石に刻まれた数
川べりの道を、三人は二日歩いた。
リシュエンヌは、ほとんど迷わなかった。分かれ道に来ると、少しだけ立ち止まって空を見上げ、それから、どちらかの道を選んだ。どうしてわかるのかと伊織が聞くと、前にも歩いたことがあるのです、と彼女は答えた。何度も、何度も、と付け加えて、少し笑った。
伊織は、あまり喋らなかった。
喋らないでいると、頭の中に、あの線が浮かんだ。北の菱形と、長い弓と、弓の下の二つの島。目を閉じても、開けていても、それはそこにあった。歩いていると、ときどき足元の土の下から、灰色の舗装がのぞいた。伊織はそのたびに、その線の内側のどのあたりを、自分は今歩いているのだろうと考えた。考えても、わかるはずがなかった。天気予報の画面には、県の境目の線までは引かれていなかった。
レーナは、伊織の半歩後ろを歩いていた。トネの村を出たばかりのころは、肩を貸していた。今はもう、貸していない。それでも、半歩より遠くへは行かなかった。
二日目の昼すぎに、その場所に着いた。
丘と丘のあいだの、広く浅い窪地だった。窪地いっぱいに、灰色の石の塊が、草に埋もれて並んでいた。目覚めた日に施設のまわりで見たのと同じような塊だった。ただ、数がずっと多かった。四角いもの、斜めに傾いたもの、半分だけ地面から突き出しているもの。そのあいだを、細い木が何本も突き抜けて伸びていた。
「ここは、誰も来ません」
リシュエンヌが言った。
「呪われているから、と言われています。わたしは、何度か眠ったことがありますけれど、呪われたことはありません」
レーナは窪地の縁で立ち止まり、首の布の上から、印のあるあたりを手で押さえた。押さえたまま、しばらく動かなかった。伊織はかまわずに、草をかき分けて斜面を下りていった。
探しているものが何なのか、伊織にもはっきりとはわからなかった。字の書いてあるものなら、何でもよかった。紙は、もう残っていないだろう。それでも、どこかに、何か。施設の名前でもいい。眠った人たちの名簿でもいい。誰かが、誰かに宛てて書いた、たった一行でもよかった。
最初に見つけたのは、草の根元に半分埋まった、小さな円い板だった。
指でつまみ上げると、緑色の錆に覆われていた。真ん中に、穴がひとつ開いていた。伊織は親指の腹で錆をこすった。錆の下から、くすんだ黄色い地金がのぞいた。稲穂のような模様が、かすかに残っていた。
五円玉だった。
正月に、母と神社へ行くと、母はいつも財布の中から五円玉を探した。ご縁がありますように、と言って、賽銭箱へ放った。五円玉がないときは、十円玉を二枚入れていた。それではご縁が遠のくんじゃないの、と伊織が言うと、母は、神様はそんなに細かくないわよ、と言った。
伊織は、五円玉を握りしめた。それから、また地面に目を落とした。
見つけようとすると、いくらでも見つかった。持ち手の取れた、陶器のカップのかけら。表面に、丸い耳の動物の顔が半分だけ残っていた。茶色く変色した、ガラスの瓶の首。錆びて形の崩れた、自転車の車輪の輪。どれも、手に取った瞬間に、それが何なのかがわかった。わかるたびに、胸のどこかが少しずつ削れていくような気がした。わからなければよかった、と伊織は思った。わからなければ、ただの石だった。呪われた石と呼んで、麦ひと握りで手放してしまえた。
レーナが、いつのまにか斜面を下りてきていた。伊織の手元をじっと見て、それから、自分も草の中から、何か光るものを拾い上げた。
「これは?」
ガラスのかけらだった。ただの、割れたガラスだった。
「なんでもない。ただの、ガラス」
伊織が言うと、レーナは少しがっかりした顔をして、それでもそのかけらを捨てずに、手のひらに載せたまま、伊織の後ろについて歩いた。
窪地のいちばん奥に、ひときわ大きな建物の跡があった。
壁はほとんど崩れていたが、三階ぶんほどの高さの骨組みが、まだ残っていた。その前の、平らに開けた場所には、草がまばらにしか生えていなかった。土の下に、硬いものが敷き詰められているのだろう。伊織は、その開けた場所の端に立って、崩れかけた建物を見上げた。
