海岸線
足が治るまで、とレーナは言った。
その足は、四日目にはもう、ほとんど引きずらなくなっていた。
伊織はそのことに気がついていた。気がついていて、何も言わなかった。レーナも何も言わなかった。朝になると、レーナは黙って腰の袋の紐を結び直し、黙って伊織の隣を歩き出した。伊織の肩に回されていた腕は、いつのまにか外れていた。それでも二人の歩く間隔は、肩を貸していたころとほとんど変わらなかった。
トネの村を出てから、二人は東へ歩いていた。
東だということは、三日目の朝にわかった。日が昇るのを、真正面に見たからだ。わかってみれば、それだけのことだった。ドルンの待つ西の町は、背中のほうにある。それで十分だった。
道は、あったりなかったりした。踏み固められた土の道が丘の裾を巻くように続いていて、ときどき、その土の下から灰色の硬いものが顔を出していた。伊織はそれを見るたびに、足を止めそうになった。石の舗装だった。目覚めた施設のまわりの草の下にあったのと、同じものだ。誰かがずっと昔に敷いた道の上に、今は別の誰かが土を盛り、また道にして歩いている。
「古いもんの上は、踏まないほうがいい」
レーナはそう言って、灰色のところをわざわざ避け、土の上だけを選んで歩いた。伊織は少し迷ってから、レーナの真似をした。
レーナはいろいろなことを知っていた。食べられる草と、食べられない草。夜露をしのぐのに向いた木の根元。村の近くを通るときは、日の高いうちに通り過ぎたほうがいいこと。夕方になってから村に近づく者は、たいてい何かから逃げている者だと、村の者は思うのだという。
「レーナも、そう思われた?」
「わたしは、村に近づかなかった」
レーナは言った。
「だから、イオリに見つかった」
伊織は少し笑った。レーナは笑わなかった。笑わせるつもりで言ったのではなかったらしい。
伊織のほうは、ほとんど何も知らなかった。知っていることは山ほどあったはずなのに、そのどれもがここでは役に立たなかった。電車の乗り換え。コンビニのレジで、袋はご利用ですか、と聞かれたときの答え方。二次関数の解の公式。英単語。そういうものが頭の中にぎっしり詰まっていて、そのくせ、目の前の草が食べられるのかどうかもわからない。伊織はときどき、自分の頭が、鍵の壊れた物置のように思えた。中には物があふれているのに、取り出して使えるものがひとつもない。
言葉のほうは、少しずつ慣れていった。レーナの話す言葉は、トネの村の女たちの言葉よりも角が取れていて、聞き取りやすかった。町の商家で十年も暮らしていたからだろう。伊織が何か言うと、レーナはときどき、それはこう言う、と直してくれた。直されたとおりに言い直すと、小さく頷いた。そのとき、ほんの少しだけ得意そうな顔をした。
「イオリの言葉は、きれいすぎる」
とレーナは言った。
「きれいすぎると、目立つ」
「どうすれば、汚くなるかな」
レーナは真面目な顔で考え込んで、
「もっと、口を開けないで喋る」
と言った。伊織は試してみた。レーナは黙って首を振った。
五日目の昼すぎに、それを見た。
二人は道から少し外れた、低い丘の上で休んでいた。丘の下を、道がゆるく曲がって続いている。その道を、一台の荷車がこちらへ向かってきていた。
荷車を引いているのは、灰色の、耳の長い獣だった。驢馬だ、と伊織は思った。本物を見るのは初めてだったが、図鑑で見たのと同じ形をしていた。荷台には布をかけた荷が山のように積まれていて、その横を、小柄な男が手綱を取って歩いている。荷車の後ろには、槍を担いだ男が二人ついていた。
「行商の人」
とレーナが言った。
「村から村へ、塩とか針とか、売って歩く」
伊織は、ふうん、と言った。平和な眺めだった。驢馬の首につけた鈴が、風に乗って、ちりん、ちりん、とここまで聞こえてくる。
そのとき、道の脇の草むらが揺れた。
風ではなかった。伊織は、その揺れ方を知っていた。目覚めた日、施設の裏の流れのそばで見たのと同じ揺れ方だった。草の海の中を、何か低くて長いものが、まっすぐに進んでいく。揺れは、荷車のほうへ向かっていた。
