銀色の毛布
煙のところまでは、思っていたよりもずっと遠かった。
丘をひとつ越えれば着くと思っていた。越えてみると、その向こうにまた同じような丘があって、煙はさっきと少しも変わらない遠さで、白く細く立ち上っていた。足の裏はとうに痛みを通り越して、ほとんど何も感じなくなっていた。ときどき立ち止まって見下ろすと、草の汁と土と、それから自分の血で、指の股まで黒く汚れていた。
途中で一度、草の上に寝転んだ。少し休むつもりだったのが、気がつくと空の色が変わっていた。目を開けるのが、なんとなく怖かった。開けたらまた、天井が割れているのではないかと思った。天井はなかった。空があるだけだった。伊織はそのことに、なぜだか少しだけ安心した。
村に着いたのは、日が傾きかけたころだった。
丘の斜面に、低い家が二、三十ほど、肩を寄せ合うようにして並んでいた。壁は土と木でできていて、屋根には干からびた草が厚く葺いてある。家々のまわりをぐるりと木の柵が囲んでいて、その柵の切れ目のところに、伊織が遠くから見ていた煙の元があった。石を積んだかまどに大きな鍋がかけられ、その下で火が燃えていた。
鍋のそばに、女が三人いた。
三人とも、膝の下まである生成りの服を着て、腰のところを紐で縛っていた。頭には色の褪せた布を巻いている。そのうちのひとりが伊織に気づいて、手にしていた木の杓子を止めた。ほかの二人も顔を上げた。
伊織は柵の外で立ち止まった。何か言わなければいけないと思った。何と言えばいいのかはわからなかった。それで、すみません、とまず言ってみた。
女たちは顔を見合わせた。
「……なんだって」
いちばん年かさの女が言った。言った、のだと思う。声の調子は、確かに何かを聞き返すときのものだった。けれど言葉そのものは、伊織の耳には、どこか遠い土地の、それもずっと年寄りの話す方言のように聞こえた。なんだって、の「な」が妙に長く、語尾が喉の奥で丸く潰れている。
「すみません。ここは、どこですか」
伊織は一語ずつ区切って言った。年かさの女は眉を寄せ、伊織の顔と、水色の検査着と、汚れた裸足を順に眺めた。それから、隣の若い女に何か言った。若い女が笑った。笑われたのだということは、言葉がわからなくてもよくわかった。
「どこって、ここはここだよ」
年かさの女が言った。今度は少しはっきりと聞き取れた。伊織に合わせて、ゆっくり話してくれたのかもしれない。
「トネの村だ。あんた、どっから来た」
トネ、と伊織は繰り返した。聞いたことがあるような気もしたし、ないような気もした。どこから来たのか、と聞かれて、伊織は振り返った。草の海と、そのずっと向こうの丘があるだけだった。あの緑の丘のような建物は、もう見えなかった。
「あっちの、建物から」
伊織が指さすと、女たちの顔から、すっと笑いが引いた。
若い女が何か小さく呟いて、左手の親指と人差し指で丸い輪を作り、それを額に当てた。もうひとりの女も、少し遅れて同じことをした。年かさの女だけはしなかったが、杓子を握る手に力が入ったのが伊織にもわかった。
「古いもんのとこには、近寄っちゃなんねえ。呪われてっから」
そのとき、かまどの火が、ぱち、と爆ぜた。若い女が慌てて鍋の下を覗き込み、それから、何でもないことのように右手を薪の隙間へ差し入れた。火は消えかけていた。女の手のひらが、ぼう、と橙色に光った。光ったと思ったら、そこから小さな炎がこぼれ落ちるようにして、湿った薪の端に移った。薪はしばらくくすぶって、それから、勢いよく燃え上がった。
女は手を引き抜いて、前掛けでぱんぱんと払った。火傷ひとつしていなかった。
伊織は、しばらくその場から動けなかった。
手品だ、と思おうとした。どこかに仕掛けがあるのだ。ライターのようなものを指のあいだに隠していて、それで。けれど女は、伊織のほうを見てもいなかった。誰かに見せようとしてやったことではなかった。台所でガスの火をつけるのと同じくらいの、どうでもいい手つきだった。
