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第百十二話 霊馬の心、自由なる疾走


 桜駆け、第五走。


五つの分岐門を抜け、異なる試練を乗り越えてきた五つの組が、ついに同じ道へと合流した。


一位から五位までの差は、ほとんどない。


どの組が先頭に立ってもおかしくない状況だった。


しかし、各組の選手たちには、それぞれ事情があった。


「……ねえ、舞桜」


三組の上勝田詩織が、先頭を走る岩富舞桜に声をかけた。


「ん? なんじゃ?」


「さっきまで使っていた、焔と舞桜の術はもう使えないの?」


詩織が尋ねたのは、舞桜と愛馬《焔》が霊力を合わせることで発揮する術のことだった。


紅蓮毛の焔は、ただでさえ優れた霊馬である。


そこに舞桜自身の霊力を重ねれば、その走力はさらに増す。


本来ならば、この最終区間で大きな武器になるはずだった。


だが――。


「……すまぬな」


舞桜は珍しく申し訳なさそうに笑った。


「先ほどの《黒蛇大蛇薙》で、だいぶ霊力を使ってしもうた」


「やっぱり……」


「今、焔との術を使ったところで、すぐに解けてしまうじゃろうな」


舞桜は焔の首筋を優しく撫でた。


「面目ないのじゃ」


「何言ってるのよ!」


詩織は首を横に振った。


「誰も怪我しなかったんだから、それで十分よ」


「……そうか」


「それに、少しは霊力が残っているんでしょう?」


「うむ。ほんの少しじゃがな」


「だったら、最後の切り札として取っておきましょう」


詩織は前方を見据えた。


「今は焔の走力だけで十分。無理に術を使う必要はないわ」


「ふむ……」


舞桜は小さく頷いた。


「確かに、その通りじゃな」


そして、いつもの不敵な笑みを浮かべた。


「よし! 焔よ! しばらくはお主の脚に頼らせてもらうぞ!」


ヒヒィィィン!