先に気づいたのは、驢馬だった。驢馬は急に足を止め、甲高い声で鳴いて、後ろ足で立ち上がろうとした。手綱を取っていた男が、何か叫んだ。
草むらから、それが出てきた。
黒っぽい、長いものだった。蜥蜴にも蛇にも似ていたが、そのどちらでもなかった。胴は荷車の長さほどもあり、背中には瓦を並べたような硬い板がびっしりと重なっている。短い脚が胴の下で忙しく動いていて、何本あるのか、伊織にはわからなかった。頭は平たく、口が耳のあたりまで裂けていた。
それは、驢馬の脚に食らいつこうとした。驢馬が跳ね、荷車が大きく傾いた。荷台の荷がいくつか転げ落ちて、袋が裂け、白いものが道にこぼれた。塩だった。
槍の男のひとりが前へ出て、それの背中を突いた。槍の先は硬い板に弾かれて、かつん、と乾いた音を立てただけだった。もうひとりの男が、右の手のひらを突き出した。手のひらが橙色に光ったかと思うと、そこから拳ほどの炎が飛んで、それの鼻先で弾けた。
それは、ぎい、と錆びた扉のような声を上げて身をよじった。もう一度炎が飛んだ。それは身を翻し、来たときと同じ速さで草むらへ戻っていった。草の揺れが、まっすぐに遠ざかっていく。やがて、何も見えなくなった。
伊織は、自分が息を止めていたことに気がついた。袖が強く引かれていた。見ると、レーナが伊織の袖を握っていた。あの廃墟で、銀色の布の中で握っていたのと同じ握り方だった。
「魔物」
レーナが小さな声で言った。
「古いもんの近くの草むらに、ああいうのがいる。だから、古いもんには近寄るなって」
魔物、と伊織は口の中で繰り返した。マホウ、と聞いたときには、その言葉はなかなか字にならなかった。今度は、すぐに字になった。なってしまうことが、少し嫌だった。
目覚めた日に見た、あの草の揺れのことを思った。猪か何かだ、と自分で決めて、それきり考えないようにしていた。あのとき、もし流れのそばにもう少し長くしゃがんでいたら、と考えかけて、やめた。
荷車は、道の真ん中で片側に傾いたまま止まっていた。
驢馬は前脚に傷を負っていたが、歩けないほどではなさそうだった。槍の男のひとりは腕を噛まれていて、もうひとりの男が布を巻いてやっていた。手綱を取っていた小柄な男は、道にしゃがみ込んで、こぼれた塩を両手でかき集めていた。土の混じった塩を、それでも大事そうに、裂けた袋の中へ戻していた。
伊織は丘を下りていった。なぜ下りていったのか、自分でもよくわからなかった。レーナは少し遅れてついてきた。下りる途中で、レーナは首筋の髪を手で寄せて、印のあるあたりを隠した。
荷車の車輪が、片方、軸から外れかけていた。槍の男たちが二人がかりで荷台を持ち上げようとしていたが、荷が重くて、うまくいかなかった。伊織は、道端に落ちていた太い棒と、手ごろな石を拾ってきた。石を荷台の下に置き、棒をその上に渡して、端を押し下げた。荷台が、ぎし、と鳴って浮いた。そのあいだに、男たちが車輪を軸に押し込んだ。
小柄な男が、伊織の顔をまじまじと見た。
「器用なことをするな、あんた」
「理科で、習ったので」
言ってから、しまったと思った。男は、リカ、と首を傾げただけで、それ以上は聞かなかった。
男は五十を過ぎたくらいに見えた。日に焼けた顔の皺に、土が入り込んでいた。伊織とレーナを交互に見て、それから、レーナの髪で隠した首筋のあたりに、ほんの一瞬だけ目をやった。そして、何も言わずに荷台の奥をごそごそと探り、色の褪せた布を一枚引っぱり出した。端のほうが、さっきの騒ぎで鉤裂きになっていた。
「これはもう売りもんにならねえ。巻いときな。首が冷えるだろ」
レーナは、その布をしばらく両手で持っていた。それから、黙って首に巻いた。巻き方がきつすぎて、少し苦しそうだった。
男は、ついでのように、藁の履物を二足、荷台から放ってよこした。伊織は、片方だけになっていた自分の履物を脱いで、新しいのに履き替えた。レーナは、トネの村を出てから初めて、裸足でなくなった。