窓が、等間隔に並んでいた。ガラスはとうになかった。四角い穴が、一階にも、二階にも、三階にも、同じ間隔で開いていた。伊織は、その並び方を知っていた。
建物の中に入ると、床に、錆びた細い金属の骨組みが、いくつもいくつも並んで転がっていた。四本の脚に、四角い枠。どれも同じ形で、同じ大きさだった。脚の一本一本に、高さを変えるための小さな穴が、縦にいくつも開いていた。
机だった。
天板は、もう残っていなかった。木か何かでできていたのだろう。骨組みだけが、ほとんど元の並びのまま、六つずつ、何列にも並んでいた。前のほうの壁に、大きな四角い板の跡があった。板そのものはなくなっていて、壁に、それを留めていた金具の跡だけが、四角く残っていた。
チャイムの音を、伊織は思い出した。
始業のチャイムが鳴ると、廊下にいた連中がばたばたと教室に駆け込んできて、椅子を引く音が一斉に鳴った。伊織の席は、窓際の、後ろから二番目だった。隣の席の男子は、いつも一時間目の途中で眠っていた。二学期の席替えのくじは、伊織が眠る前の週に引くはずだった。誰と隣になったのか、伊織は知らない。知らないまま、千年以上が経っていた。
伊織は、骨組みのひとつの前にしゃがみ込んだ。脚の穴に、指を入れてみた。指は、穴の中で、錆のざらつきに触れた。
レーナが、教室の入口に立っていた。中には入ってこなかった。
石は、建物の裏手にあった。
人の背丈ほどの、黒っぽい、平たい石だった。半分以上が土に埋もれ、残りの半分も、苔と蔦にすっかり覆われていた。ほかの灰色の塊とは、石の質が違った。表面がなめらかで、継ぎ目がなかった。伊織は、最初はそれを、ただの大きな岩だと思った。通り過ぎかけて、足を止めた。蔦の隙間から、まっすぐな溝がのぞいていた。自然にできた溝ではなかった。
伊織は、蔦をむしった。
むしっても、むしっても、その下にまた蔦があった。爪のあいだに土が入り込んだ。苔は、指の腹でこすると、ぼろぼろと剥がれ落ちた。その下から、文字が出てきた。
彫られた文字だった。
ひとつ目の文字を見たとき、伊織の手が止まった。読めた。リシュエンヌの経典の、あの細かな文字は、ひとつも読めなかった。トネの村で見た、家の柱に刻まれた印も、何ひとつ読めなかった。それなのに、この文字は読めた。読めてしまった。漢字だった。
伊織は、膝をついて、苔をこすり続けた。
字は、ところどころ欠けていた。石の表面が剥がれて、まるごと読めない行もあった。それでも、いくつかの言葉は拾うことができた。この地で。多くの。命。忘れない。そういう言葉が、とぎれとぎれに並んでいた。いちばん上に、少し大きな字で、二文字が刻まれていた。慰霊、と読めた。
そして、いちばん下の行に、数字があった。
四つの数字が並び、その後に、年、という字が続いていた。月と日も刻まれていたが、そこは石が欠けていて読めなかった。年の数字だけが、苔の下から、くっきりと現れていた。
伊織は、その数字を、しばらく見ていた。
自分が眠りについた年の数字を、伊織は覚えていた。忘れるはずがなかった。高校二年の、夏休みが終わったばかりの年だった。その年の数字と、石に刻まれた数字を、伊織は頭の中で並べた。並べて、引いた。何度か引き直した。何度引き直しても、答えは同じだった。
八十と、いくつか。
伊織が眠ってから、八十年あまりが過ぎた年に、誰かがこの石を立てたのだった。この地で多くの命が失われたことを、忘れないために。
背後で、草を踏む音がした。リシュエンヌだった。リシュエンヌは伊織の隣に立ち、石の表面を見て、それから、伊織の顔を見た。
「お読みになれるのですか」
伊織は頷いた。
「大異変の、ことだと思います」
自分の声が、ずいぶん落ち着いているのが不思議だった。
「大異変が起きたのは、たぶん、この石が立てられた年か、その少し前です。生き残った人たちが、これを立てたんだと思います」