焔が力強く嘶いた。


「ふはははっ! よい返事じゃ!」


紅蓮毛の名馬は、その四肢に力を込め、大地を蹴った。


◇


一方、その後方。


一組の五人も、再び先頭を目指して走り始めていた。


「……ねえ、刀也」


麻賀多凛が、隣を走る立身刀也に声をかけた。


「なんだ?」


「本当に大丈夫なの?」


凛の視線は、刀也の顔へ向けられていた。


先ほど、舞桜の《黒蛇大蛇薙》を防ぐために、刀也は立身裏一刀流《覇月》を放った。


ただでさえ、ここまでの試練で相当な霊力を消耗している。


そのうえ、あれほどの大技を使ったのだ。


無理をしていないはずがなかった。


「問題ねぇよ!」


刀也は笑った。


「まだまだいけるぜ!」


「本当かしら……」


凛は疑わしそうに目を細めた。


「無理をしないでくださいね、刀也さん」


木之子小夜も心配そうに言った。


「顔色があまりよくありませんよ」


「大丈夫だって!」


刀也は胸を張った。


しかし、その額には薄く汗が滲んでいる。


「……刀也」


岩名豪太が声をかけた。


「お前、少し休んでろ」


「……あ?」


「ここからは俺たちが頑張るからよ!」


豪太は大きな胸を叩いた。


「お前は霊力を回復させることだけ考えろ!」


「でもよ……」


「心配すんな!」


豪太は豪快に笑った。


「俺がみんなを守るからよ!」


その言葉に、刀也は一瞬目を丸くした。


そして、にやりと笑った。


「……頼むぜ、豪太!」


「おう! 任せろ!」


豪太の大きな笑い声が、森に響いた。


その様子を見て、麻賀多紅葉が微笑む。


「では、わたくしたちも頑張らなければなりませんね」


紅葉は凛に目を向けた。


「凛さん。ここからが本番ですわ」


「ええ!」


凛も力強く頷いた。


そして、仲間たちを見渡した。


「みんな!」


四人が凛を見る。


「絶対に勝つわよ!」


「おう!」


「もちろんですわ!」


「はい!」


「任せろ!」


五人の声が重なった。


紅葉は続けて、小夜へ顔を向けた。


「小夜さん」


「はい?」


「刀也さんの霊力が回復するまでは、わたくしたちが頑張りましょう」


「……はい!」


小夜は微笑んだ。


「わたしたちにできることを、精一杯やりましょう!」


二人は顔を見合わせ、頷き合った。


一組の五人は、再び速度を上げた。


◇


先頭を走っていたのは、やはり三組だった。


紅蓮毛《焔》。


その特殊な力と優れた走力は、霊力を用いた術で強化せずとも十分に驚異的だった。


焔の四肢が地面を蹴るたびに、その巨体が力強く前へ押し出される。


舞桜は、その動きに合わせて軽やかに体を揺らしていた。


「ふはははっ! よいぞ、焔!」


焔が嬉しそうに嘶く。


三組は徐々に他の組を引き離し始めていた。


ところが――。


「……ん?」


舞桜が、横に視線を向けた。


そこには、五頭の霊馬が並ぶように走っていた。


四組である。


「おやおや」


先頭の西御門蒼空が、のんびりと笑った。


「やっぱり、その子は速いねぇ」


「……お主!」


舞桜が目を丸くした。


「なかなかやるのう!」


「そうかなぁ?」


蒼空は気の抜けた声で答えた。


「お主、随分と騎乗が上手いではないか!」


「いやぁ、そんなことないよ」


「謙遜するでない!」


舞桜は笑った。


「この焔についてくるとは、たいしたものじゃ!」


「まあねぇ」


蒼空は少し考えてから、にやりと笑った。


「こっちも特別ボーナスがかかってるからね!」


「……ぼーなす?」


舞桜が首を傾げた。


「なんじゃ、それは?」


「いいの、いいの!」


蒼空はひらひらと手を振った。


「こっちの話だから!」


そして、小さな声で呟き始めた。


「サボりたい放題……サボりたい放題……」


その顔には、実に幸せそうな笑みが浮かんでいた。


後ろを走る麻賀多葵と麻賀多楓は、その様子を見て顔を見合わせた。


「……ねえ、楓」


「……うん」


「蒼空君、なんだか勝手に話を大きくしてるよね」


「そうだね……」


楓は苦笑した。


「紫苑先生との約束、本当にそんな内容だったのかな?」


「……さあ?」


二人は顔を見合わせた。


「大丈夫かなぁ……」


その会話を聞いていた弥勒絢が、肩をすくめた。


「いいんじゃない?」


「えっ?」


「だって、蒼空君がこんなにやる気になってるんだもの!」


絢は楽しそうに笑った。


「今は余計なことを言わないほうがいいわよ!」


すると海隣寺千景も頷いた。


「そうですね」


そして、少し困ったように笑う。


「まあ……その件は、あとで考えましょう」


「そうだね!」


葵と楓も笑った。


その間にも、四組の霊馬たちは軽やかに走り続けていた。


三組の紅蓮毛《焔》に、決して大きく引き離されることなく。