「なんだ、魔法も見たことねえのか」
年かさの女が言った。呆れたというより、少し気の毒そうな声だった。
「どんだけ田舎から来たんだか」
伊織は何も言えなかった。マホウ、という言葉が、頭の中でうまく字にならなかった。
背後で、地面が鳴った。
振り返ると、柵の外の道を、馬が三頭、こちらへ向かって歩いてきていた。乗っているのは男たちで、三人とも、腰に長いものを下げていた。鞘に収まっていても、それが何なのかはわかった。剣だった。テレビの時代劇で見たことのある刀とは違って、まっすぐで、幅が広かった。
女たちが、すっと道の脇へ退いた。退きながら、伊織の腕を年かさの女が引いた。引かれるまま、伊織も柵のそばへ寄った。
男たちは村のほうを見もせずに通り過ぎていった。いちばん後ろの馬の鞍から、太い縄が一本垂れていた。縄の先は、歩いている男の両手首につながっていた。
伊織と同じくらいの背丈の、痩せた男だった。上半身は裸で、肩から背中にかけて、古い傷の跡が何本も斜めに走っていた。馬が少し足を速めると、男はつんのめりそうになりながら、黙って小走りについていった。首の付け根に、赤黒い痣のようなものがあった。痣にしては、形が整いすぎていた。輪の中に、短い線が二本。焼いて押したものだと、伊織には少し遅れてわかった。
馬の蹄の音が遠ざかるまで、誰も口をきかなかった。
「あれは」
伊織が言いかけると、年かさの女は、ふん、と鼻を鳴らした。
「奴隷だよ。どっかの屋敷から逃げたのが、捕まったんだろ」
女はそれだけ言うと、伊織の顔を見た。それから、伊織の首筋に手を伸ばして、検査着の襟をぐいと引き下げた。乾いた指だった。伊織は驚いて身を引いたが、女はもう手を離していた。
「印はねえな」
女は言った。
「なら、自由民か。そんな格好で。追い剥ぎにでも遭ったか」
伊織は曖昧に頷いた。頷いておくほうが、説明するよりもずっと楽だった。
年かさの女は、伊織を自分の家へ連れていった。
土間と、板を張った小さな部屋がひとつあるきりの家だった。女は奥から、くたびれた麻の上着と、膝までの丈のズボンと、藁を編んだ履物を出してきた。どれも男物だった。
「倅のだ。もう着るもんもいねえから」
女はそう言っただけで、それ以上は何も言わなかった。伊織も聞かなかった。上着からは、長いあいだ箪笥にしまわれていたもの特有の、かすかに黴びた匂いがした。祖母の家の押し入れの匂いに似ていた。
着替えるとき、伊織は検査着の胸のポケットから、あの硬くて小さなものをそっと取り出して、上着の内側に縫いつけられた物入れに移した。女は鍋の前にしゃがんでいて、こちらを見ていなかった。
女は木の椀に、薄い麦の粥をよそってくれた。塩の味しかしなかった。それでも伊織は、椀の底を舐めるようにして食べた。食べているあいだに、少しずつ、女の言葉が耳に馴染んできた。知らない言葉ではなかった。知っている言葉が、知らない形に崩れているだけだった。長いあいだ雨ざらしにされた看板の文字を読むのに似ていた。
女はいろいろなことを話した。この辺りの土地はみな領主様のもので、村の者は畑を借りて麦を作っていること。さっきの馬の男たちは、たぶん領主様の兵か、どこかの屋敷の狩り役だということ。狩り役というのは、逃げた奴隷を捕まえて連れ戻すのが仕事の者たちで、たいていは魔法を使うから、関わらないほうがいいということ。
「それと、教会の連中もな」
女は声を落とした。
「西の町じゃ、教会の審問の人らが、おかしな教えを説いて回ってる女を探してるそうだ。異端だとかでな。ついこないだも、この村まで聞きに来た。あんたも、妙なこと聞かれても、知らねえで通しな」
伊織は頷いた。キョウカイ、という言葉もイタン、という言葉も、さっきのマホウと同じで、音のまま頭の中を転がっていった。若い女たちが額に当てていた指の輪のことを、伊織は思い出した。
「今は、何年ですか」
粥の椀を置いて、伊織は聞いた。女はきょとんとした顔をした。