「東へ行くんなら、乗っていきな。どうせ、この先の村をいくつか回る」
男はそう言って、手綱を取り直した。
それから三日、二人は荷車の後ろについて歩いた。疲れたときには、荷台の端に腰かけさせてもらった。
行商の男は、村に着くたびに荷を広げた。塩、縫い針、糸、鉄の小さな鍋。村の女たちが集まってきて、麦や干した豆と引き換えに、それを少しずつ持っていった。
そして、どの村でも、帰りがけに誰かが男を呼び止めた。
たいていは、年寄りか、子どもだった。手に、汚れた布の包みや、小さな籠を持っていた。中には、畑を耕しているときに土の中から出てきたものが入っていた。家に置いておくと悪いことが起こるから、早く手放したいのだという。男はそれを一つずつ手に取って眺め、麦をひと握りか、塩をひとつまみ渡して、自分の籠に移した。
「町へ持っていくと、魔除けになるって買うやつがいるんだ」
男は、伊織が覗き込んでいるのに気づいて言った。
「呪われたもんで、呪いを払うんだとさ。おかしな話だよな」
伊織は、男の籠の中を見た。
白い陶器のかけらがあった。表面に、何重にもひだのように溝が刻まれている。茶碗にしては厚すぎ、置物にしては形が素っ気なかった。伊織はそれを見て、電柱を思い出した。家の前の電柱のてっぺんに、こういう白いものがいくつも並んでいて、そこから電線が伸びていた。名前は知らなかった。知らないまま、毎日その下を通って学校へ行っていた。
薄い、丸いガラスの板があった。縁が少し欠けていて、覗くと、向こうの景色がぐにゃりと歪んで見えた。男はそれを目玉石と呼んだ。覗くと目が悪くなるから、子どもに触らせてはいけないのだという。伊織はそれをそっと手のひらに載せた。眼鏡のレンズだった。度の強いレンズだった。誰かが、このレンズ越しに、毎朝、新聞か何かを読んでいたのだろう。その誰かの顔を、伊織は思い浮かべようとした。思い浮かんだのは、なぜか、数学の先生の顔だった。
それから、小さなガラスの玉があった。親指の先ほどの大きさで、ほんのりと青みがかっていて、中に細かな泡がひとつ閉じ込められていた。
伊織は、それを長いあいだ見ていた。
ラムネの瓶の玉だった。小学生のころ、近所の神社の夏祭りで、父が買ってくれた。飲み終わったあと、どうしても中の玉を取り出したくて、瓶を石に叩きつけようとして、母に叱られた。父は笑って、帰ってからこっそり、栓の部分をペンチでこじ開けてくれた。取り出した玉は、伊織の机の引き出しに、しばらく入っていた。いつのまにか、どこかへ行ってしまった。
どこかへ行ってしまったものが、ここにあるような気がした。そんなはずはなかった。それでも伊織は、その玉を、すぐには籠に戻せなかった。
「気に入ったんなら、持ってけ。麦ひと握りの値打ちもねえ」
男は言った。伊織は首を振って、玉を籠に戻した。もらってしまったら、何かを認めてしまうような気がした。何を認めるのかは、自分でもよくわからなかった。
どれも、ありふれたものだった。電柱の碍子も、眼鏡のレンズも、ラムネの玉も。伊織の暮らしていた世界では、誰も気にとめないような、捨てられても惜しまれないようなものだった。それが今、呪われた石と呼ばれ、麦ひと握りで買い叩かれ、町で魔除けとして売られていく。伊織には、その一つ一つが、自分の時代の、ありふれた物のなれの果てに見えた。
伊織は上着の上から、内側の物入れを押さえた。硬くて小さなものが、そこにあった。
これもいつか、と思った。いつか、どこかの畑の土の中から掘り出されて、呪われた石と呼ばれるのだろうか。年寄りが布に包んで、早く手放したいと言って、行商の男に麦ひと握りで渡すのだろうか。
レーナが、荷台の端に腰かけたまま、伊織の顔をじっと見ていた。伊織は、何でもないというふうに笑ってみせた。レーナは笑い返さなかった。
三日目の夕方、荷車は、町を見下ろす坂の上で止まった。
坂の下に、町があった。トネの村とは比べものにならない大きさだった。石を積んだ低い壁がぐるりと町を囲み、その内側に、屋根がひしめき合っている。いくつもの煙が、夕暮れの空に立ち上っていた。いちばん高いところに、尖った屋根の建物が見えた。
