曲がり角の鏡
坂の下の町には、その日、市が立っていた。
門の前の広場から、町の壁に沿って、露店が長く続いていた。地面に布を広げただけの店もあれば、木の台に板の屋根をかけた店もあった。麦の袋、干した魚、鉄の鍋、刈ったばかりの羊の毛。驢馬が鳴き、どこかで子どもが泣き、誰かが値段のことで大きな声を出していた。トネの村の静けさにも、東の町の壁の外の夕暮れにも似ていなかった。昼の光の中で、何もかもが少しずつ騒がしかった。
「人の多いところのほうが、かえって目立たないものです」
リシュエンヌが言った。
西へ向かう道は、この市の中を抜け、壁の角を曲がった先へ続いているのだという。壁の外を大きく回り込む道もあるにはあった。けれど、そちらは畑のあいだのまっすぐな一本道で、遠くからでもよく見えた。三人が並んで歩いていれば、なおさらだった。
レーナは、首の布を巻き直した。それから、伊織とリシュエンヌのあいだに入って、二人の陰になるように歩いた。
食べるものは、もうほとんど残っていなかった。領地を抜けるあいだ、三人はリシュエンヌの干した豆を少しずつ分けて食べていた。それも、昨日の夜で終わった。
リシュエンヌが、衣の内側から、小さな布の袋を出した。中に、すり減った銅貨が三枚入っていた。
「これで、パンくらいは買えるでしょう」
「それは、リシュエンヌさんのじゃないんですか」
「わたしのものは、神様のものです。神様のものは、みんなのものです」
リシュエンヌはそう言って、銅貨を伊織の手のひらに載せた。三枚とも、縁が欠けていた。伊織は、腰紐の布切れの中の五円玉のことを、ちらりと思った。思っただけだった。出したところで、ここでは何も買えない。
リシュエンヌは、門には近づけなかった。レーナも、人の集まるところには近づかないほうがよかった。だから、買いに行くのは伊織だった。
壁の根元には、浅い溝が掘られていた。
溝の中には、いろいろなものが捨てられていた。割れた瓦、しなびた野菜の葉、獣の骨。その中に、灰色のものや、赤く錆びたものや、妙にすべすべしたものが、いくつも混じっていた。伊織には、遠目にもわかった。古いものだった。
「町の中から出た古いものは、ここへ捨てることになっているのです」
リシュエンヌが言った。
「壁の内側に置いておくと、町に呪いが入るからと、教会の方々がおっしゃって」
伊織は、溝の縁で足を止めた。止めるつもりはなかった。足のほうが、勝手に止まった。
取っ手のついた、白い陶器のかけら。黒くて平たい、ゴムのようなものの切れ端。何かの蓋。それから、溝のいちばん底に、丸い板が一枚、斜めに落ちていた。人の顔より、ふた回りほど大きかった。縁を囲む枠に、橙色の塗料が、わずかに残っていた。板の表面は泥をかぶっていたが、泥の切れ目の、まるくふくらんだところに、空が映っていた。白い雲がひとつ、小さく、ゆがんで映っていた。
カーブミラーだった。
家の近くの、坂を下りきったところの曲がり角に、同じものが立っていた。自転車で坂を下りてくると、その鏡の中に、角の向こうから来る車や、犬を連れた近所の人が、小さく、まるく映った。夏の午後には、ときどき、鏡に日が当たって、目がくらんだ。鏡の前で止まって覗き込むと、自分の顔が、真ん中だけ大きく膨らんで、ひどく間抜けに映った。
伊織は、しばらく、溝の底の空を見ていた。
これも、と思った。これも、もう何の役にも立たない。曲がり角も、車も、自転車も、もうどこにもない。鏡だけが、千六百年ぶんの泥をかぶって、町の壁の下で空を映している。
ふと、袖を引かれた気がした。振り返ると、レーナが、少し離れたところに立っていた。袖を引いたのではなかった。ただ、伊織のほうを見ていた。伊織と目が合うと、レーナは、何でもないというふうに目をそらした。
「行ってくる」
伊織は言った。レーナは、うん、と言った。
レーナとリシュエンヌは、壁際の、屋根のかかった空き店の陰で待つことになった。伊織は、銅貨を握って、市の人ごみの中へ入っていった。
黒パンを売っている店は、市の真ん中あたりにあった。