リシュエンヌは、何も言わなかった。両の手のひらを上に向けて胸の前で重ね、石に向かって、軽く頭を垂れた。
「リシュエンヌさん」
伊織は言った。
「千と五百と、少し、と言いましたよね。その、少し、というのは、どれくらいですか」
リシュエンヌは顔を上げて、少し考えた。
「わたしの持っている写しでは、千と五百と、十と八つ。別の写しでは、二十と少し、と書いてあるものもあると聞きました。正しいところは、誰にもわかりません」
千五百と、十と八つ。あるいは、二十と少し。
そこに、八十と、いくつか。
伊織は、それを足した。足し算だった。小学校の三年生でもできる、ただの足し算だった。
千六百年。
その数は、千五百年のときのように、頭の上のほうに浮かんではいなかった。まっすぐに落ちてきた。落ちてきて、胸の真ん中の、どこか深いところに、ごとりと音を立てて沈んだ。
大異変が起きたとき、自分はもう八十年も眠っていた。眠ったまま、八十年。そのあいだ、誰も、自分を起こしに来なかった。父と母は、八十年のうちのどこかで、年を取って、死んだのだろう。缶コーヒーを買いに道を渡った父も。ゆっくりでいいですからね、と職員の言葉を口の中で繰り返していた母も。自分が起きる日を待ちながら、待ちきれずに。
それから、世界が終わった。それから、千五百年が過ぎた。
伊織は、苔だらけの手で、石の数字に触れた。四つの数字の、溝の深さを、指の先で確かめた。冷たかった。あの晩の地図の写しよりも、ずっと冷たかった。
その夜、三人は、教室のあった建物の中で眠ることになった。
レーナが火を起こした。リシュエンヌが、干した豆を水で戻して、小さな鍋で煮た。伊織は、何も手伝わなかった。手伝わなければ、と思ったが、体が動かなかった。火のそばに座って、ただ、燃える枝を見ていた。
豆を煮る匂いがした。その匂いで、急に、朝ごはんのことを思い出した。
朝ごはんは、たいてい、トーストと目玉焼きだった。母は、目玉焼きの黄身をいつも少しだけ固めに焼いた。伊織は半熟のほうが好きだった。好きだと言ったことは、一度もなかった。父は新聞を読みながらパンをかじり、パンくずをテーブルにこぼして、母に睨まれた。テレビでは天気予報をやっていて、あの線の上に、晴れのマークが並んでいた。何でもない朝だった。何でもない朝が、毎日あった。そのうちの一日だって、特別だと思ったことはなかった。
眠る前の晩、母は、起きたら何が食べたい、と聞いた。伊織は、少し考えて、なんでもいい、と答えた。母は、なんでもいいがいちばん困るのよ、と言った。それが、母とした最後の、ちゃんとした会話だったような気がする。なんでもいい、ではなく、半熟の目玉焼き、と答えればよかった。そう答えていたら、母は、八十年のうちのどこかで、半熟の目玉焼きの焼き方を、誰かに頼んでおいてくれたかもしれなかった。そんなはずはなかった。わかっていた。わかっていても、そう思った。
八十年。千六百年。
伊織は立ち上がった。レーナが顔を上げた。伊織は、何も言わずに、建物の外へ出た。
外は、暗かった。月が出ていなかった。崩れた壁の向こうに、窪地の灰色の塊が、黒い影になって並んでいた。伊織は、昼間に机の骨組みを見た教室の、外の壁にもたれて座り込んだ。
声は出さなかった。出さないように、膝に顔を押しつけた。それでも、肩が勝手に震えた。止めようとすると、かえってひどくなった。帰れない、と思った。思った途端に、そうではない、と頭のどこかが言い返した。帰れないのではない。帰る場所が、もうないのだ。千六百年前に、全部、終わってしまっている。
しゃり、と小さな音がした。
レーナだった。レーナは、伊織から少し離れたところに、黙って腰を下ろした。銀色の布は、出さなかった。何も言わなかった。ただ、伊織の上着の袖の端を、指先でつまんだ。あの廃墟で握っていたのと同じつまみ方だった。けれど、今度は、震えているのはレーナの指ではなかった。
どのくらいそうしていたのかは、わからなかった。