「教会だ」
と男が言った。それから、手綱を握ったまま、前を向いたままで言った。
「ここから先は、おれひとりで入る」
伊織は男の横顔を見た。男はこちらを見なかった。
「門の連中がな、近ごろは入ってくる者の首を見るんだそうだ。西の町の商家から、娘がひとり逃げたとかでな。狩り役が、あちこちの町に触れを回してるらしい」
レーナの肩が、小さく強張ったのがわかった。
「それと、教会の審問の人らも来てるって話だ。異端の女がこっちへ流れてきたってんでな。近ごろは、どこへ行っても誰かが誰かを探してやがる」
男は、ちっ、と舌を鳴らした。それから、驢馬の首を軽く叩いて、坂を下りはじめた。少し行ったところで、一度だけ振り返った。
「その布、ちゃんと巻いとけよ」
それきり、男は振り返らなかった。驢馬の鈴の音が、坂の下へ小さくなっていった。
伊織は、男の名前を聞いていなかったことに、そのとき初めて気がついた。
町の壁の外を、二人は回り込むようにして歩いた。どこか、夜を明かせる場所を探さなければならなかった。
壁の外にも、人はいた。門の外には市が立っていて、店じまいを始めた露店のあいだを、荷を背負った人々が行き交っている。その市の外れ、町から少し離れた辻のところに、人だかりができていた。
人だかりの真ん中に、女がひとり立っていた。
地味な女だった。灰色とも茶色ともつかない色の、くるぶしまである長い衣を着て、同じ色の布を頭からかぶっていた。台も何もない地面の上に、ただ立っていた。年は、伊織には三十前後に見えたが、もっと若いのかもしれなかったし、もっと上なのかもしれなかった。目立つところの何もない顔だった。ただ、その顔は、笑っていた。穏やかに、何でもないことのように。
「神様は、すべての人を、ひとしく愛しておられます」
女は言った。大きな声ではなかった。それなのに、不思議とよく通る声だった。
「王様も、貴族の方々も、商人も、畑を耕す人も。首に印を押された人も。神様の前では、みな同じです。神様は、誰ひとり、ほかの誰かより少なく愛したりはなさいません」
人だかりの中から、誰かが何か叫んだ。異端、という言葉だけが聞き取れた。何人かが、左手の親指と人差し指で輪を作り、それを額に当てた。トネの村の女たちがしていたのと同じ仕草だった。
女は、顔色ひとつ変えなかった。
「わたしたちの神様は、古い神様です。大きなお堂も、金の飾りも持っておられません。けれど、あなたの上にも、あなたの上にも、ひとしく光を注いでおられます」
小石が飛んだ。
最初に投げたのは、子どもだった。小石は女の衣の裾に当たって、地面に落ちた。それを合図にしたように、別の誰かが、もう少し大きな石を投げた。石は女の頬をかすめた。頬に、細く赤い線が走った。
女は、それでも話すのをやめなかった。頬を拭おうともしなかった。同じ穏やかな顔で、同じ声の高さで、神様の話を続けていた。そのことが、かえって人々を苛立たせたようだった。石がいくつも飛んだ。女の抱えていた布の包みに石が当たり、包みが地面に落ちて、中から古い本が転がり出た。
やがて、人々は興ざめしたように、ひとり、またひとりと去っていった。去り際に、誰かが地面に唾を吐いた。
伊織は、その場から動けずにいた。隣のレーナも動かなかった。レーナは、首に巻いた布の上から、印のあるあたりを手で押さえていた。押さえたまま、女の顔を見ていた。首に印を押された人も、神様の前ではみな同じです。女がそう言ったとき、レーナの肩がかすかに震えたのを、伊織は見ていた。
人がいなくなってから、女は地面に膝をついて、落ちた本を拾い上げた。表紙の土を、衣の袖で丁寧に払った。それから、散らばった紙を一枚ずつ拾いはじめた。
伊織は近づいていって、足元に落ちていた一枚を拾った。黄ばんだ紙に、細かな文字のようなものがびっしりと書き込まれていた。伊織には読めなかった。
「ありがとうございます」
女は顔を上げて言った。頬の傷から、血が一筋、顎のほうへ垂れていた。