台の上に、丸くて硬そうなパンが積んであった。店の主は、太った年寄りの女だった。伊織は、台の前で、何と言えばいいのか少し考えた。考えてから、言った。
「これを、二つ、いただけますか」
女は、目を丸くした。それから、腹を揺すって笑った。
「いただけますか、だって。どこのお坊ちゃんだい、あんた」
隣の店の男も笑った。その隣の女も、こちらを見た。伊織は、顔が熱くなるのを感じた。レーナがいたら、直してくれただろう。ちょうだい、と言えばいいのだと。いや、今のレーナは、直してくれなかったかもしれない。
女は、笑いながらパンを二つ、伊織の腕に押しつけた。伊織は、銅貨を二枚、台の上に置いた。
「おうい」
背後で、声がした。
怒鳴ってはいなかった。のんびりした声だった。市の騒がしさの中で、その声だけが、妙にはっきりと耳に届いた。
伊織は、振り向けなかった。振り向かなくても、誰の声なのかはわかった。あの林の、暗がりの中で聞いた声だった。
「やっぱりだ。久しぶりだな、妙な顔」
酒を売る店の前に、樽がいくつか並んでいた。その樽のひとつに、男が腰かけていた。痩せて、背が高かった。赤茶けた髪を、後ろで束ねていた。手に、木の杯を持っていた。
ドルンだった。
「触れにはな、娘のことだけじゃねえ。おまえのことも、言って回っといたんだよ」
ドルンは、杯の中身を飲み干して、樽から下りた。
「きれいすぎる口をきく、つるりとした顔の小僧。どこの町の市でも、そういうのが来たら教えろってな。そしたら、どうだ。教えてもらうまでもねえ。いただけますか、だとよ」
まわりの店の者たちが、少しずつ後ずさった。パンの女は、もう笑っていなかった。
「娘はどこだ」
伊織は、答えなかった。答えないつもりだった。けれど、目が、勝手に動いた。壁際の、屋根のかかった空き店のほうへ。ほんの一瞬だった。
ドルンは、伊織の目の動いたほうを見た。それから、にやりと笑った。
「正直な顔だ」
門のほうが、騒がしくなった。
人ごみが、波が引くように左右に割れた。割れたところを、黒い衣の男が三人、歩いてきた。いちばん前の男は年を取っていて、背が低く、胸のところに、銀色の輪の飾りを下げていた。後ろに、槍を持った町の兵が四、五人ついていた。
市の者たちが、次々に額に指の輪を当てた。審問の、という声が、どこかでした。
「領主様のお使いから、知らせをいただきましてね」
年寄りの男が、誰に言うともなく言った。静かな、柔らかい声だった。
「領地の村で、足に鎖をつけた者も神の前では同じだと、そういうことを言って回った女がいた。灰色とも茶色ともつかない衣を着た女が、こちらの道へ下りていった、と」
男の目が、壁際のほうへ向いた。
空き店の陰から、リシュエンヌが出てきていた。レーナの前に立つようにして、そこに立っていた。逃げようとはしていなかった。いつもと同じ、穏やかな顔をしていた。
ドルンが、ひゅう、と口笛を吹いた。
「こいつは、たまげた。審問のお方。そっちの女は、あんたがたの獲物ですかい」
「あなたは」
「西の町の商家に雇われてる、狩り役のドルンってもんで。その女の後ろにいるのが、うちの旦那様の逃げた娘でさあ。女は、あんたがたに。娘は、こっちに。それで、どうです」
年寄りの男は、少しのあいだ、ドルンの顔を見ていた。それから、小さく頷いた。
「よろしいでしょう」
二人のあいだで、何かが決まった。伊織の知らない言葉で、伊織の知らない取り決めが交わされたように聞こえた。
「それと、こいつ」
ドルンが、顎で伊織を指した。
「これは、何です」
「さあね」
ドルンは肩をすくめた。
「どこから来たのかもわからない男でさあ。トネの村の外れの、呪われた古いもんの穴から、湧いて出やがった。気味の悪いもんを持ってるかもしれねえ。なんなら、あんたがたで持ってってくれていい」
年寄りの男は、伊織を見た。値踏みをするような目ではなかった。もっと静かな、もう決まったことを確かめるような目だった。男は、額に指の輪を当てた。