五頭がまるで一つの群れのように、息の合った走りを見せていた。


◇


「……あの」


その光景を見ていた小夜が、不思議そうに声を上げた。


「皆さん、少しいいですか?」


「どうしたの、小夜?」


凛が尋ねた。


小夜は前方を指さした。


「どうして、四組の皆さんは、あんなに速いんでしょう?」


「……え?」


紅葉が首を傾げた。


「確かに……」


そして、前方を走る四組を見つめる。


「舞桜さんの紅蓮毛ならともかく、四組の霊馬がそれについていけるというのは、不思議ですわね」


「そういやそうだな!」


豪太も声を上げた。


「蒼空の霊馬も特別なのか?」


「……いえ」


小夜は少し考えてから答えた。


「たぶん、あの霊馬は……牧人兄さんがお世話している子だと思います」


「……牧人?」


刀也が顔を向けた。


「お前の従兄弟か?」


「はい」


小夜は頷いた。


「ほら、あの霊馬の鬣を見てください」


四人が目を凝らす。


蒼空の霊馬の鬣には、緑と白の紐が丁寧に編み込まれていた。


「あの編み方と色は、木之子家の印なんです」


「……へぇ!」


刀也が感心したように声を上げる。


「じゃあ、あれは学校の霊馬ってことか?」


「おそらく」


小夜は頷いた。


「学園の霊馬は、牧人兄さんが世話をしていますから」


「……ちょっと待てよ」


刀也が目を丸くした。


「ってことは、蒼空の奴……」


前方を走る蒼空を見る。


「学校の霊馬で桜駆けに出てるってことかよ!」


「そういうことになりますね……」


「……意味がわかりませんわ」


紅葉が呆れたように呟いた。


「わたくしたちは、少しでも優秀な霊馬を選ぼうと考えてきたというのに……」


「ふふっ」


凛が笑った。


「蒼空君を理解するのは、とても難しいと思うわ」


「確かにな!」


刀也も笑った。


「でもよ……」


刀也は四組の霊馬たちを見つめた。


「なんか、あいつらの霊馬……」


少し不思議そうに首を傾げる。


「すっげぇ楽しそうに走ってねぇか?」


「……え?」


小夜も四組の霊馬へ目を向けた。


確かにそうだった。


蒼空の霊馬はもちろん、葵や楓、千景、絢の霊馬たちも、実に生き生きとしている。


耳を前へ向け、首を伸ばし、大地を力強く蹴っていた。


その走りは、まるで風そのものになったかのように軽やかだった。


「……本当ですわね」


紅葉が呟いた。


「まるで、走ることを楽しんでいるような……」


その言葉を聞き、小夜は何かを考え始めた。


「……小夜さん」


紅葉が声をかけた。


「あなたの《森羅聴》なら、霊馬の声も聞こえるのではありませんか?」


「……え?」


小夜は目を瞬かせた。


そして、少し考えた。


「そうですね……」


「聞けますの?」


「人間の言葉のようには聞こえないと思いますけど……」


小夜は微笑んだ。


「感情くらいなら、わかるかもしれません」


「おお!」


豪太が声を上げる。


「そりゃすげぇな!」


「やってみますね」


小夜は静かに目を閉じた。


そして、意識を集中させる。


木之子家に伝わる特殊な感覚。


《森羅聴》。


それは、自然の中に満ちる微かな音や気配、そして生き物の意思を感じ取る力だった。


風の音。


木々の葉擦れ。


大地を蹴る蹄の響き。


その無数の音の中から、小夜は四組の霊馬たちの気配を探った。


やがて――。


(……あっ)


小夜の意識に、何かが流れ込んできた。


それは言葉ではない。


しかし、確かな感情だった。


喜び。


高揚。


自由。


そして、走ることへの純粋な楽しさ。


(……すごい)


小夜は思わず微笑んだ。


その感情は、まるで声となって小夜の心に響いてくるようだった。


――こんなに自由に走れるなんて!


――なんて楽しいんだ!


――もっと走りたい!


――もっと速く!


――風が気持ちいい!


それは、一頭だけではなかった。


四組の五頭すべてから、同じような感情が伝わってくる。


(……こんなに)


小夜は驚いた。


(こんなに楽しそうに走っているなんて……)


小夜はゆっくりと目を開けた。


そして、蒼空の姿を見つめた。


「……あれ?」


何かがおかしい。


蒼空の手綱捌き。


よく見ると、ほとんど何もしていない。


ただ、霊馬の動きに体を合わせている。


方向が少しずれそうになれば、軽く手綱で知らせる。


速度を変えたい時も、わずかに合図を送るだけ。


それ以外は――。


(……何もしていない?)


いや。


違う。


(……もしかして)


小夜は、さらに目を凝らした。


蒼空は何もしていないのではない。


霊馬が走るのを、邪魔していないのだ。


霊馬が自分で走りやすい場所を選び、自分で歩幅を調整する。


蒼空はその動きに合わせ、必要な時にだけ意思を伝えていた。


(……霊馬に任せてる?)