「血が」
「ええ。でも、たいしたことはありません」
女はそう言って、伊織の手から紙を受け取り、本のあいだに挟んだ。それから、伊織とレーナを順に見た。レーナの首の布のところで、その目がほんの少しだけ止まった。けれど、何も聞かなかった。
「わたしは、リシュエンヌと申します。旅をしている者です」
伊織は少し驚いた。言葉の中身ではなく、その言い方に驚いた。目覚めてから、伊織と同じような話し方をする人に会ったのは、初めてだった。トネの村の年かさの女は、そんな丁寧な口のきき方をする者はこの辺りにはいない、と言った。それなら、この人はどこから来たのだろう。
「桐生伊織です」
伊織は言った。
「こっちは、レーナ」
レーナは小さく頭を下げた。リシュエンヌは、イオリさん、レーナさん、と二人の名前を一度ずつ口にした。名前に、さん、をつけて呼ばれたのも、目覚めてから初めてだった。
リシュエンヌは、町の門をくぐらなかった。わたしも、あの門はくぐれないのです、と彼女は笑って言った。それで三人は、町の壁から少し離れた川べりの、打ち捨てられた粉挽き小屋で夜を明かすことになった。リシュエンヌは前にもそこで眠ったことがあるらしく、迷わずに二人を案内した。屋根は半分落ちていたが、残った半分の下には、乾いた土の床があった。
レーナが火打ち石で火を起こした。リシュエンヌは、その手つきを、感心したように眺めていた。
「お上手ですね。わたしは、何度やってもうまくいかないのです」
「魔法は、使わないんですか」
伊織が聞くと、リシュエンヌは首を振った。
「使えません。わたしの神様は、そういうものをくださいませんでした」
そう言って、また笑った。
リシュエンヌの頬の傷は、もう血が止まっていた。彼女は、自分の荷の中から、干した果物を出して二人に分けた。自分のぶんは取らなかった。レーナは、それに気づいて、自分のぶんを半分に割り、黙ってリシュエンヌの膝の上に置いた。リシュエンヌは、ありがとうございます、と言って、それを受け取った。
しばらく、誰も何も言わなかった。火が爆ぜる音と、川の流れる音だけがしていた。
やがて、レーナが、首に巻いていた布に手をかけた。伊織は止めようとした。止める前に、レーナは布をほどいていた。火の明かりの中に、首筋の印が浮かび上がった。輪の中に、短い線が二本。
「わたしは、逃げた奴隷」
レーナは言った。声は震えていなかった。
「西の町の商家から逃げた。狩り役が、わたしを探してる。門の人が首を見てるのも、わたしのせい」
リシュエンヌは、レーナの首の印を見た。それから、レーナの顔を見た。印を見ていた時間よりも、顔を見ていた時間のほうが、ずっと長かった。
「そうですか」
リシュエンヌは、それだけ言った。どこから逃げたのかも、なぜ逃げたのかも、聞かなかった。
「それなら、わたしも一緒に行きましょう」
伊織は、思わずリシュエンヌの顔を見た。レーナも見た。
「どうして」
伊織が聞くと、リシュエンヌは少し考えるような顔をした。
「どうしてでしょうね」
そう言って、首を傾げて笑った。答えになっていなかった。けれど、それ以上の答えは、いらないような気もした。
「教会の人が、探してる女の人がいる」
レーナが、ぽつりと言った。
「異端の、女の人。西の町でも、ここでも」
「ええ。たぶん、わたしのことでしょう」
リシュエンヌは、まるで明日の天気の話でもするように言った。
「教会の方々は、わたしのお話が、あまりお好きではないようなのです。でも、わたしは旅を続けなければなりません。神様のお言葉を、ひとりでも多くの方にお伝えするために」
伊織は、昼間の石のことを思った。頬に走った赤い線のことを思った。それでも笑っていた、あの顔のことを思った。
夜が更けてから、リシュエンヌは火のそばで、あの古い本を開いた。
表紙は、すり切れた革でできていた。綴じ糸は何度も繕った跡があって、色の違う糸が何本も絡み合っていた。中の紙は黄ばんで、端のほうが脆く崩れかけている。リシュエンヌはそれを、壊れものを扱うような手つきで、一枚ずつめくった。めくりながら、唇がかすかに動いていた。
