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割れた天井の向こう

 目を開けると、天井が割れていて、そこから空が見えた。

 白い天井だったはずだ。少なくとも伊織が最後に見たときには白かった。平たい照明のパネルが等間隔に並んでいて、そのうちのひとつだけが、ときどき思い出したように小さく瞬いていた。あれ、替えたほうがいいですよ。そう言おうとして、結局言わなかった。言う前に、甘いような苦いような薬の匂いが鼻の奥まで来て、それきりになった。

 その天井が、今は斜めに裂けている。裂け目の縁からは細い蔓が何本も垂れ下がっていて、その向こうを、雲がひとつ、急ぐでもなく流れていく。

 伊織はしばらく、それを眺めていた。眺めるほかに、することがなかった。

 体が動かなかったわけではない。ただ、動かしていいものかどうかがわからなかった。目が覚めたら係の人が来て、桐生伊織さん、と名前を呼ばれて、ゆっくりでいいですからね、と言われる。そういう段取りになっていた。説明は何度も受けた。コールドスリープ、という言葉を、伊織はその説明で初めて自分のこととして聞いた。いつ起こすのかは決まっていません、と職員は言った。決められないんです、とも言った。高校二年の、夏休みが終わったばかりの頃だった。母などは、説明する職員の口元をじっと見つめながら、ときどき自分でも同じ言葉を小さく繰り返していた。ゆっくりでいいですからね。まるで、自分が言われているみたいに。

 誰も来なかった。

 耳を澄ますと、どこかで鳥が鳴いていた。チチ、チチ、と短く切るような鳴き方で、聞いたことがあるような気もするし、ないような気もした。

 眠りに落ちる前に聞いた機械の低い音を、伊織はまだ耳の奥で覚えている。冷蔵庫のモーターを何倍にも太くしたような、ぶうん、という音だった。床からも壁からも、自分の寝ている台の底からも、その音は来ていた。体の芯まで揺らされているようで、最初は少し気持ちが悪かった。慣れたころには、もう目を開けていられなくなっていた。

 その音が、今はしない。

 代わりに聞こえるのは鳥の声と、どこかでぽたぽたと水の垂れる音と、それから自分の呼吸だけだった。息を吸うと、喉の奥がざらついた。湿った土の匂いがした。雨上がりの公園の、植え込みのそばを通ったときの匂いに似ていた。

 カプセルの蓋は、半分だけ開いていた。

 透明な樹脂の蓋が、途中で何かに引っかかったように斜めに浮いたまま止まっている。表面は白く曇り、細かい傷が縦横に走っていた。その隙間から、外の冷たい空気が入り込んできている。自動で開くはずだった。開いたら係の人が覗き込んで、名前を呼ぶはずだった。

「すみません」

 声は出なかった。正確に言えば、出たのは声というより、空気が喉にこすれる音だった。伊織は二、三度咳き込んで、唾を飲み込もうとした。口の中が乾いていて、飲み込むものがなかった。

「すみません。誰か、いませんか」

 今度は少しだけ声になった。声は割れた天井へ抜けていき、どこからも返ってこなかった。

 伊織は肘をついて、上半身を起こした。それだけのことに、ずいぶん時間がかかった。腕が自分のものではないような気がした。重いのではなく、遠い。命令してから動き出すまでに、ほんのわずかな間がある。カプセルの縁に手をかけると、指先にぬるりとしたものが触れた。見ると、縁に沿って緑色の苔がびっしりと生えていた。

 伊織は手を引っ込めて、それから、なぜかもう一度その苔に触った。柔らかかった。湿っていて、少しだけ冷たかった。

 半分開いた蓋の隙間から、どうにか体を外へ出した。床に足をつけた途端に膝が折れ、伊織はそのまま横向きに倒れた。痛いというより、驚いた。床が思っていたよりもずっと近くにあった。

 倒れたまま、伊織は床を見た。

 白いタイルの床だったはずだ。それが今は、ところどころ盛り上がり、割れ、その割れ目から木の根が這い出していた。太いもので、伊織の手首くらいはある。根は部屋の隅から伸びてきて、タイルを押し上げ、伊織の寝ていたカプセルの台座の下にまで潜り込んでいた。まるで、カプセルを抱きかかえようとしているみたいだった。

 壁にも苔が這っていた。天井の裂け目から差し込む光が当たるあたりだけ、苔の緑が濃い。かつて何かの機械が並んでいたらしい壁際には、赤茶色に錆びた塊がいくつか転がっているだけで、それが何だったのか、もうわからなかった。画面だったらしい黒い板が一枚、壁から外れて床に落ち、その上に土が薄く積もっていた。