ドルンが、右の手のひらを上に向けた。
手のひらが、橙色に光った。光の中から、拳ほどの火がふくらんだ。昼の光の下では、林の暗がりで見たときほど明るくは見えなかった。それでも、その火は、ゆらりと首を傾けた。伊織のほうへ。
「ほら見ろ。火も、おまえのほうを向く。生きてる証拠だ。よかったな」
ドルンは、ゆっくりと伊織に近づいてきた。伊織は、パンを抱えたまま、一歩も動けなかった。
逃げなければ、と思った。どこへ。レーナとリシュエンヌのいるほうへ逃げれば、二人を連れていくことになる。反対へ逃げれば、二人を置いていくことになる。火を出すこともできない。剣も持っていない。槍の兵が、壁際のほうへ回り込もうとしていた。伊織にできることは、何もなかった。
手が、上着の上から、内側の物入れを握っていた。
「それだ」
ドルンが言った。
「おまえ、さっきから、胸のとこばっかり握ってるな。お守りか。古いもんか」
伊織は、手を離そうとした。離れなかった。
「さっき、壁の溝のとこで、ずいぶん熱心に古いもんを眺めてたな。おれは、ここからずっと見てた。おまえは、溝ばっかり見てた。あの娘のほうは、一度も見なかった」
ドルンは、伊織のすぐ前で足を止めた。火が、伊織の顎の下で、ちりちりと鳴った。熱かった。
「あの娘はな、ずっと、おまえの背中を見てたぞ。ありゃあ、もう戻る気でいる顔だ。何人も連れ戻してきたおれが言うんだ。間違いねえ。おまえは、見てなかったんだろう」
見ていなかった。
伊織は、坂の上で見なかった横顔のことを思った。川のほとりで、ガラスのかけらを指先で回していた手のことを思った。帰れたら、帰る、と聞かれて、考えもせずに答えたことを思った。
「古いもんなんかに縋って、どこへ行く気だ。そんなもん握ってたって、何にもならねえよ。おまえみたいなのはな、どこへも行けねえ。どこから来たのかもわからねえ男は、どこへも帰れねえんだ」
ドルンは、笑った。声を立てずに、口の端だけで笑った。
どこへも帰れない。
その言葉は、千六百年という数よりも、ずっと重く胸に落ちた。ドルンは、何も知らないはずだった。冷たい箱のことも、慰霊碑の数字のことも。何も知らない男が、何も知らないまま、いちばん痛いところを、正確に指でつついていた。
空き店の陰から、レーナは、それを見ていた。
ドルンの火が、伊織の顎の下で揺れていた。伊織は、パンを二つ抱えたまま、棒のように立っていた。胸のところを、片手で握っていた。あの廃墟で、銀色の布をかぶせてくれたときの伊織とは、別の人のように見えた。いや、とレーナは思った。別の人ではない。あのときの伊織も、きっと、こんなふうに怖かったのだ。怖かったのに、手を引いてくれたのだ。
槍の兵が、こちらへ回り込んでくるのが見えた。黒い衣の年寄りが、リシュエンヌのほうを見ていた。
わたしがいるからだ、とレーナは思った。
わたしがいなければ、ドルンはここにいない。ドルンがいなければ、伊織は、あんなところで、あんなふうに立っていなくて済む。井戸の陰の女の声が、耳の奥でした。逃げたって、印は消えないからね。消えないのなら、逃げても同じだった。同じなら、せめて、二人を巻き込まずに済むほうがよかった。
レーナは、首の布の上から、印を押さえた。それから、手を下ろした。
「行く」
声がした。
レーナだった。レーナは、空き店の陰から出てきていた。リシュエンヌの横をすり抜けて、ドルンのほうへ歩いてきた。
「レーナ」
伊織が呼んだ。レーナは、伊織を見なかった。ドルンだけを見ていた。
「わたしが、戻る。だから、イオリとリシュエンヌは、関係ない」
声は、震えていなかった。林の中で、ドルンの火は温かいほうへ向く、と言ったときと、同じ声だった。何度も、こういう目に遭ってきた人の声だった。
「物わかりのいい娘だ」
ドルンは、伊織の前から離れて、レーナのほうへ向き直った。
「旦那様は、物わかりのいいのがお好きだ。鉱山へ売るのは、少し待ってもらえるかもしれねえぞ」
レーナの足が、一瞬だけ止まった。止まって、また動いた。
