第百十話 誇り高き霊馬
第五走の分岐門を抜け、四組の五人は森の中を駆け抜けていた。
先頭を走るのは、西御門蒼空。
その後ろを麻賀多葵、麻賀多楓、海隣寺千景、弥勒絢の四人が追いかけている。
四組が選んだのは、五つの道のうち最も右側の道だった。
蒼空が《蒼蛇眼》で見極めたところ、距離は二番目に短く、危険も比較的少ない道である。
実際、ここまで大きな障害もなく、順調に進んでいた。
ただし、一つだけ問題があった。
「ちょ、ちょっと! 蒼空君! 速すぎるわよ!」
絢が声を上げる。
「もう少し速度を落としてくれない!?」
「えー? そうかなぁ?」
蒼空は振り返り、のんびりと答えた。
その姿を見て、絢は思わず眉をひそめる。
(なんなのよ、あれ……!)
蒼空は相変わらず、どこか気の抜けた様子で霊馬に跨っていた。
背筋を伸ばしているわけでもない。
手綱を巧みに操っているようにも見えない。
むしろ、適当に乗っているようにしか見えなかった。
それなのに――
(なんで、あんなに速いのよ!)
自分たちは必死に手綱を捌き、霊馬を走らせている。
それでも蒼空についていくのがやっとだった。
千景も同じ疑問を抱いていた。
(あんなに適当な騎乗なのに……どうして?)
その時だった。
「ねえ、君さぁ」
蒼空が絢に声をかけた。
「な、何よ!」
「霊馬が走るのを邪魔してるよね」
「…………は?」
絢は一瞬、何を言われたのかわからなかった。
「その手綱捌き」
蒼空は絢の手元を指さした。
「君さぁ、人から無理やり走り方を決められて走らされたら、嫌じゃない?」
「えっ?」
絢は目を丸くした。
「何を言ってるの?」
千景も不思議そうに首を傾げる。
「蒼空君、どういう意味?」
「そのままの意味だけど?」
「絢は、うちのクラスでも霊馬の扱いがトップクラスなのよ!」
千景が少し強い口調で言った。
「私も葵も楓も、騎乗の成績はかなりいいの! 四人とも霊馬の扱いには自信があるわ!」
「へぇ、そうなんだ」
蒼空は感心したように頷いた。
そして、悪気のない顔で言った。
「その割には、ずいぶん遅いんだね!」
「なっ……!」
絢の頬が引きつった。
「それは、あなたの霊馬が特別なんでしょう!」
千景も思わず声を荒げた。
「そうなのかなぁ?」
蒼空は自分の霊馬を見下ろした。
「今日、初めて乗る子だから、よく知らないんだよね」
「…………え?」
四人の声が重なった。
「ちょっと待って!」
葵が驚いたように尋ねる。
「蒼空君は、表佐倉にいた頃から乗馬を習っていたの?」
「私たちは小さい頃から乗馬クラブに通っていたの」
楓も続けた。
「だから、蒼空君もそうなのかなって……」
「ううん」
蒼空は首を横に振った。
「裏佐倉に来るまで、馬にも霊馬にも乗ったことないよ」
「えええっ!?」
四人が驚愕した。
絢などは、危うく手綱を引きすぎそうになったほどだった。
「じゃ、じゃあ! なんでそんなに速く走れるのよ!」
絢が叫ぶ。
すると蒼空は、くすくすと笑った。
「違うよ」
「何が違うのよ!」
「速く走ってるのは、僕じゃないよ」
そう言って、蒼空は霊馬の首筋を優しく撫でた。
「この子だよ」
「…………」
四人は絶句した。
「そういうことじゃなくて!」
千景が声を上げる。
「あー、もう……」
蒼空は少し面倒くさそうに頭を掻いた。
「説明するの、苦手なんだけどなぁ」
そして、小さくため息をついた。
「まあ、いいや」
蒼空は再び前を向いた。
「あのね、君たちの霊馬さぁ……」
そこで少し声の調子が変わった。
「ずっと、すごくストレスを抱えて走ってるよ」
「ストレス……?」
千景と絢が顔を見合わせた。
「心の負担ってことかな?」
葵が尋ねる。
「うん。そういうこと」
蒼空は頷いた。
「君たちってさ、霊馬にずっと指示を出してるよね」
「指示?」