 伊織は、しばらく床に頬をつけたまま動かなかった。

 どういうことだろう、と思った。思ったけれど、その先を考えようとすると、頭の中の何かがすっと身を引くようにして逃げていった。考えなくていい、と誰かに言われている気がした。それで伊織は、考える代わりに、自分の着ているものを見た。

 薄い水色の検査着だった。眠る前に着せられたものだ。胸のところに小さなポケットがついていて、伊織はそこに手をやった。

 あった。

 指先に、硬くて小さなものが触れる。角の丸い、手のひらにすっぽり収まるくらいの、慣れた感触だった。眠る前、これだけは持っていたいと言ったとき、看護師の女の人は少し困った顔をして、それから、ポケットに入れておけばいいよ、誰にも言わないから、と笑った。伊織はそれを取り出しはしなかった。取り出して確かめなくても、それが何なのかはわかっている。ただ、布の上から、ぎゅっと握った。

 握っているうちに、少しだけ呼吸が落ち着いた。

 伊織はゆっくりと体を起こし、カプセルの縁につかまって立ち上がった。今度は倒れなかった。膝が小刻みに震えていたが、立っていることはできた。

 部屋には、伊織のカプセルがひとつあるきりだった。

 入口には扉がなかった。正確に言えば、扉があったはずの場所に、枠だけが残っていた。伊織は壁に手をつきながら、その枠をくぐった。

 廊下は薄暗かった。天井の一部が崩れ落ちていて、瓦礫の山がところどころ道をふさいでいる。その隙間を縫うようにして、伊織は進んだ。足の裏に、砂や小石の感触が直に伝わってくる。裸足だった。

 壁の高いところに、金属の板が一枚、斜めにぶら下がっていた。案内表示だったのだろう。矢印らしい形と、文字の切れ端のようなものがかすかに残っているが、ほとんどは錆に食われて読めなかった。伊織は背伸びをして、その板に顔を近づけた。かろうじて読めたのは、「非常」という二文字だけだった。その先に何と書いてあったのかは、わからない。伊織は、非常、と口の中で一度だけ言ってみた。言ってみると、ずいぶん間の抜けた言葉に聞こえた。

 廊下の両側には、同じような扉の枠がいくつも並んでいた。どの部屋も暗く、中はよく見えなかった。伊織はその前を通るたびに、すみません、と声をかけた。声をかけるたびに、返事がないことを確かめる形になった。三つ目の部屋の前で、伊織は声をかけるのをやめた。中を覗こうかと思って、やめた。覗いて何かを見てしまうことのほうが、誰もいないことよりも、ずっと怖いような気がした。

 廊下の突き当たりの壁が、大きく崩れていた。そこから白い光が射し込んでいる。伊織は瓦礫に手をかけ、膝をつき、這うようにしてその穴を抜けた。

 外に出た途端、光が目に刺さった。

 伊織は思わず顔を腕で覆い、しばらくそのまま立ち尽くしていた。瞼の裏が赤く、熱い。やがて腕を少しずつ下ろしていくと、目の前に、草の海が広がっていた。

 腰のあたりまである草が、見渡すかぎり続いていた。風が吹くと、その表面が一斉に傾き、銀色に光って、また戻る。ところどころに、草に埋もれるようにして灰色の石の塊が突き出していた。四角いもの、崩れて斜めになったもの、ひとつながりに長く伸びているもの。伊織はそれを、しばらくのあいだ石だと思って見ていた。それから、ふと、あれは建物だったのではないかと思った。思ったけれど、やはりその先は考えなかった。

 振り返ると、自分がたった今出てきた建物が見えた。灰色の、低く平たい建物だった。屋根の半分は崩れ落ち、壁という壁に蔦が絡みついて、遠目には大きな緑の丘のように見えた。建物の脇からは一本の木が伸び、その枝が、崩れた屋根の上に覆いかぶさっていた。伊織の部屋の天井を割ったのは、たぶんあの木だったのだろう。

 ここへ来た日のことを、伊織は思い出そうとした。

 父の運転する車で来た。助手席には母が座り、伊織は後ろの席で、窓の外ばかり見ていた。施設の前には広い駐車場があって、道を挟んだ向かいにはコンビニがあった。車を降りると、父が、ちょっとコーヒー買ってくる、と言って、ひとりで道を渡っていった。母は、こんなときに、と呆れたように言ったが、戻ってきた父の手には、缶コーヒーのほかに、伊織の好きなグミの袋が握られていた。食べられないのは知ってるけど、起きたら食べればいいだろ、と父は言った。

 その駐車場も、コンビニも、どこにもなかった。

 コンビニがあったはずのあたりには、ひときわ背の高い木が何本も立っていて、その根元に、赤く錆びた細い柱が一本、斜めに突き刺さっていた。何かの看板の柱だったのかもしれないし、そうでないのかもしれなかった。