伊織は、声を出そうとした。出なかった。喉の奥で、何かが固まっていた。レーナが一歩、ドルンに近づくたびに、それが少しずつ大きくなった。
そのとき、リシュエンヌが、前に出た。
急いではいなかった。いつも、分かれ道で空を見上げてから歩き出すときと、同じ足どりだった。リシュエンヌは、レーナを追い越し、レーナとドルンのあいだに入って、ドルンの前に立った。ドルンの手のひらの火が、リシュエンヌの顔のすぐ前で揺れていた。
「神様は、この方を、ひとしく愛しておられます」
リシュエンヌは言った。大きな声ではなかった。それなのに、市の端から端まで、よく通った。
「首に印を押されたこの方も、印を押したお屋敷の方も、神様の前では、みな同じです。そして、あなたのことも。火を手にして、人を探して歩いておられるあなたのことも、神様は、ほかの誰とも同じように、愛しておられます」
ドルンの顔から、笑いが消えた。
「何を言ってやがる」
「神様のお言葉を、お伝えしているのです」
市の者たちが、ざわめいた。異端だ、と誰かが言った。それが合図になったように、あちこちから声が上がった。黒い衣の年寄りが、兵たちに何か言った。兵たちが槍を構えて、リシュエンヌのほうへ進みはじめた。人ごみが、そちらへ押し寄せた。石を拾う者がいた。額に指の輪を当てる者がいた。誰も彼もが、リシュエンヌを見ていた。ドルンでさえ、リシュエンヌを見ていた。
誰も、伊織を見ていなかった。
空が、明るかった。
日は、ほとんど真上から、少しだけ西へ傾いていた。雲は、ひとつしかなかった。溝の底の鏡に映っていた、あの雲だった。
伊織は、パンを放り出した。
溝までは、十歩もなかった。伊織は溝の縁に膝をつき、底へ手を伸ばした。指先が、枠の縁に触れた。重かった。両手で引き上げると、泥がぼたぼたと落ちた。伊織は、上着の袖で、鏡の表面をこすった。こすった跡から、空が、まるく、大きく、映りはじめた。
カーブミラーの面は、外へ向かってふくらんでいる。だから、狭い鏡の中に、広いものが映る。曲がり角の向こうの、見えないはずの道まで。逆に言えば、どこから覗いても、どこか一点に、必ず空が映る。日の光は、まっすぐ一本に跳ね返るのではなく、扇のように広がって、前にいる誰の目にも届く。
それを、伊織は知っていた。知っているのは、この市で、伊織ひとりだった。
伊織は、溝の縁に積まれた瓦礫の上に立った。鏡を、頭の上に掲げた。日の光の来るほうと、人ごみのほうとを、肩越しに一度だけ確かめて、鏡の面を、ゆっくりと傾けた。
光が、跳ねた。
鏡の真ん中に、小さな、白い、燃えるような点が生まれた。日だった。日が、鏡の中に、もうひとつあった。その光が、市の人ごみの上に、扇のように広がった。
最初に声を上げたのは、パンの女だった。
「古いもんが、光った」
人々が振り返った。振り返った者から順に、目を押さえた。鏡は、どこから覗いても、その者の目に、日を返した。
「目玉石だ」
誰かが叫んだ。
「目が潰れるぞ。見るな、見るな」
悲鳴が上がった。人ごみが、今度は反対へ押し寄せた。露店の台がひっくり返り、麦の袋が裂けた。驢馬が跳ね上がり、手綱を振りほどいて駆け出した。兵の槍が、人の肩にぶつかって傾いた。黒い衣の年寄りが、額に指の輪を当てたまま、顔を背けた。その後ろの二人は、衣の袖で顔を覆って、その場にしゃがみ込んだ。
ドルンが、こちらを向いた。
伊織は、鏡をドルンのほうへ傾けた。
ドルンの目に、日が入った。ドルンは、短くうめいて、火を持っていないほうの腕で目を覆った。手のひらの火が、大きく揺れた。揺れて、ぶわりと膨らみ、それから、しぼんだ。持ち主の目がくらんで、火のほうも、どちらを向けばいいのかわからなくなったようだった。
「レーナ!」
伊織は叫んだ。自分の声だとは思えないほど、大きな声だった。
レーナは、人ごみの中で立ちすくんでいた。リシュエンヌが、その背中を、両手で押した。レーナがよろけて、伊織のほうへ二、三歩、出た。
