青の境界線。あるいは、僕たちが「遠距離」という名の永遠を誓う時について
結局のところ、空港という場所は、感情の処刑台みたいなものだ。
電光掲示板に並ぶ無機質な数字が、僕たちの「日常」が終わりを迎えるカウントダウンを刻んでいる。
僕、西野和彦は、一ノ瀬佳樹のスーツケースの重さを手に感じながら、免税店の華やかな匂いの中を、まるでお通夜のような足取りで歩いていた。
2032年、盛夏。
海辺でのあの「全員降伏宣言」から数日。
佳樹の海外派遣当日。僕たちは、地元の駅で見送るはずだったのに、気がつけば羽賀杏菜も、和久井檸檬も、柏木小鞠も、全員が成田行きの特急に乗っていた。
「……西野。そんな情けない顔をしないで。……私の論理では、この別れは『再会という名の利息』を生むための、一時的な預金に過ぎないのよ」
佳樹が、搭乗ゲートを前にして僕を振り返った。
彼女の眼鏡の奥は、心なしか潤んでいるように見えた。けれど、彼女は最後まで「有能な弁護士」としての気高さを失おうとはしなかった。
「いい? あなたがこの街で、羽賀杏菜や他の女性とどんな『不適切な関係』を築こうとも、私の戸籍謄本の空欄を埋める権利は、世界で私一人にしかないと覚えなさい。……これは、決定事項よ」
「……一ノ瀬。お前、海外に行っても相変わらずだな。……わかってるよ。お前のその執念、地球の裏側まで届くほど重いってことは」
僕が「やれやれ」を飲み込んで答えると、佳樹はふっと、少女のような弱さを一瞬だけ見せた。彼女は僕の胸に顔を埋め、周囲の目も気にせずに、僕のシャツをぎゅっと掴んだ。
「……忘れないで。……十一年前、屋上で私が泣いていた理由を。……私が、あなたをあきらめなかった理由を。……西野、愛してるわ。法的な定義なんてどうでもよくなるくらい、あなたが好きなの」
佳樹の絞り出すような告白に、僕の胸が締め付けられる。
その時、後ろで控えていた羽賀杏菜が、一歩前に出た。
「……佳樹ちゃん、ずるいよ。最後だけヒロインぶって」
杏菜の目には、大粒の涙が溜まっていた。
「和彦くんは、佳樹ちゃんのものじゃないよ。……でも、佳樹ちゃんがいなくなったら、誰が私の料理にダメ出ししてくれるの? 誰が和彦くんの私生活を厳しく管理してくれるの? ……だから、早く帰ってきて。……帰ってきたら、またみんなで、和彦くんを困らせるんだから」
杏菜の涙が、佳樹のスーツの肩を濡らす。
二人はライバルであり、親友であり、そして同じ「負け戦」を戦い抜いてきた戦友だった。
「わはは! 佳樹、湿っぽいのはそこまでだ!」
檸檬が佳樹の背中を、思い切り叩いた。
「お前がいない間、和彦の隣は私が死守しといてやるよ! 選考会に勝ったら、この街に私の銅像でも建てさせてやるからな!」
「……一ノ瀬、さん。……佳樹さんが、いない……物語、は……筆が進み……ません。……早く、帰って……完結編、を……手伝って……ください……」
小鞠も、眼鏡を拭きながら、小さく、けれど確かに声を震わせていた。
やれやれ。
僕たちは大人になった。
それぞれの道があり、それぞれの戦場がある。
けれど、この四人の絆は、そして僕という不器用な中心点は、十年という歳月を経て、もはや誰にも引き裂けないほど強固な「家族」のような何かに変わっていた。
「……一ノ瀬。行ってこい。……僕たちの『負け戦』は、お前が帰ってくるまで、ちゃんとそのままにしておくから」
僕は、佳樹の額に、自分でも驚くほど自然に指先を触れた。
佳樹は驚いたように目を見開き、それから、これまでで一番美しい、満開の笑顔を見せた。
「……当然よ。……判決を待っていなさい、西野和彦」
彼女は一度も振り返らずに、搭乗ゲートの向こうへと消えていった。
残された僕たちの頭上には、空港の天井を突き抜けるような、不必要なまでに高い、夏の青空。
物語は、いよいよ最後の一話へ。
僕たちの「終わらない青」が、世界を隔ててもなお、同じ空の下で繋がっていることを証明するために。
僕は、杏菜と檸檬、小鞠の手を引きながら、夏の光が溢れるロビーを歩き出した。




