」


「…………!」


牡丹の顔が固まった。


「……じょ、女子?」


「おう!」


「……アタイに言ってんのか?」


「えっ?」


豪太が首を傾げた。


「お前、男子なのか?」


「違うわよっ!」


牡丹が真っ赤になって叫んだ。


「正真正銘の女よ!」


「だろ!」


豪太は豪快に笑った。


「だったら当たり前じゃねぇか!」


「…………」


「男子として、女の子が危ねぇ時に助けるのは当然だろ!」


「……っ!」


牡丹は、何も言えなくなった。


大きな体。


力強い腕。


真っ直ぐな瞳。


そして、自分よりも大きな背中。


自分を庇ってくれた時の温もりが、まだ残っている。


(……な、何よ)


胸の奥が、妙に苦しい。


(なんなのよ……これ)


心臓が、どくどくと大きく鳴っている。


(アタイなんかを……女の子って……)


牡丹は慌てて顔を背けた。


「……ふ、ふん!」


「ん?」


「べ、別に! 助けてもらわなくたって、平気だったんだから!」


「そうか!」


豪太は笑った。


「でも、怪我がなくてよかったな!」


「…………っ!」


牡丹の顔が、さらに赤くなった。


(な、なんなのよ、こいつ……!)


だが、豪太はそんな牡丹の様子には全く気づいていなかった。


「おーい! お前!」


豪太はすぐに凌雅のもとへ駆け寄った。


「大丈夫か!? 怪我ねぇか!」


「おう、平気だ!」


凌雅が笑った。


「それより、牡丹を助けてくれてありがとな!」


「おう!」


豪太も笑う。


「こっちこそ、刀也に力貸してくれてありがとうな!」


「いやぁ、元はと言えば、うちの奴らのせいだからな」


凌雅は苦笑した。


「こっちが謝らなきゃいけないくらいだぜ」


「細けぇことは気にすんな!」


豪太は豪快に笑う。


「誰も怪我してねぇなら、それでいいじゃねぇか!」


「ははっ! お前、いい奴だな!」


「おう! よく言われる!」


二人が笑い合う。


その様子を、牡丹は少し離れた場所から見つめていた。


(……岩名豪太)


胸の中で、その名前を呟く。


(……変な奴)


だが、不思議と嫌な気持ちはしなかった。


むしろ――。


(……なんか、悔しい)


牡丹は自分の胸を押さえた。


(なんで、こんなにドキドキしてんのよ……)


◇


「……まずい!」


その時、詩織の悲鳴が響いた。


「舞桜! もうやめて!」


見ると、舞桜が再び薙刀を構えていた。


「まだじゃ……!」


その瞳には、異様な光が宿っている。


「まだ、妾を愚弄した奴らがおる……!」


黒い霊力が、再び薙刀へと集まり始めた。


「おいおいおい!」


刀也が顔をしかめる。


「勘弁してくれよ!」


「もう一発来るぞ!」


凌雅も表情を引き締めた。


一方、二組では――。


「玲司!」


朔夜が怒鳴った。


「今すぐ術を解け!」


「もう解いてる!」


玲司も焦っていた。


「おかしい! 術式はとっくに解除したはずだ!」


「だったら、なんで舞桜が止まらないんだ!」


「俺にもわからん!」


その時。


「……まさか」


香花が、青ざめた顔で呟いた。


「香花?」


朔夜が振り返る。


「何かわかったのか?」


だが、香花が答えるより早く――。


「《解呪》!」


雛菊の声が響いた。


三組の麻賀多雛菊が、両手で印を結んでいた。


その周囲に、淡い白銀の霊力が広がる。


「邪なる縛りよ、解け!」


雛菊が術式を放った。


白銀の光が舞桜を包み込む。


すると――。


パキンッ!