伊織は、鏡を溝の中へ放った。鏡は、泥の上に仰向けに落ちて、また空を映した。伊織は瓦礫から飛び降り、人と人のあいだを抜けて、レーナの手をつかんだ。
あの林で、理由もわからないまま引いた手だった。今は、理由がわかっていた。
「リシュエンヌさん!」
リシュエンヌは、兵のひとりに、衣の袖をつかまれていた。そのリシュエンヌの手を、レーナが、伊織に引かれていないほうの手で、つかんだ。引いた。兵の手から、灰色の袖が抜けた。兵は、まだ片目を押さえていた。
三人は、走った。
壁に沿って、ひっくり返った台を跳び越え、散らばった麦の上を踏んで、壁の角を曲がった。背後で、ドルンが何か怒鳴っていた。初めて聞く、怒鳴り声だった。のんびりした声ではなかった。
どこをどう走ったのか、伊織には、あとになっても思い出せなかった。
気がつくと、三人は、川べりの葦の茂みの中にいた。町の壁は、もう見えなかった。日が傾いて、川の水が、赤く光っていた。
リシュエンヌは、葦のあいだに膝をついて、肩で息をしていた。一度だけ、小さく咳をした。それきりだった。顔を上げると、いつもの穏やかな顔に戻っていた。
「火は、焚けない」
レーナが言った。
「ドルンの火は、温かいほうを向く。焚いたら、見つかる」
レーナは、腰の袋から、銀色の布を出した。四つに折り、それをまた半分に折った、角の揃った布だった。レーナはそれを広げた。しゃり、と音がした。
三人で入るには、少し小さかった。伊織が真ん中に入り、レーナとリシュエンヌが両側に座った。布の端を足の下に敷き込んで、隙間ができないように、内側から押さえた。リシュエンヌは、布の中で、少し不思議そうな顔をしていた。
「温かいのですね」
「古いもんの、毛布です」
伊織が言うと、リシュエンヌは、まあ、と言って、少し笑った。
暗くなってから、川の向こう岸に、橙色の光が見えた。
光は、ゆっくりと岸辺を動いていた。ときどき立ち止まって、ゆらりと首を傾けた。それから、また動いた。光が向こう岸のいちばん近いところへ来たとき、レーナの肩が、伊織の肩に強く押しつけられた。伊織は、息を止めた。トンネルに入るたびに、母がそうしていたように。
光は、こちらを向かなかった。しばらくして、川下のほうへ、遠ざかっていった。
伊織は、息を吐いた。長いトンネルだった、と思った。
夜は、冷えた。
布の中で、三人は、互いの体温を分け合うようにして座っていた。川の音がしていた。葦が、風に鳴っていた。
伊織の腹が、鳴った。
布の中では、ひどく大きな音に聞こえた。そういえば、パンは市に放り出してきたのだった。銅貨を二枚も払ったのに。伊織がそう思っていると、レーナが、布の中でごそごそと腰の袋を探った。出てきたのは、黒パンだった。ひとつだけだった。土がついて、角が少し潰れていた。
「拾った」
レーナは言った。
「走ってるとき。落ちてたから」
あの騒ぎの中で、いつ拾ったのか、伊織にはまるでわからなかった。リシュエンヌが、まあ、と言って、布の中で小さく笑った。レーナはパンを三つに割った。割り方が下手で、ひとつだけ大きくなった。レーナは、その大きいのを、黙って伊織の手に押しつけた。
硬いパンだった。噛むと、少し酸っぱかった。土の味もした。伊織は、それを、ゆっくり食べた。
「イオリ」
レーナが、小さな声で言った。
「鏡は、何?」
伊織は、少し考えた。
「曲がり角に、立ててあったものなんだ。道が曲がってて、向こうが見えないところに。向こうから来る人や、車……荷車みたいなものが、鏡に映る。それで、ぶつからないで済む」
「ぶつからないように」
「うん。誰かが、誰かとぶつからないように、誰かが立てたもの」
言いながら、伊織は、自分の言ったことを、頭の中でもう一度聞いた。
誰かが、誰かとぶつからないように。
溝の底で見たとき、あれは、もう何の役にも立たないものだった。自分の時代が、どれほど遠くなったかを思い知らせるだけのものだった。けれど、今日、あの鏡は、レーナの手を引く隙を作った。曲がり角も、車も、もうどこにもない世界で、それでも、誰かを守った。