やがて、建物の中から、リシュエンヌが出てきた。手に、豆の入った椀を二つ持っていた。リシュエンヌは、伊織の前に椀をひとつ置き、もうひとつをレーナに渡した。それから、伊織の正面の、少し離れた地面に座った。
「お話しになりたければ、伺います」
リシュエンヌは言った。
「お話しになりたくなければ、ここに座っているだけにします」
伊織は、しばらく黙っていた。それから、話しはじめた。
自分が、ずっと昔の人間であること。病気でも怪我でもなく、ただ、ある理由で、長いあいだ眠らなければならなかったこと。冷たい箱の中で眠り、目を覚ますと、天井が割れていたこと。誰も迎えに来なかったこと。父と母のこと。目玉焼きに何をかけるかで、毎朝言い合っていたこと。学校のこと。窓際の、後ろから二番目の席のこと。石に刻まれた数字のこと。
話しているうちに、自分でも何を話しているのかわからなくなった。話の順番がばらばらで、同じことを何度も言った。言葉も、ところどころ、この世界の言葉ではなくなっていた。それでも、リシュエンヌは一度も口を挟まなかった。驚いた顔もしなかった。疑う顔もしなかった。ただ、伊織の目を見て、ときどき、小さく頷いていた。
レーナは、袖をつまんだまま、伊織の横顔を見ていた。話が終わると、レーナは、ずいぶん長く考え込んでから、
「イオリは、千六百歳?」
と聞いた。
伊織は、思わず、少しだけ笑った。笑ったら、また涙が出た。
「眠ってたぶんを足せば、そうなるのかな」
「長生き」
レーナは真面目な顔で言った。冗談なのかどうか、伊織にはわからなかった。たぶん、冗談ではなかった。
リシュエンヌは、焚き火の明かりの届かない暗がりのほうを、少しのあいだ見ていた。それから、伊織に向き直った。
「イオリさん。わたしには、イオリさんのお話の、半分もわかっていないと思います。冷たい箱というのも、どういうものなのか、わかりません」
穏やかな声だった。昼間、石を投げられていたときと、同じ声だった。
「でも、神様が、イオリさんをここへ連れてきてくださったのなら、ここにも、イオリさんの居場所が、きっとあるはずです。神様は、居場所のないところへ、人をお連れにはなりませんから」
伊織は、その言葉を、頭の中で一度繰り返した。
やさしい言葉だった。やさしすぎて、どこにも引っかからずに、するりと通り過ぎていった。神様が連れてきたのではなかった。父と母が、書類に判を押して、自分をあの箱に入れたのだ。それから、誰も起こしに来なかった。それだけのことだった。
「ありがとうございます」
伊織は言った。そう言うほかに、言える言葉がなかった。リシュエンヌは、それ以上は何も言わなかった。
椀の中の豆は、すっかり冷めていた。伊織は、それを少しずつ食べた。塩の味がした。
翌朝、伊織は、施設へ戻りたいと言った。
目覚めた施設の、まだ入っていない部屋のことを話した。扉の枠だけが並んでいた、あの暗い廊下のことを。なぜ八十年も誰も自分を起こしに来なかったのか、それを知りたい、と伊織は言った。知ったところで、どうなるものでもないのかもしれない。それでも、何か記録が残っていれば、もしかしたら。
もしかしたら、の先は、言わなかった。言えば、自分でも信じていないことが、二人にわかってしまう気がした。
「トネの村の、近くなんです」
伊織が言うと、レーナの手が、首の布のほうへ動いた。動いて、途中で止まった。
トネの村の近く。それは、西の町の近くだということだった。レーナが逃げてきた商家のある町の。ドルンが先回りすると言っていた町の。伊織は、そのことを知っていた。知っていて、そこまでは考えなかった。考えないようにしていた、というのとも、少し違った。ただ、頭がそこまで回らなかった。
「来た道を戻るのは、よしたほうがいいでしょう」
リシュエンヌが言った。
「あの道には、狩り役の触れが回っています。少し遠回りになりますけれど、北の峠を越えて、山の向こうの領地を抜けていく道があります。そちらからなら、トネの村の西のほうへ、別の側から出られるはずです」
「行く」
レーナが言った。