「何年って、何がだ」
「今年は、何年なのか」
「今の陛下になって、十と二年だろ」
女は、それがどうした、という顔をしていた。伊織は、そうですか、と言った。言ってから、ありがとうございます、と付け足した。女は少しだけ笑った。そんな丁寧な口のきき方をする者は、この辺りにはいないのだと言った。
村の者たちが伊織を気味悪がっていることは、言われなくてもわかった。「古いもんのとこ」から来た男を、家の中に泊めるわけにはいかない。それで女は、村の外れの、林に面した納屋を貸してくれた。干し草が積んであって、隅のほうに、使われなくなった鋤が立てかけてあった。
「明日の朝には、出ていきな」
女は言った。冷たい言い方ではなかった。そのほうが、あんたのためだ、というような言い方だった。
納屋の戸口に腰を下ろして、伊織は林のほうを眺めていた。日が沈みかけていて、木々の影が長く伸び、地面の色が少しずつ濃くなっていく。藁の履物は足の傷に擦れて痛かったが、裸足よりはずっとましだった。
魔法、と伊織は思った。王様のいる国。剣を下げて馬に乗る男たち。焼き印を押された人間。
考えようとすると、またあの、頭の中の何かがすっと身を引いて逃げていく感じがした。伊織は上着の上から、内側の物入れを押さえた。硬いものが、そこにあった。
そのとき、林の奥で、枝の折れる音がした。
走っても走っても、足音は遠ざからなかった。
レーナは、木の根につまずいて膝をついた。手のひらに、湿った落ち葉と小石が食い込んだ。立ち上がろうとすると、右の足首に鈍い痛みが走った。三日前に川を渡ったときに挫いたところだった。
背後で、男の声がした。
「おうい。もう、いいだろう」
ドルンの声だった。怒鳴ってはいなかった。むしろ、のんびりしていると言ってもいいくらいの声だった。そのほうが、ずっと怖かった。
「どこへ逃げたって同じだ。おまえの首には、旦那様の印がある」
レーナは首筋に手をやった。そこにある盛り上がった皮膚の感触を、指はもう、目をつぶっていても探り当てることができた。十年前、七つのときに押された印だった。
木々のあいだに、橙色の光がちらついた。ドルンの手のひらの火だった。あの火は、薪に火をつけるためだけのものではない。闇の中で、生き物の温もりのあるほうへ、ゆらりと首を傾ける。ドルンはそれで、これまでに何人もの逃げた奴隷を見つけてきた。レーナは、屋敷の裏庭で、連れ戻された者たちがどうなったのかを何度も見ていた。
立たなければ、と思った。
立って、走らなければ。けれど足が言うことをきかなかった。足首の痛みのせいだけではなかった。どこかで、もういい、と思っている自分がいた。どこへ逃げても同じだ。ドルンの言うとおりだ。この首の印がある限り、自分の居場所など、この世界のどこにもないのだ。
そう思ったとき、目の前の茂みが揺れて、知らない男が顔を出した。
レーナと同じくらいの年の、男の子だった。くたびれた麻の上着を着て、藁の履物を履いていた。村の者だろうか、とレーナは思った。それにしては、顔つきがどこか違った。日に焼けていない、妙につるりとした顔だった。
男の子は、レーナを見て、それからレーナの背後の、ちらつく橙色の光を見た。
何か言った。早口で、うまく聞き取れなかった。村の言葉とも、町の言葉とも違っていた。男の子はもう一度、今度はゆっくりと言った。
「大丈夫?」
レーナは答えられなかった。答える前に、男の子が手を伸ばして、レーナの手を握った。
手を握られたのは、いつ以来だろう、とレーナは思った。屋敷では、誰もレーナの手など握らなかった。腕を掴まれることはあった。襟首を掴まれて引きずられることもあった。けれど、こんなふうに、指と指を絡めるように手を握られたことは、一度もなかった。
男の子は、レーナの手を引いて走り出した。
なぜ走っているのか、伊織にはよくわからなかった。