古いものは、帰るための手掛かりではないのかもしれない、と伊織は思った。少なくとも、それだけではない。今、ここで、誰かを守るための道具にもなる。それがどういうものなのかを知っているのは、この世界で、自分ひとりだけだった。魔法を使えない自分が、ここで持っている、たったひとつの力だった。
目覚めてから、知っていることは山ほどあるのに、取り出して使えるものはひとつもないと思っていた。鍵の壊れた物置のようだと思っていた。鍵は、壊れていなかったのかもしれない。自分が、開けようとしていなかっただけで。
「レーナ」
伊織は言った。
「どうして、戻ろうとしたの」
レーナは、すぐには答えなかった。布の中で、レーナの指が、腰の袋の紐に結んだガラスのかけらを探しているのがわかった。
「わたしがいたから、追われた」
しばらくして、レーナは言った。
「わたしがいなかったら、イオリは、どこへでも行ける。リシュエンヌも、ひとりなら、もっと逃げられる。それに」
それに、と言ったきり、レーナは黙った。伊織は待った。リシュエンヌが、話を急かさずに待つときのように。
「イオリは、帰る」
レーナは言った。
「帰る方法が見つかったら、帰る。そしたら、わたしは、どうせ、ひとり。印も、消えない。だったら、早いほうがいいと思った」
伊織は、何も言えなかった。
帰れたら、帰る、とレーナは聞いた。帰るよ、と自分は答えた。考えもせずに答えた。その答えを、レーナは、ひとりで持って歩いていたのだった。峠を下りてからずっと。黙って、首の布を巻き直しながら。
ドルンの言うとおりだった。見ていなかった。見ようとしていなかった。坂の上で、自分は西の空ばかり見ていた。
「ごめん」
伊織は言った。
「ちゃんと、見てなかった」
レーナは、何も言わなかった。けれど、ガラスのかけらを探していた指が止まって、そのかわりに、伊織の上着の袖の端を、つまんだ。
リシュエンヌが、布の反対側で、小さく身じろぎをした。
「リシュエンヌさん」
伊織は言った。
「どうして、前に出たんですか。何も、持っていないのに」
「持っていないから、出られたのです」
リシュエンヌは、暗がりの中で、少し笑ったようだった。
「わたしには、火もありません。槍もありません。だから、神様のお言葉を伝えることしか、できないのです。それしかできないのですから、それをしたまでです」
「怖くなかったんですか」
「怖かったですよ」
リシュエンヌは、あっさりと言った。伊織は、思わず、リシュエンヌのほうを見た。暗くて、顔は見えなかった。
「でも、わたしは、いつか、素晴らしい世界が来ると信じているのです」
リシュエンヌは言った。
「首に印のある人も、ない人も、同じ井戸で、同じように水を汲める世界です。誰も、誰かの足に鎖をつけない世界です。神様のお言葉が、ひとりでも多くの方に届けば、いつか、そういう世界が来ます。わたしは、それを信じて、歩いています。信じていれば、怖くても、前には出られます」
「そんな世界が、本当にあるんですか」
「わかりません」
リシュエンヌは、また、あっさりと言った。
「まだ、誰も見たことがありませんから」
川の音がしていた。
伊織は、レーナにつままれた袖のことを思った。今日、自分の手を引いた、レーナの手のことを思った。灰色の袖を兵の手から引き抜いた、あの手のことを。
帰る方法は、まだ、わからない。施設の、まだ入っていない部屋に、何があるのかもわからない。自分が生きていけるのはあの世界だけだと、今も、どこかで思っている。それでも、と伊織は思った。それでも、今、ここで、自分にできることがあるのなら。
夜が明けると、川の上に、薄く霧が出ていた。
三人は、葦の茂みから出た。
明るいところで見ると、リシュエンヌの衣の右の袖が、肩のつけ根から裂けていた。兵につかまれたところだった。裂け目から、細い腕がのぞいていた。思っていたよりも、ずっと細い腕だった。リシュエンヌは、裂けた袖を指でつまんで、しばらく眺めていた。
「繕えば、まだ着られます」