何かが砕けるような音が響いた。


舞桜の周囲に纏わりついていた、薄黒い霊力の膜が消え去った。


「……ん?」


舞桜が目を瞬かせる。


「……なんじゃ?」


薙刀へ集まっていた霊力が、ゆっくりと霧散した。


「妾は……何をしておったんじゃ?」


周囲を見渡す舞桜。


薙ぎ倒された木々。


抉れた地面。


そして、息を切らしている刀也たち。


「…………」


舞桜は、ぽかんとした。


「……何があったんじゃ?」


「舞桜!」


詩織が叫んだ。


「あなた、幻術にかかってたのよ!」


「……幻術?」


「それだけじゃないわ!」


雛菊が険しい表情で言う。


「呪いまでかけられていたの!」


「……呪い?」


舞桜が眉をひそめた。


すると、詩織が二組へ向き直った。


「ちょっと! 二組!」


その声には、明らかな怒りが込められていた。


「いくらクラス対抗戦だからって、呪いをかけるなんて!」


「…………!」


朔夜が、すぐに玲司を見た。


「玲司」


「……なんだ」


「お前、術式に呪いを込めたのか?」


「いいや!」


玲司は即座に否定した。


「俺は幻術しか組んでいない!」


「じゃあ、なんで……」


その時だった。


「……申し訳ございません」


小さな声がした。


香花だった。


「……香花?」


朔夜が振り返る。


香花は俯いていた。


「わたくしが……呪いを込めてしまいました」


「……何?」


玲司が目を見開く。


「お前、なんでそんなことを!」


「……申し訳ございません」


香花は深く頭を下げた。


「先ほど、わたくしたちが通った道に仕掛けられていた幻術ですが……」


香花は震える声で続けた。


「あの術式には、相手の感情を増幅させる呪いが組み込まれていたのです」


「……感情を増幅?」


朔夜が尋ねる。


「はい。怒りや恐怖、焦りなどの感情を強め、冷静な判断を失わせる術式です」


香花は顔を上げた。


「わたくしは、あの術式を正確に再現しようとして……」


そこで言葉を詰まらせた。


「……呪いの部分まで、組み込んでしまいました」


「…………」


玲司は額を押さえた。


「お前なぁ……!」


「申し訳ございません!」


香花は再び頭を下げた。


「術式を再現することばかり考えておりました。実際にどのような影響が出るのか、十分に考えておりませんでした」


朔夜は大きく息を吐いた。


そして、詩織たちへ向き直った。


「……すまない」


深々と頭を下げる。


「香花は、悪意を持ってやったわけじゃないんだ」


「悪意がなければいいってものじゃないでしょう!」


詩織が怒鳴る。


「舞桜が、どれだけ危険な状態になったかわかってるの!?」


「ああ。わかってる」


朔夜は真剣な表情で頷いた。


「香花は真面目な奴なんだ。術式を再現すると決めたら、細部まできっちり再現しようとする」


「…………」


「でも、それが今回は裏目に出た」


朔夜は続ける。


「術を使うよう指示したのは俺たちだ。香花一人の責任じゃない」


玲司も頭を下げた。


「俺が言い出したことだ。すまなかった」


「わたくしの確認不足です……」


香花も深く頭を下げる。


「本当に、申し訳ございませんでした」


詩織は何か言おうとした。


その時だった。


「……もうよい」


舞桜が口を開いた。


「舞桜?」


詩織が振り返る。


舞桜は、自分の手に握られた薙刀を見つめていた。


「妾も……まだまだじゃな」


「……え?」


「たかが幻術と呪いで、我を忘れるとは……」


舞桜は悔しそうに唇を噛んだ。


「岩富家を将来背負う立場にありながら……なんとも情けない」


その声は、いつになく静かだった。


「妾は、焔を侮辱されたことに腹を立てたつもりでおった」


舞桜は焔の首筋を撫でた。


「しかし、本当は……自分の腕を侮られたことが許せなかったのじゃろうな」