わかっていたのは、目の前にうずくまっていた女の子が、ひどく怯えていたということだけだった。泥だらけの、裸足の女の子だった。栗色の髪を首のあたりで乱暴に切っていて、その首筋に、昼間見た男と同じ印があった。輪の中に、短い線が二本。
逃げた奴隷だ、と頭のどこかが言った。関わらないほうがいい、と年かさの女は言った。それでも伊織の手は、もう女の子の手を握っていた。頭で考えるよりも先に、そうしていた。伊織の目には、彼女は、ただ怯えた同じ年頃の女の子にしか見えなかった。クラスの、名前もよく知らない女子が、駅の階段で誰かに絡まれていたら、きっと同じことをしただろう。たぶん。いや、本当のところは、わからない。
女の子は足を引きずっていた。伊織はその腕を自分の肩に回させて、ほとんど抱えるようにして走った。藁の履物が片方脱げた。拾っている暇はなかった。
背後で、ごう、と音がした。
振り返ると、少し離れた木の幹が燃えていた。炎は幹をなめるように駆け上がり、梢の葉を一瞬で黒く縮らせた。その明かりの中に、男の姿が浮かび上がった。痩せた、背の高い男だった。赤茶けた髪を後ろで束ね、右の手のひらを、こちらへ向けて掲げていた。手のひらの上で、小さな火の玉がくるくると回っていた。
「なんだ、おまえは」
男が言った。伊織に向かって言ったのだとわかった。
「どこから湧いて出た。妙な顔だな。その娘をこっちへ寄越せば、見なかったことにしてやる」
伊織は答えなかった。答える代わりに、女の子を抱えたまま、斜面を転がるように駆け下りた。
斜面の下に、それはあった。
灰色の、四角い塊だった。半分以上が土に埋もれ、残りの半分も蔦と苔に覆われていたが、角の線がまっすぐすぎた。自然の岩は、こんなふうにはならない。伊織は、目覚めた施設を思い出した。あれと同じものだ、と思った。何の建物だったのかはわからない。けれど、誰かが、ずっと昔に建てたものだ。
壁に、窓だった穴が開いていた。伊織は女の子を先にそこへ押し込み、自分も体をねじ込んだ。
中は真っ暗だった。湿った土と、古い水の匂いがした。手探りで進むと、床にはガラスの破片のようなものが散らばっていて、裸足のほうの足の裏が、また切れた。女の子が、短く息を呑むのが聞こえた。
「ここに、いれば」
伊織は小声で言った。言いながら、それが嘘だということもわかっていた。男は、すぐにここを見つけるだろう。斜面に、二人ぶんの足跡が残っている。
「だめ」
女の子が、かすれた声で言った。初めて聞く彼女の声だった。
「ドルンの火は、温かいほうに向く。隠れても、見つかる」
伊織は女の子の顔を見た。暗くて、表情はよくわからなかった。ただ、その声が少しも震えていないことが、かえって伊織をぞっとさせた。もう、何度もこういう目に遭ってきた人の声だった。
温かいほうに向く。伊織はその言葉を頭の中で繰り返した。温もりを探す火。熱を見る目。そういうものが、昔、何かの番組で、と考えかけて、やめた。今はそれどころではなかった。
暗さに目が慣れてくると、部屋の中の様子が少しずつ見えてきた。壁際に、錆びた金属の棚が倒れていた。その奥の壁に、扉のついた、背の低い箱のようなものが埋め込まれていた。箱の扉には、文字が書いてあった。
伊織は這うようにして近づき、指で表面の泥を拭った。塗料はほとんど剥げ落ちていたが、赤い文字の跡が、かろうじて読み取れた。
非常用。
伊織は、しばらくその三文字を見つめていた。目覚めた施設の、錆びた案内表示を思い出した。あのときは二文字しか読めなかった。今度は、その続きまで読めた。
扉は錆びついていて、なかなか開かなかった。伊織は爪を立て、肩で押し、最後には足で蹴った。鈍い音がして、扉が内側へ傾いた。中には、灰色の袋のようなものが、いくつか押し込まれていた。袋は湿気でぶよぶよになっていたが、そのうちのひとつを破ると、中から、手のひらほどの大きさの、薄くて平たい包みが出てきた。
包みはつるつるしていた。ビニールの感触だった。伊織は歯で端を噛み切った。