「そう。次はあっち、もっと速く、今度は右、少しゆっくり……って」
蒼空は手を動かしながら続けた。
「走り方まで、全部自分たちで決めようとしてるでしょ?」
「当たり前じゃないの!」
絢が即座に答えた。
「それが騎乗でしょう!」
千景も同意する。
「霊馬を正確に操ることが、騎乗技術の基本です!」
「ふーん」
蒼空は相変わらずのんびりしていた。
「僕は、そんなことしないけどね」
「……え?」
「行きたい方向だけ教えて、あとはこの子に任せてるよ」
そう言って霊馬の首をぽんぽんと叩いた。
「たまに方向を直したり、もう少し速く走ってほしいなって頼んだりするくらいかな」
「そ、それだけ!?」
楓が驚いた。
「うん」
「そんなの、霊馬が勝手に走って暴走しちゃいます!」
「えー?」
蒼空は自分の霊馬を見下ろした。
「でも、この子、暴走してないよ?」
「それは……!」
楓は言葉に詰まった。
確かにそうだった。
蒼空の霊馬は暴走するどころか、実に滑らかな走りを見せている。
曲がり道では自然に体を傾け、起伏のある地面でも無駄なく足を運ぶ。
そして何より――速い。
「それにさぁ、君たちの霊馬……」
蒼空はそこまで言って、口を閉じた。
「……まあ、いいや」
「ちょっと!」
楓が声を上げる。
「蒼空君、最後まで言ってください!」
「そうよ!」
絢も続いた。
「言いかけてやめるなんて、気になるじゃない!」
蒼空は困ったように笑った。
「いやぁ、言わないほうがいいかなって」
「どういう意味よ!」
「絶対に何か思ってるでしょ!」
千景まで語気を強めた。
四人は、少し苛立っていた。
自分たちは幼い頃から騎乗を学び、優秀な成績を収めてきた。
霊馬の扱いには絶対の自信がある。
それなのに、いつもやる気のない蒼空に全く追いつけない。
そのうえ、自分たちの騎乗を否定されているようで、面白くなかったのだ。
「本当に言っていいの?」
蒼空が確認する。
「いいから、早く言いなさいよ!」
四人が声を揃えた。
「じゃあ、言うけど……」
蒼空は少し考えてから尋ねた。
「君たちさ、最初に紫苑さんから何て言われたの?」
「……え?」
「霊馬の授業でさ」
蒼空は続けた。
「僕はその頃、まだ学園に来てなかったから授業は受けてないけど、西御門家では教えてもらったよ」
そして、静かに言った。
「霊馬は誇り高き生き物。だから、敬意を持って接しなさいって」
「…………!」
四人の表情が変わった。
それは、騎乗の授業が始まった時。
西御門紫苑から最初に教えられた言葉だった。
『霊馬は、ただの乗り物ではありません』
『彼らにも意思があり、感情があり、誇りがあります』
『決して自分の道具だと思ってはいけません。敬意を持って接しなさい』
確かに、そう教えられた。
だが、その後は騎乗技術の修練に夢中になった。
いかに速く走らせるか。
いかに正確に曲がらせるか。
いかに自分の指示に従わせるか。
そればかりを考えてきた。
「君たちって、自分たちの騎乗が上手いと思ってるよね」
蒼空が言った。
誰も答えなかった。
「それってさ、自分の思い通りに霊馬を動かせるからでしょ?」
「…………」
「ちゃんと指示を聞いてくれるから、信頼関係ができてるって思ってるんじゃない?」
蒼空は四頭の霊馬へ目を向けた。
「でもさ……」
その声には、いつもの気怠さがなかった。
「その四頭、すごくつまらなそうだよ」
「…………!」
「辛そうで、悲しそうで……」
蒼空は少し眉を下げた。
「霊馬って、走るのが大好きなんだよ」
前を走る自分の霊馬を優しく撫でる。
「この子なんて、さっきからすごく楽しそうだもん」
そして四人を見た。
「でも、君たちの霊馬は違う」
「……違う?」
千景が小さく尋ねた。
「うん。せっかく走れるのに、ずっとあれこれ指図されてる」
蒼空は続けた。