「それは、何ですか」
伊織が聞いた。
「経典の写しです。わたしたちの教えの」
リシュエンヌは顔を上げた。
「何度も、何度も、書き写されてきたものです。古い写しが傷むと、新しい紙に書き写す。その写しが傷むと、また書き写す。いちばん初めのものは、大異変の前に書かれたのだと言われています」
「大異変」
伊織は繰り返した。リシュエンヌは、伊織がその言葉を知らないことに、少しも驚かなかった。
「古い世界が終わった日のことです。経典には、そう書いてあります。空がひどく荒れ、地が裂けて、古い人々の町は、すべて崩れてしまった。わたしたちの教えでは、その日から年を数えるのです」
「今は、何年なんですか」
トネの村で聞いたのと同じことを、伊織は聞いた。
「千と五百と、少し。写しによって数え方が少しずつ違っていて、正しいところは誰にもわかりません。でも、千五百年ほど前に古い世界が終わったということは、どの写しにも書いてあります」
千五百年、と伊織は思った。思っただけで、その数は、どこにも落ちてこなかった。数字だけが、頭の上のほうに、ふわふわと浮かんでいた。
リシュエンヌが、本の最後のほうをめくった。そこに、一枚だけ、ほかの紙とは違う折り方をした紙が挟まっていた。リシュエンヌはそれを、そっと引き出して広げた。
「これは、いちばん古い写しから、ずっと一緒に写されてきた文様です」
リシュエンヌは言った。
「何の意味があるのかは、誰にもわかりません。神様が最初の人々にお見せになった、古い世界の形だと言う方もいます。わたしは、写した人たちの、祈りのようなものだと思っていますけれど」
伊織は、その紙を見た。
墨のような黒いもので、細い線が引かれていた。線は、紙の右上から左下へ、弓なりに長く伸びていた。途中で何度もくびれ、小さく切れ、また続いていた。右上のほうに、ひしゃげた菱形のような塊がひとつ。その下から、長い弓が、ゆるく反りながら左下へ。弓の下のほうに、小さな塊が二つ、寄り添うように並んでいた。線のまわりには、細かな点や、文字とも模様ともつかない印が、ところどころに書き込まれていた。
伊織は、息をするのを忘れた。
それは、毎朝、見ていた形だった。
居間のテレビで、朝のニュースの終わりに、天気予報が流れる。画面いっぱいに、この形が映る。その上に、晴れや雨のマークが並ぶ。伊織はいつもそれを、目玉焼きを食べながら、ぼんやり見ていた。醤油をかけるか、ソースをかけるかで、父と言い合いながら。母が、早く食べなさい、と言いながら。社会科の地図帳の、最初のページにもあった。教室の壁にも、貼ってあった。
線はところどころ歪んでいて、ところどころ太すぎたり、細すぎたりした。何度も何度も、意味もわからないまま書き写されてきた線だった。それでも、伊織にはわかった。間違えようがなかった。北の菱形。長い弓。弓の下の二つの島。弓の真ん中あたりの、太平洋側に小さく食い込んだ湾。
自分のいた国の、海岸線だった。
「イオリさん?」
リシュエンヌの声が、ずいぶん遠くから聞こえた。
伊織は、手を伸ばした。触ってもいいかと聞くのを忘れていた。リシュエンヌは何も言わずに、紙を伊織のほうへ少し寄せた。伊織は指先で、弓の線をなぞった。北から南へ。紙はかさかさと乾いていて、指先に、墨のかすかなざらつきが伝わってきた。
頭の中の何かが、また、すっと身を引こうとした。考えなくていい、と誰かが言った。目覚めてから、何度もそう言われてきた気がした。けれど今度は、それがうまくいかなかった。逃げていこうとするものの尻尾を、伊織の指先が、紙の上で押さえてしまっていた。
地理は、同じだった。
ここは、どこか知らない別の世界ではなかった。自分のいた世界だった。同じ海岸線の内側の、同じ土の上だった。トネの村の女たちの、崩れた言葉。土の下の石の舗装。非常用、と書かれた箱。ラムネの玉。眼鏡のレンズ。電柱の碍子。全部が、ひとつの線でつながっていた。
自分の世界の、はるか未来なのだ。