そう言って、袖の端を、裂け目の内側へ折り込んだ。経典の綴じ糸と同じように、この衣も、何度も繕われてきたのだろうと伊織は思った。よく見ると、裾にも、肘にも、色の違う糸の跡があった。
レーナが、銀色の布を畳んでいた。四つに折り、それをまた半分に折り、角を揃えた。それから、腰の袋にしまった。
リシュエンヌが空を見上げた。分かれ道に来たときと、同じ顔で。
「西へ向かうなら、町を大きく避けて、川を渡ることになります」
リシュエンヌが言った。
「施設には、行きません」
伊織は言った。
レーナが、顔を上げた。リシュエンヌも、伊織を見た。
「今は、行きません」
伊織は、言い直した。
「トネの村の近くは、西の町の近くです。ドルンが待っている町です。そこへレーナを連れていこうとしていたのに、自分は、そのことを、ちゃんと考えていませんでした」
「よろしいのですか」
リシュエンヌが、静かに聞いた。
「よくは、ないです」
伊織は、正直に言った。
「帰ることを、諦めたわけじゃないです。施設は、あそこだけとは限らないかもしれない。ほかにも、同じような場所が、どこかにあるかもしれない。だから、探すのは、やめません。でも、それより先に、したいことがあるんです」
伊織は、レーナを見た。坂の上で見なかった横顔ではなかった。こちらを向いている、レーナの顔だった。
「レーナを、自由民にしたい。証文をもらう方法を、探したい」
「無理」
レーナは言った。すぐに言った。トネの村の外れの、焚き火の夜と同じ言い方だった。
「探してみないと、わからない」
「前にも、そう言った」
「うん」
伊織は頷いた。
「前は、言っただけだった」
レーナは、伊織の顔を、じっと見ていた。何か言いかけて、やめた。それから、首の布に手をやった。巻き直すのかと思った。けれど、レーナは、布の端を一度だけ押さえて、それきり、手を下ろした。
「それと、リシュエンヌさん」
伊織は、リシュエンヌのほうを向いた。
「リシュエンヌさんの言う、素晴らしい世界が、本当にあるのか、見てみたいです。神様のことは、まだ、よくわかりませんけど」
リシュエンヌは、少しのあいだ、伊織の顔を見ていた。それから、両の手のひらを上に向けて胸の前で重ね、軽く頭を垂れた。祈ったのか、礼をしたのか、伊織にはわからなかった。たぶん、その両方だった。
「では、南へ参りましょう」
顔を上げて、リシュエンヌは言った。
「この川に沿って南へ下ると、村がたくさんあります。どの村でも、畑を耕すと古いものがたくさん出てきて、皆さん、困っておられます。呪いだと言って、怖がっておられます」
伊織は、溝の底で空を映していた鏡のことを思った。
「行きます」
伊織は言った。
「それなら、たぶん、僕にもできることがあります」
「僕、じゃなくて、おれ」
レーナが言った。
伊織は、レーナの顔を見た。レーナは、真面目な顔をしていた。
「僕、は、きれいすぎる」
久しぶりに、レーナが伊織の言葉を直した。伊織は、少し笑った。レーナは笑わなかった。けれど、袖の端は、まだつまんだままだった。
三人は、川べりの道を、南へ歩き出した。
霧が、少しずつ晴れていった。伊織は、一度だけ、後ろを振り返った。川の上流の、そのさらに向こうに、西の空があった。目覚めた施設も、トネの村も、ドルンの待つ西の町も、その空の下にあった。
伊織は、上着の上から、内側の物入れを押さえた。硬くて小さなものが、そこにあった。目覚めた日から、ずっとそこにあった。昨日、ドルンの前で、それを握っていた。握っていても、何にもならなかった。
手を離した。
それから、腰紐の布切れの上から、五円玉に触れた。ご縁がありますように、と母の声がした。今度は、どこからした気もしなかった。自分の胸の中から、した気がした。
前を向くと、レーナが、半歩先を歩いていた。いつもは、半歩後ろを歩いていた。レーナは振り返って、伊織がついてきているのを確かめると、また前を向いた。リシュエンヌの衣の裾が、朝露に濡れて、色を濃くしていた。
西の空は、背中のほうにあった。それで、今は十分だった。