「もっと速く、もっと遅く、右、左って。自分で走りやすい道を選ぼうとしても、すぐに手綱で直されちゃう」
「…………」
「君たちは上手に動かしてるつもりかもしれないけど、霊馬からしたら、ずっと走り方を邪魔されてるんだよ」
蒼空は少し寂しそうに笑った。
「それって、つまらないと思わない?」
その言葉に、四人は何も返せなかった。
胸の奥が、ちくりと痛んだ。
改めて、自分たちの霊馬を見る。
荒くなった息。
強張った首筋。
絶えず手綱から伝わってくる緊張。
確かに、霊馬たちは懸命に走っている。
だが、どこか苦しそうだった。
それに比べて――
蒼空の霊馬はどうだろう。
耳を軽やかに動かし、力強く地面を蹴っている。
呼吸は乱れていない。
足取りには余裕があり、何よりも生き生きとしていた。
まるで、走ることそのものを楽しんでいるかのようだった。
(……私たち)
葵は唇を噛んだ。
(何をしていたんだろう……)
自分たちは、霊馬との絆を築いていると思っていた。
指示に従ってくれることが、その証だと信じていた。
だが、それは本当に信頼だったのだろうか。
ただ、自分たちの思い通りに動かしていただけではないのか。
「……恥ずかしい」
楓が小さく呟いた。
千景も俯いた。
幼い頃から乗馬を学び、騎乗には自信があった。
だからこそ、蒼空の姿を見て、いい加減だと決めつけていた。
いつもやる気がなく、授業でもどこか眠そうにしている少年。
そんな蒼空を、心のどこかで見下していたのかもしれない。
しかし――
基本を忘れていたのは、自分たちだった。
『霊馬は誇り高き生き物。敬意を持って接すること』
一番大切な教えを忘れ、いつの間にか霊馬を自分たちの技術を披露するための道具のように扱っていた。
そして、その間違いを指摘したのは、誰よりもやる気がなさそうに見える少年だった。
「……ねえ、蒼空君」
千景が口を開いた。
「んー?」
「私たちにも、できるのかな?」
「何が?」
絢も続ける。
「蒼空君みたいに……霊馬を走らせること」
蒼空はきょとんとした。
そして、あっさりと言った。
「えっ? 誰にでもできるよ!」
「……え?」
「だって、走るのは霊馬だもん」
蒼空は笑った。
「君たちは、この子たちが走りやすいように乗ってあげればいいだけだよ」
「走りやすいように……」
「そう。霊馬の走りを邪魔しないようにね」
葵がおずおずと尋ねた。
「蒼空君は、ずっとそうしていたの?」
「うん」
「最初から?」
楓も聞いた。
「そうだよ」
蒼空は不思議そうに首を傾げた。
「それが騎乗でしょ?」
四人は、再び言葉を失った。
蒼空は何も考えずに乗っているわけではなかった。
むしろ、誰よりも霊馬のことを考えていた。
霊馬がどのように足を運び、どこを走りたがり、どんな姿勢なら気持ちよく進めるのか。
それを感じ取りながら、必要な時だけ手を貸していたのだ。
四人には、彼がただ怠けているようにしか見えていなかった。
だが実際は違った。
蒼空は、最初から最後まで霊馬の意思を尊重していたのだった。
「……あっ!」
その時、千景が何かに気づいた。
「ねえ、蒼空君!」
「なにー?」
「さっき、その霊馬に乗るのは今日が初めてって言ったわよね?」
「うん」
「もしかして……その子、学園の霊馬なの?」
「そうだよ」
蒼空はあっさりと答えた。
「牧人さんがお世話してる子だよ」
「…………」
「…………」
「…………」
「…………」
四人は顔を見合わせた。
佐倉陰陽学園には、騎乗の授業や修練に使われる霊馬が数多くいる。
その世話を担当しているのが、木之子牧人だった。
牧人は霊馬の世話に非常に熱心で、一頭一頭の性格までよく把握していた。
しかし、学園で飼育されている霊馬は、特別な血統や能力を持ったものばかりではない。