伊織は、レーナの顔を見た。レーナは、伊織のほうを見ていなかった。足元の、昨日拾ったガラスのかけらを見ていた。いつのまにか、腰の袋の紐に、そのかけらを結びつけていた。
「イオリが行くなら、行く」
それだけ言うと、レーナは立ち上がって、首の布を巻き直した。いつもよりも、少しきつく巻いていた。
伊織は、ありがとう、と言った。レーナは頷いた。伊織はそれ以上、何も聞かなかった。聞くべきことがあったのだと気づいたのは、ずっとあとになってからだった。
峠は、思っていたよりも険しかった。
登りはじめて半日もすると、道は石ころだらけになり、草の代わりに、ひょろりとした灌木がしがみつくように生えているだけになった。霧が出ていた。前を歩くリシュエンヌの衣の色が、霧の中でときどき見えなくなった。
峠の中ほどで、道の脇に、山の斜面に口を開けた大きな穴があった。
穴は半円の形をしていて、縁に、灰色の硬いものが、きれいな弧を描いて並んでいた。中は真っ暗で、奥のほうで、ぽたぽたと水の垂れる音がした。半分ほどの高さまで、崩れた土砂で埋まっていた。
道は、その穴の前で大きく曲がり、穴を避けて、山の斜面をじぐざぐに登っていた。
「古いもんの穴」
レーナが小さな声で言って、穴のほうを見ないようにして通り過ぎた。リシュエンヌも、穴の前では少し足を速めた。
伊織だけが、立ち止まった。
トンネルだった。山の向こうへ、まっすぐに抜けていたはずのトンネルだった。父の車で、家族で温泉に行ったとき、こういうトンネルをいくつも抜けた。トンネルに入るたびに、母はなぜか息を止めた。どうして止めるの、と聞くと、なんとなく、と母は答えた。伊織も、真似をして息を止めた。長いトンネルでは、出口の手前で、いつも息が続かなくなった。
その穴の前を避けて、今の人たちは、山の上を歩いて越えていく。半日もかけて、霧の中を、石ころだらけの道を。伊織の時代の人たちなら、十分もかからずに通り抜けた山を。
伊織は、トンネルの暗がりの中に、息を止めて立っている母の横顔を見たような気がした。見たような気がしただけだった。
「イオリ」
レーナの声が、霧の向こうからした。伊織は、穴の前を離れた。
峠の頂の近くで、日が暮れた。
岩陰に、前にも誰かが火を焚いた跡があった。黒く焦げた石が、輪になって並んでいた。三人は、そこで夜を明かすことにした。
暗くなると、どこか遠くで、何かが鳴いた。
犬の遠吠えに似ていた。似ていたが、もっと甲高く、語尾が笑い声のように細かく震えた。ひとつが鳴くと、別の方角で、もうひとつが応えた。また、別のひとつが応えた。
「峠の魔物」
レーナが言った。火打ち石を打つ手は、止まらなかった。
「火を絶やさなければ、来ない。来ないって、旦那様のお屋敷に出入りしてた荷運びの人が言ってた」
火が燃え上がった。リシュエンヌは、火のそばで手のひらを上に向けて重ね、何か小さく唱えていた。
夜半に、伊織は、岩場の上に、二つの光を見た。
緑色の、小さな光だった。火を映して光る、目だった。目は、しばらく動かずにこちらを見ていた。それから、岩から岩へ、音もなく跳び移った。暗くて、形はよくわからなかった。山羊ほどの大きさで、背中が丸く、毛のない、つるりとした肌が、火の明かりにぬめって見えた。また、あの声で鳴いた。すぐ近くで聞くと、笑い声にしか聞こえなかった。
レーナが、枝を火にくべた。炎が高く上がった。緑の目は、ふっと消えた。
伊織は、上着の上から、内側の物入れを握っていた。硬くて小さなものが、そこにあった。握っていても、何の役にも立たなかった。それでも、手を離すことができなかった。
朝まで、三人は交代で火の番をした。伊織の番のとき、レーナは眠らずに、膝を抱えて、伊織の隣に座っていた。
峠を下りると、景色が変わった。
なだらかな斜面に、麦の畑がどこまでも広がっていた。畑と畑のあいだを、まっすぐな道が通っている。トネの村のまわりの、つぎはぎのような小さな畑とは違って、どの畑も、同じ形に、きちんと区切られていた。遠くの丘の上に、石造りの大きな屋敷が見えた。