「……舞桜」


詩織が小さく呟いた。


「己の未熟さを認められず、怒りに身を任せた」


舞桜は大きく息を吐いた。


「恥ずかしい限りじゃ」


そして、刀也へ顔を向けた。


「……刀也」


「ん?」


「世話をかけたな」


刀也は一瞬、目を丸くした。


舞桜が、こんな素直に礼を言うとは思っていなかったのだ。


だが、すぐに笑った。


「気にすんな!」


「……しかし」


「いとこなんだから、当たり前だろ!」


刀也は煉獄を肩に担いだ。


「まあ、俺一人じゃ止められなかったけどな!」


そう言って、凌雅と牡丹を指さした。


「あいつらがいなきゃ、今頃みんな吹っ飛ばされてたぜ」


「……そうか」


舞桜は二人へ向き直った。


「下志津凌雅、中志津牡丹」


そして、頭を下げた。


「助けられた。礼を申す」


「いやいや!」


凌雅は慌てて手を振った。


「元はと言えば、うちのチームメイトが仕掛けたことだからな!」


「そうよ!」


牡丹も腕を組んだ。


「別に礼なんていらないわ!」


「……ふっ」


舞桜は笑った。


「そうか。ならば、これで貸し借りなしじゃな」


「ああ!」


凌雅が笑う。


「それでいい!」


それまで険悪だった空気が、少しずつ和らいでいった。


詩織も、渋々ながら息を吐いた。


「……今回は舞桜も無事だったからいいけど、次は絶対にやめてよね」


「ああ。約束する」


朔夜が頷いた。


「術式を使う時は、もっと慎重になる」


玲司も苦笑した。


「今回ばかりは、完全に俺たちの失敗だな」


香花は、もう一度深く頭を下げた。


「本当に申し訳ございませんでした」


「……もういいわ」


詩織は肩をすくめた。


「その代わり、今度からちゃんと考えて術を使ってよね」


「はい!」


香花は、真剣な表情で頷いた。


◇


「……ったく」


刀也が大きく伸びをした。


「とんだ騒ぎだったな!」


「本当よ」


凛が呆れたように言った。


「第五走って、やっぱり何が起こるかわからないわね」


「まあ、誰も大きな怪我しなくてよかったじゃねぇか!」


豪太が笑う。


「そうね……」


凛も微笑んだ。


すると、刀也が凌雅を見た。


「しかし、お前、やっぱりいい腕してんな!」


「お前こそ!」


凌雅が笑う。


「さっきの《覇月》、すげぇ技だったぜ!」


「おう! 立身裏一刀流の技だからな!」


「今度、俺にも教えてくれよ!」


「ははっ! そう簡単には教えられねぇぞ!」


二人は楽しそうに笑い合った。


その隣では、牡丹が豪太をちらちらと見ていた。


(……なんなのよ、ほんと)


豪太は相変わらず豪快に笑っている。


(……あいつ、アタイのこと……)


『女子が怪我しそうになってんのに、助けねぇ奴がいるかよ!』


その言葉を思い出す。


「……っ!」


牡丹は慌てて顔を背けた。


(ば、馬鹿じゃないの!)


(アタイは、こんなことで……!)


だが、頬の赤みはなかなか引かなかった。


そんな中――。


「いやぁ〜」


気の抜けた声が響いた。


「青春だねぇ〜」


「……ん?」


刀也が振り返る。


すると――。


すーっ。


一頭の霊馬が、五組の集団の横を静かに通り抜けていた。


その背には、西御門蒼空。


相変わらず、眠そうな顔をしている。


「みんな、仲良しでいいねぇ〜」


蒼空は片手をひらひらと振った。


「じゃあ、僕たちはお先に失礼するよ〜」


「…………」


「…………」


「…………」


一瞬、誰も反応できなかった。


そして――。


「ちょっと待ちなさいよっ!」


凛が叫んだ。


その手には、いつの間にか一本の鞭が握られていた。


西御門流鞭術。


凛は、ここまでの修練で磨いてきた鞭捌きを、迷いなく繰り出した。


ヒュンッ!


鋭い音を立てて、鞭が空を走る。


そして――。


シュルルッ!