 伊織は、その柱をじっと見ていた。

 十年、と思った。いや、十年でこんなふうになるだろうか。二十年。三十年。木がこんなに太くなるには、どれくらいかかるものなのだろう。学校で習ったような気もするし、習わなかったような気もする。わからなかった。わからないということだけが、はっきりとわかった。

 どれくらい眠っていたのか、彼にはわからない。それが千六百年だということを、このときの伊織はまだ知らない。

 急に、喉が渇いていることに気がついた。腹も減っていた。体のほうが先に、ここで生きていくための段取りを始めているようだった。伊織はそのことに、少しだけ腹が立った。こっちはまだ、何ひとつ飲み込めていないのに。

 草をかき分けて、建物の裏手へ回った。どこかで水の流れる音がしていた。音をたどっていくと、石の塊のあいだを縫うように、細い流れがあった。水は澄んでいて、底の小石がよく見えた。伊織は膝をつき、両手ですくって、少しだけ口に含んだ。冷たかった。歯に沁みた。それから、ほとんど何も考えずに、何度も何度もすくって飲んだ。

 顔を上げたとき、遠くの草むらが、がさりと大きく揺れた。

 伊織は息を止めた。

 風ではなかった。風なら、草は一斉に同じ方向へ傾く。揺れたのは一か所だけで、その揺れは、草の海の中をゆっくりと移動していった。何か大きなものが、草の下を歩いている。犬や猫の大きさではない。もっと低く、もっと長い。揺れはしばらく続き、やがて遠ざかって、見えなくなった。

 伊織はしばらく、水の中に手を浸したまま動けなかった。指先が冷たさで痺れてきて、ようやく我に返った。

 なんだったんだろう、と思った。猪とか、そういうものだったのかもしれない。たぶんそうだ。伊織はそう決めて、立ち上がった。決めてしまえば、それ以上は考えずに済んだ。

 そのとき、それが見えた。

 草の海のずっと向こう、なだらかな丘の稜線のあたりに、一本の細い煙が立ち上っていた。白く、まっすぐに、風のない空へ伸びていく。最初は雲かと思った。けれど目を凝らすと、その根元は確かに地面から出ていて、ゆらゆらと揺れながら、少しずつ形を変えていた。

 煙だった。

 火を焚いている、と伊織は思った。火を焚くのは人だ。少なくとも、伊織の知っているかぎりでは、そうだった。

 伊織は、その煙をしばらく見つめていた。遠かった。どれくらい歩けば着くのか、見当もつかなかった。裸足で、検査着一枚で、まともに立っていることさえやっとの体で、あそこまで行けるのかどうかもわからなかった。

 それでも、ここにいるよりはましだと思った。

 振り返れば、緑の丘のようになったあの建物がある。あの中に戻れば、少なくとも雨はしのげる。けれど、あそこにいても誰も来ない。それだけは、もうわかっていた。ゆっくりでいいですからね、と言ってくれる人は、あそこにはいない。

 母は今ごろ、どうしているだろう、と伊織は思った。父は。考えた途端に、胸の奥がきゅっと縮んだ。伊織は慌てて、別のことを考えようとした。眠る前の晩、母が作った目玉焼きのことを思い出した。伊織は醤油派で、父はソース派で、毎朝のように同じことで言い合っていた。最後の晩だけ、なぜか母は夕飯に目玉焼きを出した。父は黙って醤油をかけ、伊織は黙ってソースをかけた。母は、それを見て、少し泣いた。

 そんなことを思い出すつもりではなかった。

 伊織は検査着の胸のポケットを、もう一度握った。硬くて小さなものが、そこにあった。まだあった。

 帰るんだ、と伊織は思った。

 あの煙のところに誰かがいて、その人に聞けば、ここがどこなのかがわかる。どれくらい時間が経ったのかもわかる。父と母がどこにいるのかもわかる。わかれば、帰れる。帰る場所を探しに行くのだ。それだけのことだ。伊織は自分に、そう言い聞かせた。

 どこへ帰るのか、とは考えなかった。

 伊織は草の中へ一歩踏み出した。草の葉が脛をこすり、細かな傷をいくつもつけた。足の裏で、何か硬いものを踏んだ。見下ろすと、草の根元に、灰色の石が平らに敷き詰められているのがかすかに見えた。道だったのかもしれない。かつて、父が缶コーヒーを買いに渡っていった道だったのかもしれない。

 伊織はその上を、煙のほうへ歩き出した。

 背後で、さっきと同じ鳥が、チチ、チチ、と短く鳴いた。振り返らなかった。空は高く、雲はさっきよりも少しだけ遠くなっていた。


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