むしろ、基本的には扱いやすく、癖の少ない、ごく平凡な霊馬が多かった。
四人が乗る霊馬は、それぞれが幼い頃から慣れ親しんできた優秀な霊馬である。
それに対して、蒼空の霊馬は――
学園の授業で使われている、普通の霊馬だった。
「ちょ、ちょっと待ってよ!」
絢が叫んだ。
「なんで桜駆けに、学園の霊馬で参加してるのよ!」
「えー? だってさぁ」
蒼空は困ったように笑った。
「僕、自分で霊馬の世話なんてできないよ」
「……は?」
「毎日餌をあげたり、体を洗ったり、厩舎を掃除したり……」
蒼空は指を折りながら数えた。
そして、にっこり笑った。
「僕、サボり魔なんだから!」
「…………」
「…………」
「…………」
「…………」
四人は呆然とした。
「……威張って言うことじゃないでしょ!」
絢が叫んだ。
「普通、そこは恥ずかしがるところよ!」
千景も突っ込む。
「えー? そうかなぁ?」
「そうよ!」
「まあ、牧人さんには感謝してるよ。だから、この子にも無理はさせたくないしね」
蒼空はそう言って霊馬を撫でた。
その霊馬は嬉しそうに鼻を鳴らした。
その様子を見て、葵が小さく吹き出した。
「ふふっ……」
楓も堪えきれずに笑った。
「もう……蒼空君って、本当に変わってるね」
「そう?」
「そうよ!」
絢が呆れたように言う。
だが、その表情には、もう苛立ちはなかった。
千景もくすくすと笑い始めた。
やがて、五人の間に明るい笑い声が広がった。
それまで張り詰めていた空気が、嘘のように和らいでいた。
「……ねえ、蒼空君」
千景が改めて尋ねた。
「私たちにも、その乗り方を教えてくれない?」
「えー、面倒くさいなぁ」
「そこを何とか!」
絢が頭を下げる。
葵と楓も頷いた。
「私も教えてほしいな」
「お願いします、蒼空君」
蒼空は四人を見渡した。
そして、仕方なさそうに笑った。
「しょうがないなぁ」
「やった!」
「でも、別に難しいことじゃないよ」
蒼空は手綱を軽く持ち直した。
「まずさ、手綱で無理やり動かそうとするのをやめてみて」
「手綱を……?」
「うん。ただし、放り出すわけじゃないよ。必要な時に伝えられるように、ちゃんと持ってて」
四人は言われた通り、手綱を握る力を少し緩めた。
「それから、脚で挟みつけすぎないこと」
蒼空が続ける。
「霊馬が足を伸ばそうとしてるのに、君たちが体を固くしてたら邪魔になるでしょ?」
「なるほど……」
葵が頷く。
「あと、霊馬の体の動きに合わせて、自分の体を動かすんだよ。自分の姿勢に無理やり合わせさせるんじゃなくてね」
「霊馬に合わせる……」
楓が繰り返した。
「そうそう」
蒼空は微笑んだ。
「ほら、今まで君たちは、自分がどう乗るかばっかり考えてたでしょ?」
「……うん」
「でも、逆なんだよ」
蒼空は霊馬の首筋を撫でた。
「この子たちがどう走りたいかを考えるの」
「…………!」
「僕たちは、そのお手伝いをしてあげればいいんだよ」
千景は大きく息を吐いた。
そして、自分の霊馬へ視線を落とす。
「……ごめんね」
優しく首筋を撫でる。
「今まで、私の言うことばかり聞かせていたわね」
霊馬が小さく鼻を鳴らした。
「……私も」
絢も手綱を緩めた。
「ごめんね。ずっと窮屈だったよね」
葵と楓も、それぞれ霊馬に語りかける。
「今度は、あなたの走りたいように走っていいよ」
「私たちを、連れていってくれる?」
四頭の霊馬が、耳をぴくりと動かした。
そして――
「……あれ?」
最初に変化を感じたのは、葵だった。
霊馬の首が自然に伸びる。
それまで手綱から伝わってきた硬さが、ふっと消えた。
「なんだか……」
葵は驚いたように呟いた。
「走り方が変わった……?」
「そうそう!」
蒼空が嬉しそうに頷いた。
「そのまま、その子の動きに合わせてあげて!」
次の瞬間。
タッ、タッ、タッ、タッ――!