中から出てきたものを広げると、それは暗がりの中で、かすかに光った。
銀色の、薄い、しゃりしゃりと音を立てる布のようなもの。伊織はそれが何なのかを知っていた。小学校の避難訓練のときに、体育館で、先生が広げて見せてくれたことがある。こんなに薄いけれど、体の熱を逃がさないんだよ、と先生は言った。災害のときに、毛布の代わりになるんだよ。クラスの誰かが、ポテトチップスの袋みたい、と言って、みんなが笑った。
熱を、逃がさない。
「こっち」
伊織は女の子の腕を引いて、部屋のいちばん奥の、崩れた壁の陰に座らせた。それから自分もその隣に体を押し込み、銀色の布を、二人の頭の上からすっぽりとかぶせた。布は思っていたよりも大きかった。端を足の下に敷き込み、隙間ができないように、内側から押さえた。
「なに、これ」
女の子が小さな声で言った。怯えた声だった。ドルンの火の話をしたときよりも、ずっと怯えていた。
「古いもん。呪われて」
「大丈夫」
伊織は言った。
「これは、毛布だから」
言ってから、ずいぶん間の抜けたことを言ったと思った。けれど女の子は、それきり黙った。銀色の布の内側で、二人の息が重なり、少しずつ温かくなっていった。布が、しゃり、と小さく鳴った。伊織は息を止めた。女の子も止めた。
窓の穴のほうから、橙色の光が差し込んできた。
光はゆっくりと部屋の中を這い回った。床の破片を照らし、倒れた棚を照らし、壁の箱を照らした。伊織は布の隙間から、その光を見ていた。手のひらの上で、火の玉が回っていた。火は、迷うように、右へ揺れ、左へ揺れた。けれど、こちらへは傾かなかった。
「……いねえな」
男の声がした。
しばらく、何の音もしなかった。伊織は自分の心臓の音が、布の外まで聞こえているのではないかと思った。隣で、女の子が伊織の袖を握っていた。強く握っていた。
「気味の悪いとこだ」
男が、ぺっと唾を吐く音がした。
「まあいい。足を挫いてる。そう遠くへは行けねえ。それに、あの小僧。あんな妙なのが一緒なら、どこへ行っても目立つ。町まで先回りしときゃ済む話だ。なんなら、あの小僧ごと教会に突き出してやってもいい。呪われたとこから湧いて出たってな」
足音が遠ざかっていった。光も遠ざかっていった。やがて、何も聞こえなくなった。
それでも二人は、長いあいだ、銀色の布の中から出なかった。
布から顔を出したとき、外はもう夜になっていた。
窓の穴から、月の光が斜めに差し込んでいた。部屋の中は、さっきよりも少しだけ明るく見えた。女の子は、膝を抱えて座ったまま、伊織の手元の銀色の布を見ていた。
「それ、本当に、呪われてない?」
「呪われてないよ。毛布だって言ったでしょ」
「毛布は、もっと重い」
女の子は真面目な顔で言った。伊織は少しだけ笑った。目覚めてから、初めて笑ったような気がした。
「わたし、レーナ」
女の子が言った。それから、少し迷うように間を置いて、
「あなたは」
と聞いた。
「伊織。桐生伊織」
「イオリ」
レーナは、その名前をゆっくりと口の中で転がすように言った。イ、の音が少し高く、オリ、が少し低かった。伊織の知っている自分の名前とは、ほんの少しだけ違う響きだった。それでも、名前を呼ばれたのは、目覚めてから初めてだった。桐生伊織さん、と呼んでくれるはずだった人の代わりに、泥だらけの女の子が、自分の名前を呼んでいた。
レーナはしばらく黙って、伊織の顔を見ていた。それから、ぽつりと言った。
「わたしを、人みたいに扱ったのは、イオリが初めて」
伊織は、何と答えればいいのかわからなかった。人みたいに、という言い方が、胸のどこかに小さく引っかかった。人みたいに、ではなくて、人だろう、と言おうとした。言わなかった。言ってしまえば、それはとても簡単な言葉になってしまう気がした。簡単に言えることを、この子は十年かかっても、誰にも言ってもらえなかったのだ。
「手を、握ってくれた」
レーナはそう付け足して、自分の右手を見下ろした。伊織も、つられて自分の右手を見た。何の変哲もない手だった。