小夜は考え込んだ。


(でも、そんなことをしたら……)


普通なら、霊馬が勝手に走り始めてしまう。


騎乗者の指示に従わず、暴走することだってある。


だからこそ、騎乗の授業では手綱捌きを徹底して教えられてきた。


だが――。


(……ううん)


小夜は首を横に振った。


(違うのかもしれない)


蒼空の霊馬は、暴走などしていない。


むしろ、騎乗者の意思を正確に理解し、気持ちよく走っている。


そこには、確かな信頼があった。


(……霊馬を敬い、その意思を尊重していれば……)


小夜の脳裏に、ある言葉が蘇った。


『霊馬は誇り高き生き物です。敬意を持って接しなさい』


入学して間もない頃。


勝田正臣先生から教えられた言葉だった。


(……そういうことだったんですね)


小夜は、ようやく気づいた。


騎乗者の命令に従わせることが、必ずしも絆ではない。


相手を信じて任せることもまた、信頼なのだ。


そして何より。


霊馬は、ただの乗り物ではない。


意思を持ち、感情を持ち、走ることを楽しむ生き物なのだ。


◇


「……皆さん!」


小夜が声を上げた。


「少し、聞いていただけますか?」


「どうした?」


刀也が振り返る。


「四組の霊馬が速い理由、わかったかもしれません!」


「本当!?」


凛が驚いた。


「はい!」


小夜は、先ほど《森羅聴》で感じ取ったことを説明し始めた。


四組の霊馬たちは、みんな走ることを楽しんでいること。


蒼空がほとんど手綱を使わず、霊馬自身に走りを任せていること。


そして、霊馬の意思を尊重することで、本来の走力を引き出しているのではないかということ。


その話を聞いた紅葉が、目を丸くした。


「……そんなこと、ありえますの?」


「わたしも、最初はそう思いました」


小夜が答える。


「でも、蒼空さんの霊馬は、本当に楽しそうなんです」


「……うーん」


豪太が首を傾げた。


「つまり、霊馬の好きなように走らせるってことか?」


「そうですね。ただ、完全に任せきりにするのではなく、必要な時だけ合図を送っているみたいです」


「……へぇ」


刀也は蒼空を見つめた。


「そういやよ……」


何かを思い出したように言った。


「最初の騎乗の授業で、正臣先生が言ってたよな」


「……何を?」


凛が尋ねる。


「霊馬には敬意を持って接しろって!」


「……あっ」


凛も思い出した。


「確かに……」


紅葉も頷いた。


「おっしゃっていましたわね」


刀也は続けた。


「俺、ずっと自分の言うことを聞かせるのが、騎乗が上手いってことだと思ってたぜ」


「わたくしもですわ……」


紅葉は自分の霊馬を見下ろした。


「霊馬が指示通りに動いてくれれば、それだけ信頼関係ができているのだと……」


「でも、違うんですね」


小夜が静かに言った。


「言うことを聞いてくれるから、絆があるというわけではないんです」


「……そうね」


凛は小さく頷いた。


「なんだか私たち……」


そして、自分の愛馬の首筋を撫でた。


「どこかで、霊馬をただの乗り物みたいに扱っていたのかもしれないわね」


「……うん」


豪太も頷いた。


「俺も、もっと速く走れってばっかり言ってた気がするぜ」


「わたくしもですわ」


紅葉は少し恥ずかしそうに微笑んだ。


「正臣先生の教えを、すっかり忘れていました」


五人は、しばらく黙っていた。


そして――。


「……よし!」


刀也が声を上げた。


「いっちょ、やってみるか!」


「……え?」


凛が驚く。


「本気なの?」


「おう!」


刀也は笑った。


「何事も、やってみなきゃわかんねぇだろ!」


「でも、刀也さん」


小夜が心配そうに言った。


「今は霊力も……」


「だからこそだ!」


刀也はにやりと笑う。


「こいつに任せてみるのも、悪くねぇだろ!」


そして、自分の霊馬の首筋を優しく撫でた。


「……なあ、相棒」


霊馬が耳を動かした。


「いつも俺の無茶に付き合ってくれて、ありがとな」


その声は、いつもの豪快な刀也とは少し違っていた。


「俺さ、お前がどんな走りをしたいのか、考えたことなかったわ」


霊馬が小さく鼻を鳴らす。


「悪かったな」


刀也は笑った。


「だからよ……」


手綱を握る手の力を、ゆっくりと緩めた。


「今度は、お前の好きなように走ってみろよ」


そして、霊馬の首筋をぽんぽんと叩いた。


「頼むぜ、相棒!」


その瞬間だった。


ヒヒィィィン!