霊馬の足音が変わった。
それまで重く響いていた蹄の音が、軽やかな連続音へと変わる。
「えっ!?」
千景が驚いた。
「な、何これ……!」
霊馬の背中から伝わる揺れが、先ほどまでとはまるで違っていた。
無理に速度を上げさせているわけではない。
むしろ、自分は何もしていない。
それなのに――
「速い!」
絢が叫んだ。
「さっきより、ずっと速い!」
四頭の霊馬が、一斉に加速を始めた。
地面を蹴る力が強くなり、風が頬を打つ。
木々が次々と後ろへ流れていく。
「すごい……!」
楓が目を輝かせた。
「全然、無理をしている感じがしない!」
「本当だ……!」
葵も嬉しそうに声を上げた。
「こんなに速く走ってるのに、さっきよりずっと乗りやすい!」
四人は霊馬の動きに意識を集中させた。
元々、騎乗技術に優れた少女たちである。
一度理屈を理解してしまえば、身体が自然と動いた。
無理に抑え込まず、霊馬の動きに身を預ける。
必要な時にだけ、軽く意思を伝える。
すると、霊馬たちはまるで待っていたかのように、それぞれの走りを見せ始めた。
「……あっ!」
千景は気づいた。
自分の霊馬が、嬉しそうに走っている。
耳を前に向け、首を伸ばし、軽やかに大地を蹴っていた。
その姿は、つい先ほどまでとは別の霊馬のようだった。
「……こんなに走るのが好きだったんだね」
千景が優しく微笑む。
「今まで気づいてあげられなくて、ごめんね」
絢も霊馬の首筋を撫でた。
「私も……ごめん」
そして、嬉しそうに笑った。
「でも、すごいよ! あなた、こんなに速く走れたんだね!」
霊馬が大きく鼻を鳴らす。
まるで、その言葉を喜んでいるかのようだった。
「ふふっ!」
葵が笑った。
「なんだか、すごく楽しそう!」
「うん!」
楓も満面の笑みを浮かべた。
「私まで楽しくなってきちゃった!」
四人の霊馬は、さらに速度を上げた。
それは、単に速くなったというだけではなかった。
霊馬たちが自分の意思で走り、騎乗者たちがその走りを信じて身を預けている。
今までとは全く違う、一体感が生まれていた。
「そうそう! いい感じだね!」
蒼空が後ろから声をかける。
「君たち、やっぱり騎乗が上手いんだね!」
その言葉に、四人は顔を見合わせた。
つい先ほどまで、あれほど腹立たしく感じていた蒼空の言葉。
だが、今は素直に嬉しかった。
「蒼空君!」
千景が振り返った。
「ありがとう!」
「本当にありがとう!」
絢も笑った。
「おかげで、大切なことを思い出せたわ!」
葵と楓も嬉しそうに頷いた。
「蒼空君のおかげだね!」
「うん! ありがとう!」
「どういたしましてー!」
蒼空は気の抜けた声で答えた。
その時だった。
四頭の霊馬が、さらに勢いよく駆け出した。
「わっ!」
「きゃっ!」
驚いたのは一瞬だった。
四人はすぐに体勢を整え、霊馬の動きに合わせる。
「すごい! もっと速くなった!」
「こんなに気持ちよく走れるなんて!」
四人は歓声を上げた。
そして――
そのまま蒼空を追い抜いてしまった。
「…………あれ?」
蒼空が目を丸くした。
「ちょ、ちょっと!」
四人は振り返る。
「なによ、蒼空君!」
絢が笑った。
「置いていっちゃうわよ!」
「ほらほら、早く!」
千景も楽しそうに声をかける。
「蒼空君も来て!」
葵と楓も笑っていた。
「蒼空君、遅いよー!」
「早く追いついて!」