「ここから先は、領主様の土地です」
リシュエンヌが言った。
道の脇に、一本の柱が立っていた。
錆びて赤茶色になった、細い金属の柱だった。てっぺんに、逆さまの三角形の板が取りつけられていた。板の色は褪せきっていたが、縁のあたりに、かすかに赤い色が残っていた。柱の根元には石が積まれ、新しい木の杭が添えて打ち込まれていた。杭には、何かの紋章のようなものが焼きつけてあった。
「領主様の印の柱だと、言われています」
リシュエンヌが言った。
「ずっと昔から、ここに立っているのだそうです。領地の境目には、ああいう古い柱があるのです。領主様のご先祖が、神様から授かったのだと」
伊織は、柱の前で足を止めて、三角形の板を見上げた。板の表面に、白い字の跡が、かすかに残っていた。読もうと思わなくても、読めた。
止まれ。
伊織は、少しだけ笑った。笑ったつもりはなかったのに、笑ってしまった。レーナが、不思議そうな顔で伊織を見た。何と書いてあるのかと聞かれる前に、伊織は歩き出した。止まれ、と書かれた柱の前を、三人は止まらずに通り過ぎた。
畑には、人がいた。
十人ほどの男たちが、横一列に並んで、土を掘り返していた。手に、重そうな鍬を持っていた。男たちの足首に、鉄の輪がはまっていた。輪と輪のあいだを、太い鎖がつないでいた。ひとりが足を止めると、隣の男がつんのめった。だから、誰も足を止めなかった。同じ速さで鍬を振り上げ、同じ速さで振り下ろしていた。鎖が、土の上で、じゃら、じゃら、と鳴った。
畑の端に、馬に乗った男がひとりいた。手に、長い鞭を持っていた。鞭はほとんど使われなかった。使われなくても、そこにあるだけで、十分だった。
男たちの首筋には、みな、印があった。レーナの印とは違う形だった。四角の中に、点がひとつ。
レーナは、道の上で立ち止まっていた。
伊織は、レーナの横顔を見た。何の表情も浮かんでいなかった。目だけが、鎖のほうを見ていた。鍬が振り上げられ、振り下ろされ、鎖が鳴るのを、ひとつずつ数えているような目だった。
「レーナ」
伊織が呼ぶと、レーナは、ゆっくりとこちらを向いた。それから、何も言わずに、また歩き出した。
その日のうちに、同じような畑を、四つ見た。四つとも、同じように、鎖が鳴っていた。
領地の中の村で、リシュエンヌは説教をした。
村の井戸のそばの、少し開けた場所だった。夕方で、畑から戻ってきた村の者たちが、水を汲みに集まっていた。リシュエンヌは、その人たちの前に立って、いつもの穏やかな声で話しはじめた。神様は、すべての人を、ひとしく愛しておられます。王様も、領主様も、畑を耕す人も。足に鎖をつけられた人も。
鎖、という言葉が出たところで、村の者たちの顔色が変わった。
誰も石は投げなかった。そのかわり、ひとりの年寄りが前に出てきて、低い声で、出ていってくれ、と言った。領主様のお耳に入ったら、困るのはわしらだ、と。その後ろで、何人かが、額に指の輪を当てていた。若い男が、桶の水を、リシュエンヌの足元にぶちまけた。泥が跳ねて、衣の裾が黒く汚れた。
リシュエンヌは、年寄りに向かって、丁寧に頭を下げた。
「お騒がせいたしました」
そう言って、三人は村を出た。リシュエンヌは、汚れた裾を、振り返りもしなかった。
村を出てしばらく歩いたところで、伊織は聞いた。
「どこへ行っても、ああなんですか」
「たいていは」
リシュエンヌは言った。
「でも、ときどき、最後まで聞いてくださる方がいます。ひとりか、ふたり。それで、十分なのです」
伊織には、それが十分だとは、とても思えなかった。
レーナがその話を聞いたのは、その村を出る少し前のことだった。
リシュエンヌが説教をしているあいだ、レーナは、井戸から少し離れた、家の陰にいた。人の集まるところには、近づかないほうがいい。首の布はきつく巻いてあったが、それでも、近づかないほうがよかった。