霊馬が大きく嘶いた。


「……おっ?」


刀也が目を丸くする。


霊馬の背中から伝わる感覚が、突然変わった。


それまで少し硬く感じていた動きが、ふっと柔らかくなったのである。


そして――。


タッ、タッ、タッ、タッ!


蹄の音が変わった。


「……おおっ!?」


刀也は思わず声を上げた。


霊馬が、自ら速度を上げ始めたのだ。


しかし、暴走しているわけではない。


足運びは滑らかで、無駄がない。


首を伸ばし、背中を柔らかく使いながら、気持ちよさそうに走っている。


「……すげぇ!」


刀也が笑った。


「なんだよ、お前!」


まるで、今まで何かに縛られていたものが外れたかのようだった。


「こんなに走れたのかよ!」


霊馬が嬉しそうに嘶く。


「ははははっ!」


刀也は大声で笑った。


「いいぞ! 相棒!」


ぐんっ!


さらに速度が上がる。


「うおおおっ!」


刀也は霊馬の動きに合わせて体を前へ倒した。


「すげぇ! すげぇぞ!」


その姿を見ていた凛たちは、呆然としていた。


「……ちょっと」


凛が目を丸くする。


「本当に速くなってない?」


「……ええ」


紅葉も驚いていた。


「先ほどまでより、明らかに……」


「すっげぇな!」


豪太が叫ぶ。


「刀也の霊馬、めちゃくちゃ楽しそうじゃねぇか!」


「……はい!」


小夜は満面の笑みを浮かべた。


《森羅聴》を通して、刀也の霊馬からも、強い喜びが伝わってきたのだ。


――走れる!


――こんなに自由に!


――もっと走りたい!


その感情は、四組の霊馬たちと同じものだった。


「……皆さん!」


小夜が声を上げた。


「わたしたちも、やってみましょう!」


「……そうね!」


凛が頷いた。


そして、自分の霊馬の首筋を撫でた。


「……ねえ」


霊馬が耳を動かす。


「今まで、私の指示ばかり聞かせていたわね」


凛は少し申し訳なさそうに笑った。


「ごめんね」


そして、優しく語りかけた。


「今度は、あなたの走りたいように走っていいわよ」


ゆっくりと、手綱を緩める。


「……お願いね」


霊馬が小さく鼻を鳴らした。


次の瞬間。


ぐんっ!


「……きゃっ!」


凛の体が前へ押し出された。


「……えっ!?」


霊馬が、急に速度を上げたのである。


だが、その走りは不思議なほど滑らかだった。


「……すごい!」


凛が驚く。


「こんなに速いのに……!」


背中から伝わる揺れが、先ほどまでとは違う。


無理に走らせている時の、どこか窮屈な感覚がない。


まるで、霊馬自身が最も走りやすい姿勢を教えてくれているようだった。


「……ふふっ!」


凛は笑った。


「あなた、本当はこんなに速かったのね!」


その隣では、紅葉も愛馬に語りかけていた。


「……今まで、ごめんなさい」


優しく鬣を撫でる。


「わたくし、自分の騎乗技術ばかり気にしていましたわ」


霊馬が小さく鼻を鳴らす。


「これからは、あなたの意思も大切にいたします」


紅葉は手綱を緩めた。


「さあ、一緒に走りましょう!」


その瞬間。


紅葉の霊馬も、軽やかに加速した。


「……まあ!」


紅葉が目を輝かせる。


「なんて気持ちのよい走りなのでしょう!」


その隣では、豪太も愛馬の首を豪快に撫でていた。


「よしよし!」


そして、大きな声で言った。


「お前も、好きなように走ってみろ!」


霊馬が嬉しそうに嘶いた。


「おう! いい返事だ!」


豪太は笑った。


「じゃあ、頼んだぜ!」


手綱を緩める。


すると――。


ドドドドドッ!