伊織の知っていた世界は、千五百年前の大異変で滅んでいた。千五百年。父の運転する車で施設へ向かったあの日は、そのさらに前にある。父も、母も。缶コーヒーも、グミの袋も。家の前の電柱も、数学の先生も、クラスの、名前もよく知らない女子たちも。全部、千五百年よりももっと前に。
伊織は、紙から指を離した。
指先が冷たかった。火のそばにいるのに、指先だけが、ひどく冷たかった。
どのくらいそうしていたのか、わからなかった。
気がつくと、肩に何かがかかっていた。しゃり、と小さな音がした。見ると、銀色の布だった。レーナが、腰の袋から出して広げ、伊織の肩にかけてくれていた。
「毛布だから」
レーナは言った。いつか伊織が言ったのと、同じ言い方だった。
伊織は、うん、と言った。言ったつもりだったが、声になったかどうかはわからなかった。
リシュエンヌは、何も言わなかった。黙って、火に枯れ枝をくべた。それから、地図の写しを、もとのとおりに丁寧に畳んで、本のあいだに戻した。
布の内側で、伊織は、上着の物入れに手をやった。硬くて小さなものが、そこにあった。目覚めた日から、ずっとそこにあった。伊織はそれを、布の上から強く握った。
戻るべき世界は、もうどこにもないのかもしれない。
頭のどこかで、誰かがそう言っていた。とても静かな、穏やかな声だった。伊織は、その声を聞かないようにした。
そんなはずはない、と思った。何か、あるはずだ。自分が眠っていたあの施設には、まだ入っていない部屋がいくつもあった。扉の枠だけが並んでいた、あの暗い廊下。あの奥に、何か記録が残っているかもしれない。ほかにも、同じような場所があるかもしれない。千五百年前に何が起きたのかがわかれば、戻る方法だって。
戻る方法なんてものが、本当にあるのかどうか、伊織にはわからなかった。わからないまま、あるはずだと思った。そう思っていなければ、ここに座っていることさえできない気がした。自分が生きていけるのは、あの世界だけだ。目玉焼きに何をかけるかで言い合える、あの朝の居間だけだ。ほかの場所で、どうやって生きていけばいいのか、伊織には見当もつかなかった。
隣で、レーナが膝を抱えていた。銀色の布の端が、レーナの膝にもかかっていた。レーナは何も聞かなかった。聞かずに、ただ、伊織の隣に座っていた。
明け方、伊織は少しだけ眠った。
目を覚ますと、リシュエンヌはもう起きていて、小屋の外で、川のほうを向いて立っていた。両の手のひらを上に向けて胸の前で重ね、軽く頭を垂れていた。祈っているのだと、伊織にもわかった。その背中は、昨日、石を投げられていたときと少しも変わらず、ただ静かだった。
祈りを終えて振り返ったリシュエンヌに、伊織は言った。
「古いものが、たくさん残っているところを、知っていますか」
リシュエンヌは、少し考えてから頷いた。
「いくつか、知っています。どこも、人の寄りつかないところですけれど」
「行きたいんです。探しているものがあって」
何を探しているのかとは、リシュエンヌは聞かなかった。かわりに、
「では、ご一緒しましょう」
と言った。昨日の夜と、同じ言い方だった。
レーナが小屋から出てきて、銀色の布を、四つに折り、それをまた半分に折り、角を揃えて、腰の袋にしまった。それから、首に布を巻き直した。今度は、昨日ほどきつくは巻かなかった。
三人は、川べりの道を歩き出した。町の壁が、朝の光の中で、少しずつ後ろへ遠ざかっていった。
レーナは、もう少しも足を引きずっていなかった。足が治るまで、とレーナが言ったことを、伊織は覚えていた。レーナも、たぶん覚えていた。どちらも、そのことを口にしなかった。
前を歩くリシュエンヌの衣の裾が、朝露に濡れて、色を濃くしていた。伊織は、上着の上から、もう一度だけ物入れを押さえた。それから、手を離して、二人のあとを追った。
もう、来た道を戻ることはできなかった。戻ったところで、そこにはもう、何もないのかもしれなかった。それを確かめるためにも、伊織は前へ歩くしかなかった。