蒼空はぽかんと四人を見送った。
そして、思わず吹き出した。
「あははっ!」
その笑顔は、いつもの眠たげな表情とは違っていた。
「ちょっと、ちょっと!」
蒼空は霊馬の首筋を軽く撫でる。
「襷持ちの僕を置いていかないでよ!」
すると霊馬は、待ってましたと言わんばかりに力強く地面を蹴った。
「おっ!」
ぐん、と体が前へ押し出される。
「君も、まだまだ走りたいんだね!」
蒼空は嬉しそうに笑った。
「じゃあ、お願いね!」
霊馬が大きく嘶いた。
そして、四人を追って駆け出した。
「あはははっ!」
森の中に、五人の笑い声が響き渡る。
先頭では、千景と絢が競うように走っていた。
その後ろを葵と楓が追い、さらに蒼空が続く。
だが、誰も無理に霊馬を急かしてはいなかった。
霊馬たちは自分の意思で走り、少女たちはその走りを楽しんでいる。
そこには、先ほどまでの緊張した空気など微塵もなかった。
四組が選んだ道には、強大な物怪もいなかった。
恐ろしい罠もなければ、特別な仕掛けもない。
ただ、森の中を抜けていくだけの、何の変哲もない道だった。
ほかの組が物怪や罠に苦しめられていることを考えれば、四組は随分と恵まれた道を選んだと言えるだろう。
しかし――
四組の五人にとって、この道は決して何もない道ではなかった。
幼い頃から騎乗を学び、その腕前に自信を持っていた四人の少女たち。
彼女たちは、この道で自分たちの未熟さを知った。
そして、霊馬に対する本当の敬意と、信頼することの意味を学んだ。
それを教えたのは、学園でも有名なサボり魔。
西御門蒼空だった。
彼には特別な騎乗技術があるわけでも、長年の経験があるわけでもない。
ただ、霊馬という生き物を尊重し、その意思を信じていた。
自分の思い通りに動かすことよりも、相手が気持ちよく走れることを大切にしていたのだ。
その当たり前のようで難しいことを、四人は今日、初めて理解した。
そして何より――
「蒼空君! 早く早く!」
「置いていくわよー!」
「だから、襷持ちを置いていかないでってばー!」
五人の楽しそうな声が、森に響く。
霊馬たちもまた、嬉しそうに大地を駆けていた。
速さを競うためだけではなく。
勝つためだけでもなく。
ただ、共に走ることが楽しい。
四人は、そんな当たり前の喜びを思い出していた。
桜駆け第五走。
五つの門の中で、四組が選んだのは、何の変哲もない平凡な道だった。
しかし、この道で得たものは、四人にとって、これから先の騎乗を大きく変えるほどのものだった。
そして、もう一つ。
四人は今日、知ったのである。
いつも眠そうで、何事にもやる気を見せないこの少年が、決してただの怠け者ではないということを。
もっとも――
「はぁ……これだけ走ったら、今日はもう何もしなくていいよねぇ」
先ほどまでの楽しそうな笑顔から一転。
蒼空は、またいつもの気怠そうな表情に戻っていた。
「まだ桜駆けの途中でしょう!」
千景が叫ぶ。
「そうよ! 最後まで頑張りなさいよ!」
絢も続けた。
「えー? やだなぁ」
「「「「蒼空君っ!」」」」
四人の声が綺麗に重なった。
そして、五人は再び笑い合った。
四組の霊馬たちは、そんな騎乗者たちを乗せて、楽しそうに森の奥へと駆け抜けていった。
――何の変哲もない道。
しかし、四組にとっては、どんな宝物にも代え難い、大きな収穫のある道となったのだった。