「うおおおおっ!」


豪太の霊馬が、力強く駆け出した。


「ははははっ!」


豪太は大声で笑った。


「お前、こんなに力強く走れるのかよ!」


その豪快な走りに、豪太自身も嬉しくなっていた。


そして、最後に小夜。


「……わたしも」


小夜は自分の霊馬の首筋を優しく撫でた。


「ごめんね」


その声は、とても穏やかだった。


「あなたの気持ち、ちゃんと聞いてあげられなくて……」


霊馬が、小さく鼻を鳴らした。


小夜は微笑んだ。


「これからは、もっとあなたの声を聞くね」


そして、手綱を緩めた。


「……一緒に、走ろう!」


その瞬間。


小夜の霊馬も、嬉しそうに駆け出した。


《森羅聴》を通して、喜びの感情が伝わってくる。


――楽しい!


――もっと!


――もっと走りたい!


「……ふふっ!」


小夜は嬉しそうに笑った。


「そうなんだね……!」


その声に応えるように、霊馬がさらに速度を上げた。


◇


「……おいおい!」


先頭を走っていた刀也が、後ろを振り返った。


そこには――。


四頭の霊馬が、凄まじい勢いで迫ってきていた。


「ちょっと、刀也!」


凛が笑った。


「一人だけ先に行かないでよ!」


「そうですわ!」


紅葉も笑う。


「わたくしたちも、負けませんよ!」


「おおっ!」


豪太が叫んだ。


「みんな、すっげぇ速くなってんじゃねぇか!」


「はい!」


小夜も嬉しそうに答えた。


「みんな、とっても楽しそうです!」


五人の霊馬が、ほぼ横一列に並んだ。


その足取りは、先ほどまでとは明らかに違っていた。


重苦しさが消え、軽やかになっている。


五頭とも、自分の意思で地面を蹴り、気持ちよさそうに走っていた。


「……なあ!」


刀也が笑った。


「なんか、すっげぇ気持ちよくねぇか!」


「ええ!」


凛が頷く。


「こんなに楽しい騎乗、初めてかもしれない!」


「わたくしもですわ!」


紅葉が笑う。


「今まで、何をしていたのでしょうね!」


「はははっ!」


豪太が豪快に笑った。


「こいつら、走るのが本当に好きなんだな!」


「……はい!」


小夜は頷いた。


「すごく、すごく楽しそうです!」


五人は、顔を見合わせて笑った。


それまで、勝つことばかりを考えていた。


少しでも速く。


少しでも正確に。


少しでも相手より前へ。


そのために、霊馬を自分たちの思い通りに動かそうとしていた。


だが、今は違う。


霊馬たちは、自分の意思で走っている。


騎乗者たちは、その走りを信じて体を預けている。


そこには、今まで感じたことのない一体感があった。


「……そうか」


刀也が、小さく呟いた。


「これが、正臣先生の言ってたことか……」


『霊馬は誇り高き生き物。敬意を持って接すること』


その言葉の本当の意味を、五人はようやく理解し始めていた。


「……よし!」


凛が声を上げた。


「みんな、このまま行くわよ!」


「おう!」


刀也が答える。


「今度こそ、先頭を取るぜ!」


「任せろ!」


豪太が叫んだ。


「負けませんわ!」


紅葉も笑う。


「はい!」


小夜も力強く頷いた。


そして――。


五頭の霊馬が、一斉に加速した。


ドドドドドドッ!


「うおおおおおっ!」


刀也の歓声が、森に響く。


ぐんぐんと速度が上がっていく。


今まで以上の速さ。


それなのに、霊馬たちは苦しそうな様子を見せない。


むしろ、ますます楽しそうに走っている。


小夜の《森羅聴》には、五頭の喜びが重なるように伝わってきていた。


――楽しい!


――走りたい!


――もっと先へ!