部屋の隅の、床の乾いたところで火を焚いた。
レーナは腰の小さな袋から、黒っぽい石と、平たい鉄の切れ端を取り出した。それを打ち合わせると、細かな火花が散って、乾いた枯れ葉の上に落ちた。レーナが顔を近づけて、そっと息を吹きかける。煙が上がり、やがて小さな炎になった。
「魔法、使わないの」
伊織が聞くと、レーナは首を振った。
「使えない。使える人と、使えない人がいる。わたしは、使えない」
「僕も使えない」
「知ってる」
レーナはあっさりと言った。
「使えたら、あのとき使ってた」
それはそうだ、と伊織は思った。
二人は、小さな火を挟んで座った。火は頼りなく揺れて、そのたびに壁の影が伸びたり縮んだりした。レーナが、腰の袋からもうひとつ、固く干した黒いパンのかけらを取り出して、半分に割って伊織に差し出した。自分のぶんのほうが、少しだけ小さかった。伊織は、それに気づかないふりをして受け取った。
レーナは、少しずつ話した。
生まれたのは、ずっと北のほうの村だった。七つのとき、親が借金のかたにレーナを売った。それから十年、西の町の大きな商家で、台所の下働きをしていた。旦那様は、奴隷を殴らないことで有名な人だった。殴らない代わりに、言うことをきかない者はすぐに売った。鉱山や、もっと悪いところへ。
「わたしも、売られるところだった」
レーナは火を見ながら言った。
「だから、逃げた」
ドルンは、その旦那様に雇われている狩り役だった。魔法で、火を出す。火を、温かいほうへ向けて、逃げた者を探す。これまでドルンから逃げきった者を、レーナは一人も知らなかった。
「ドルンは、町に先回りするって言ってた」
「うん」
「だから、町には行けない」
レーナはそう言って、膝を抱える腕に力を込めた。
「行くところ、あるの」
伊織が聞くと、レーナはしばらく黙っていた。
「ない」
それから、小さな声で続けた。
「自由民になりたい。首の印があっても、証文があれば、自由民になれる。お金を払うか、偉い人に許してもらうか。そうしたら、誰にも追いかけられないで、どこかで、普通に暮らせる」
言い終えて、レーナは少し笑った。笑ったというより、口の端が少し動いただけだった。
「でも、そんなの、無理。奴隷に証文をくれる偉い人なんか、いない。わたしみたいなのが、安心して生きていける場所なんて、どこにもない」
自分に言い聞かせるような言い方だった。言い聞かせることに、すっかり慣れてしまった人の言い方だった。
「イオリは?」
聞かれて、伊織は火を見た。
どこから話せばいいのか、わからなかった。眠っていたこと。目が覚めたら、天井が割れていたこと。父と母のこと。目玉焼きのこと。どれも、この火のそばで口にすると、まるで作り話のように聞こえる気がした。
「眠ってたんだ」
伊織は言った。
「長いあいだ、眠ってて。起きたら、誰もいなくて。家に、帰りたいんだけど、帰り方がわからない」
レーナは伊織の顔をじっと見ていた。わかったような顔でも、わからないような顔でもなかった。ただ、聞いていた。
「イオリの家は、どこにあるの」
「わからない」
伊織は正直に言った。言ってから、その言葉の重さに、自分で少し驚いた。わからない。家がどこにあるのか、わからない。そんなことが、本当にあるのだろうか。
「でも、手掛かりはあると思う。さっきの、あの箱みたいな、古いもの。ああいうのが、どこかにまだ残ってるなら、それを辿っていけば、何かわかるかもしれない」
「古いもん」
レーナは、伊織の膝の上で畳まれている銀色の布をちらりと見た。
「町の市場で、売ってる。古いもんのかけら。呪われた石って言って、捨て値で。誰も使い方を知らないから、魔除けに買う人がいるくらい」
「市場」
「いくつも町を回れば、いろんなのがあると思う」
レーナはそう言ってから、はっとしたように口をつぐんだ。町には行けない、と言ったのは、ついさっきのことだった。