家の陰には、先客がいた。レーナと同じくらいの年の女だった。水の入った桶を二つ、天秤棒で担いでいた。女の首筋に、四角の中に点がひとつの印があるのを、レーナは見た。女も、レーナの首の布を見た。布の巻き方で、わかったのかもしれなかった。二人とも、しばらく何も言わなかった。
「あんたも、どっかのお屋敷の?」
女が、小さな声で聞いた。レーナは答えなかった。答えないことが、答えになった。女は、井戸のほうを見たまま、ひとりごとのように言った。
「去年の春にね、この村からも、ひとり逃げた子がいたんだよ。わたしと同じ畑の子。十五だった」
女は、天秤棒を肩の上で担ぎ直した。
「三つ向こうの町まで行ってたんだって。そこで、狩り役に見つかった。連れ戻されて、しばらくは鎖につながれて畑に出てた。足首が、真っ赤に腫れてた。それから、山の向こうの鉱山へ売られてった。もう、帰ってこない」
女は、そこで初めて、レーナの顔を見た。
「逃げたって、印は消えないからね」
そう言うと、女は桶を揺らしながら、家の陰から出ていった。
レーナは、その場に立ったまま、首の布を押さえていた。布の下の印が、熱を持っているような気がした。七つのときに押されたものだった。もう、痛むはずがなかった。
井戸のほうから、リシュエンヌの声が聞こえていた。足に鎖をつけられた人も、神様の前では、みな同じです。
同じではない、とレーナは思った。思ってから、そう思った自分が、少しだけ嫌になった。
その夜から、レーナは、あまり喋らなくなった。
もともと、口数の多いほうではなかった。それでも、伊織の言葉を直すときや、食べられる草を見つけたときには、小さな声で何か言った。それが、なくなった。歩いているときも、火を起こすときも、黙っていた。伊織が何か話しかけると、うん、とか、そう、とか答えた。答えるまでに、少し間があった。
伊織は、そのことに気がついていた。気がついていたが、峠の疲れが出たのだろうと思った。思ってしまえば、それ以上は考えずに済んだ。伊織の頭の中は、施設のことでいっぱいだった。扉の枠だけが並ぶ、あの暗い廊下。あと何日で着くのか。あの部屋の中に、何が残っているのか。
領地の外れの、小さな川のほとりで休んでいたとき、レーナが、ふいに口を開いた。
「イオリは」
伊織は顔を上げた。レーナは、川の流れを見ていた。腰の袋の紐に結びつけた、ガラスのかけらを、指先でいじっていた。
「帰れたら、帰る?」
「帰るよ」
伊織は答えた。考えるまでもなかった。考えずに答えたことに、答えてから気がついた。
「帰る方法が、見つかったら、だけど」
「そう」
レーナは言った。それきり、何も言わなかった。ガラスのかけらが、指先でくるりと回って、日の光を一度だけ跳ね返した。
リシュエンヌが、少し離れたところで、二人のほうを見ていた。何か言いたそうな顔をしていた。けれど、何も言わなかった。
領地を抜けたのは、峠を下りてから五日目のことだった。
最後の丘を越えると、道は、ゆるやかな下りになった。その下りの先に、町が見えた。東の町よりは小さかったが、やはり石の壁に囲まれていて、いちばん高いところに、尖った屋根が見えた。
「あの町を過ぎれば、トネの村の西のほうへ出る道があります」
リシュエンヌが言った。
「あと、四日か、五日です」
あと、四日か、五日。伊織は、その数を、胸の中で繰り返した。千六百年に比べれば、ないのと同じくらいの数だった。
上着の上から、内側の物入れを押さえた。硬くて小さなものが、そこにあった。それから、腰紐に結んだ布切れの上から、五円玉に触れた。窪地で拾ってから、ずっとそこに包んで持っていた。ご縁がありますように、と母の声がした。どこからか、した気がした。
隣で、レーナが首の布を巻き直していた。いつもより、ずっとゆっくりとした手つきだった。巻き終わっても、レーナは、しばらく布の端を握ったまま、坂の下の町を見ていた。尖った屋根の上を、鳥が一羽、ゆっくりと横切っていった。
伊織は、その横顔を見なかった。坂の下の町の、そのさらに向こうの、見えない西の空ばかりを見ていた。
三人は、坂を下りはじめた。