「……ふふっ!」


小夜は思わず笑った。


(……そうですね)


前方を見つめる。


そこには、三組と四組が並ぶように走っている。


紅蓮毛《焔》を先頭にした三組。


そして、西御門蒼空を先頭に、一丸となって走る四組。


だが――。


その二つの組との距離が、少しずつ縮まり始めていた。


◇


「……ん?」


四組の蒼空が、ふと後ろを振り返った。


そして、目を丸くした。


「……へぇ」


その視線の先には、一組の五人がいた。


「おやおや……」


蒼空は楽しそうに笑った。


「気づいちゃったんだねぇ」


「……え?」


隣を走る千景が尋ねた。


「何のことですか?」


蒼空は後方を指さした。


「ほら、見てごらん」


千景たちも振り返る。


「……あっ!」


絢が驚いた。


「一組が!」


「速い!」


葵も目を見開いた。


「さっきまでより、ずっと速くなってる!」


楓も気づいた。


「……あの走り方!」


蒼空は頷いた。


「うん」


そして、嬉しそうに笑った。


「君たちと同じだね」


四組の四人は、再び一組へ目を向けた。


確かに、そうだった。


一組の五人も、必要以上に手綱を引いていない。


霊馬の動きに合わせ、気持ちよさそうに走っている。


そして何より――。


霊馬たちが、実に楽しそうだった。


「……ふふっ」


千景が微笑んだ。


「みんな、気づいたんですね」


「そうみたいだね!」


葵も笑った。


「なんだか、嬉しいね」


「うん!」


楓も頷いた。


だが、その時。


「ちょっと待って!」


絢が声を上げた。


「喜んでる場合じゃないわよ!」


「……え?」


「だって、一組が速くなったってことは……」


絢は前方を指さした。


「追い抜かれるかもしれないってことでしょ!」


「……あっ!」


四人の表情が変わった。


そんな中、蒼空だけは相変わらずのんびりしていた。


「まあ、そうだねぇ」


「そうだねぇ、じゃないわよ!」


絢が叫ぶ。


「蒼空君! もっと速く!」


「えー?」


蒼空は霊馬の首筋を撫でた。


「この子、今の速さが気持ちいいみたいだよ?」


「……もう!」


絢が呆れたように叫んだ。


「少しは勝つ気を見せなさいよ!」


「あるよぉ」


蒼空は笑った。


「特別ボーナスがあるんだからねぇ」


そして、再び小さく呟いた。


「サボりたい放題……サボりたい放題……」


「……はぁ」


千景が大きくため息をついた。


「本当に、この人は……」


だが、そんな蒼空の霊馬は、相変わらず楽しそうに大地を駆けていた。


その後ろでは、一組の五頭もまた、嬉しそうに走っている。


三組の紅蓮毛《焔》を中心に、先頭争いはさらに激しさを増していった。


◇


桜駆け第五走。


五つの道を抜け、五つの組が再び一つになった最終区間。


その中で、四組と一組は、奇しくも同じことに気づいていた。


霊馬は、ただ人間を運ぶための存在ではない。


誇りを持ち、意思を持ち、走ることを愛する生き物である。


騎乗者がその意思を尊重し、信頼して身を預ける時。


霊馬は、本来の力を存分に発揮する。


それは、特別な術でもなければ、秘伝の技でもない。


騎乗を学ぶ者が、最初に教えられるはずの、ごく当たり前のことだった。


だが、その当たり前のことを理解するのは、決して簡単ではなかった。


「ははははっ!」


刀也の笑い声が響く。


「最高だぜ、相棒!」


凛も、紅葉も、豪太も、小夜も。


みんなが笑っていた。


そして、その下を走る霊馬たちもまた、嬉しそうに駆けている。


勝つために走る。


それだけではない。


共に走ることを楽しむ。


互いを信じ、力を合わせる。


その喜びを知った一組の五人は、これまで以上の速さで先頭を追いかけていた。


「……さあ!」


凛が声を上げた。


「ここからが、本当の勝負よ!」


「おう!」


五人の声が、力強く重なった。


前を走る三組と四組。


その背中は、もう決して遠くなかった。


そして、刀也たちの霊馬は、さらに力強く大地を蹴った。


――霊馬を支配するのではなく、霊馬を信じる。


その小さな気づきが、一組の走りを大きく変え始めていた。


桜駆け第五走。


最後の勝負は、まだ始まったばかりだった。

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