「……お?」


蒼空の掲げていた腕に、鞭が巻きついた。


「おっとっと!」


蒼空が驚いて振り返る。


その腕を、凛の鞭がしっかりと捉えていた。


「ふふん!」


凛が笑った。


「そんな簡単に行かせないわよ!」


「……へぇ」


蒼空は自分の腕に巻きついた鞭を見た。


そして、感心したように笑う。


「凛ちゃん、やるねぇ」


「当然よ!」


凛は得意げに答えた。


「西御門流の修練を受けてるんだから!」


「そっかぁ」


蒼空は楽しそうに笑った。


「紫月さん、ちゃんと教えてるんだねぇ」


「当たり前でしょう!」


凛は鞭を握り直した。


「それより、どさくさに紛れて抜け駆けしようなんて、そうはいかないわよ!」


「えー?」


蒼空は困ったように笑った。


「だって、みんな楽しそうに話してるからさぁ」


「だからって、勝手に行かないでよ!」


「でも、これ競争だよね?」


「……うっ!」


凛が言葉に詰まった。


「それは、そうだけど……!」


すると後ろから、千景と絢が追いついてきた。


「蒼空君!」


千景が叫ぶ。


「勝手に先に行かないで!」


「そうよ!」


絢も続いた。


「私たちを置いていくつもりだったの!?」


「えー、違うよぉ」


蒼空は笑った。


「君たちなら追いつけるでしょ?」


「そういう問題じゃない!」


二人の声が重なった。


その様子を見て、葵と楓がくすくすと笑う。


「ふふっ、蒼空君らしいね」


「本当。油断も隙もないんだから」


その時。


「おいおい!」


朔夜が呆れたように言った。


「お前ら、何してんだよ!」


「そうだぞ!」


玲司も笑う。


「今度は四組が抜け駆けか?」


「まあ、競争だからねぇ」


蒼空は悪びれずに答える。


「……確かに!」


凌雅が吹き出した。


「そりゃそうだ!」


「笑い事じゃないわよ!」


牡丹が叫んだ。


「アタイたち、まだ四位なのよ!」


「だったら、早く走らねぇとな!」


凌雅が笑う。


「当然よ!」


一方、舞桜も焔の背に跨り直していた。


「ふむ……」


そして、周囲を見渡す。


「なんじゃ、結局……」


少し呆れたように笑った。


「全組、揃ってしまったではないか!」


「本当ね……」


詩織が苦笑する。


つい先ほどまで三組が先頭を走っていた。


それが今では、全組がほぼ横一列に並んでいる。


五組の天音たちも、すでに追いついていた。


「……あれ?」


天音が周囲を見渡した。


「もしかして、最初からやり直しみたいな感じ?」


「……そういうことになるわね」


凛が苦笑する。


「ここまで色々あったのに……」


刀也が大きく笑った。


「はははっ! 結局、最後は全員で勝負ってことか!」


「それも面白いではないか!」


舞桜も笑う。


「妾は、そういう勝負も嫌いではないぞ!」


「俺もだ!」


凌雅が声を上げた。


「全員で本気の勝負! 最高じゃねぇか!」


「ふっ……」


朔夜も笑った。


「面白くなってきたな」


「負けるつもりはないぞ」


玲司が言う。


「それはこちらも同じですわ」


香花も静かに微笑んだ。


「アタイだって負けないからね!」


牡丹が戦斧を肩に担ぐ。


その隣では、豪太が豪快に笑っていた。


「おう! いい勝負しようぜ!」


「……っ!」


牡丹は一瞬、豪太を見た。


そして、慌てて顔を背ける。


「……言われなくても!」


その反応を見て、凌雅が不思議そうに首を傾げた。


「……ん? 牡丹、お前、顔赤くねぇか?」


「うるさいっ!」


「……なんで俺が怒られるんだよ!」


「知らないわよっ!」


そんな二人を見て、刀也が腹を抱えて笑った。


「ははははっ!」


「……まったく」


凛も笑う。


そして、手にした鞭をゆっくりと解いた。


蒼空の腕から、鞭がするりと離れる。


「はい、蒼空君」


「ん?」


「もう抜け駆けしないでよね」


「えー、どうしようかなぁ」


「もう!」


凛が頬を膨らませる。


蒼空はくすくすと笑った。


「まあ、でも……」


そして、周囲の四組を見渡した。


「ここからが、本当の勝負ってことだね」


その言葉に、全員の表情が変わった。


先ほどまでの笑い声が、少しずつ収まっていく。


五つの組。


二十五人の選手。


二十五頭の霊馬。


その全てが、同じ道に集結していた。


誰もが、ゴールを目指している。


誰もが、一位を狙っている。


そして――。


誰もが、ここまでの試練を乗り越えてきた。


「……よし!」


凛が手綱を握り直した。


「一組、行くわよ!」


「おう!」


刀也が叫ぶ。


「最後は俺たちが勝つぜ!」


「負けねぇぞ!」


豪太も声を上げた。


「三組も負けぬぞ!」


舞桜が薙刀を掲げる。


「焔! 最後まで頼むのじゃ!」


焔が大きく嘶いた。


「二組!」


朔夜が仲間たちを見渡す。


「ここからが勝負だ!」


「もちろんだ!」


玲司が笑う。


「負ける気はない!」


「四組も行きますよ!」


千景が声を上げる。


「蒼空君! ちゃんと走ってくださいね!」


「はいはい〜」


蒼空が気の抜けた声で答えた。


「五組だって!」


天音が声を張り上げる。


「最後まで諦めないからね!」


五つの組が、それぞれの霊馬を並べる。


森を抜ける風が、選手たちの髪を揺らした。


それぞれの手には、クラスの誇りを背負った襷。


いよいよ、第五走最後の勝負が始まろうとしていた。


――大番狂わせの第五走。


五つの門。


五つの道。


それぞれの試練。


その先で待っていたものは、思いもよらない光景だった。


最初に選んだ道も、途中で遭遇した物怪も、乗り越えた罠も、それぞれ全く違っていた。


だが、結局――。


五つの組は、ほとんど同時に同じ場所へと辿り着いたのである。


まるで、ここまでの苦労を嘲笑うかのように。


それとも――。


ここから先こそが、本当の勝負だと告げるかのように。


「……さて」


蒼空が、ふわぁっと欠伸をした。


「そろそろ、行こうか」


「欠伸してる場合じゃないでしょう!」


絢が叫ぶ。


「はははっ!」


刀也が笑う。


「よっしゃ! 勝負だ!」


舞桜も高らかに笑った。


「ふはははっ! 望むところじゃ!」


朔夜が手綱を握り締める。


凛が前を見据える。


天音も、霊馬の首筋を優しく撫でた。


五つの組。


五人の襷持ち。


そして、二十五頭の霊馬が――。


再び、同じ道を走り出そうとしていた。


最後の直線。


勝つのは、果たしてどの組なのか。


大番狂わせの第五走は、皮肉にも全組が揃っての再スタートとなったのである。


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