火が、ぱち、と爆ぜた。
伊織は、銀色の布を膝の上で広げて、また畳んだ。しゃり、と乾いた音がした。
「一緒に、行かない?」
伊織は言った。言ってから、自分がそう言ったことに少し驚いた。
「ドルンが待ってる町じゃなくて、別の町。僕は、家への手掛かりを探す。レーナは、安心して暮らせる場所を探す。証文をくれる人だって、どこかにいるかもしれない」
「いない」
「探してみないと、わからない」
レーナは、伊織を見た。それから、首を横に振った。それから、もう一度伊織を見た。
「イオリは、変な人」
「よく言われる」
嘘だった。そんなことを言われたことは、一度もなかった。どちらかといえば、目立たない、普通のやつだと言われるほうが多かった。けれどここでは、自分は変な人なのだろう、と伊織は思った。魔法を見たこともなく、王様が何年目かも知らず、呪われた古いものを、毛布だと言い張る男だった。
レーナは、しばらく火を見つめていた。長いあいだ、黙っていた。伊織は、断られるのだろうと思った。それでもいい、と思おうとした。
「足が治るまで」
やがて、レーナが言った。
「足が治るまでなら、一緒に行く」
頑固な言い方だった。伊織は、うん、と頷いた。それで十分だった。
レーナが眠ってしまったあと、伊織は一人で火の番をしていた。
レーナは、伊織の渡した銀色の布にくるまって、壁にもたれて眠っていた。最初は気味悪がって触ろうともしなかったのに、伊織がくるまって見せると、しぶしぶといった様子で受け取り、端のほうを少しずつ体に巻きつけていった。今は、頭のてっぺんまですっぽりとかぶっている。ときどき寝返りを打つたびに、しゃり、しゃり、と音がした。ポテトチップスの袋みたい、と言った誰かの声を、伊織は思い出した。誰だったか、どうしても思い出せなかった。
伊織は、上着の内側の物入れに手をやった。
硬くて小さなものが、そこにあった。伊織はそれを、布の上から握った。握ったまま、壁の、あの箱の扉の文字を見た。
非常用。
ずっと昔、誰かがこの建物の壁に、この箱を埋め込んだ。いつか来るかもしれない非常のときのために。その誰かは、千年も先の、どこから来たのかもわからない男と、首に焼き印を押された女の子が、これにくるまって身を隠すことになるとは、思ってもいなかっただろう。
千年、と考えて、伊織は首を振った。千年なんて、そんなはずはなかった。そんなに長く眠っていたら、自分はとっくに死んでいる。父も母も。
伊織は、その先を考えなかった。考えないように、火に枯れ枝を一本くべた。
ドルンの言っていた教会、というものが、伊織には少し気にかかっていた。昼間、村の女たちが額に当てていた指の輪。異端の女を探している審問の人たち。どれも、自分には関わりのないことのはずだった。それでも、あの小僧ごと教会に突き出してやってもいい、と言ったドルンの声は、耳の奥にいつまでも残っていた。
夜明け前、伊織は少しだけ眠った。夢は見なかった。
目を覚ますと、レーナがもう起きていて、銀色の布を、膝の上で丁寧に畳んでいた。四つに折り、それをまた半分に折り、角をきちんと揃えている。屋敷の台所で、毎朝、布巾をそうやって畳んでいたのかもしれなかった。
「これ、イオリの」
レーナは、畳んだ布を差し出した。
「いいよ。レーナが持ってて」
レーナは少し迷って、それから、布を腰の袋の中へ大事そうにしまった。しまってから、
「呪われてないなら」
と、小さく付け足した。
外へ出ると、林の向こうの空が白んでいた。昨日、ドルンの火に焼かれた木の幹が、斜面の上で黒く焦げていた。伊織は、レーナに肩を貸して歩き出した。ドルンの待つ町とは、反対の方角だった。どちらが北で、どちらが南なのかも、伊織にはまだよくわからなかった。わかるのは、隣に誰かがいるということだけだった。
片方だけ残った藁の履物が、歩くたびに、ぱた、ぱた、と間の抜けた音を立てた。レーナがそれを聞いて、少しだけ笑った。




