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青の終着駅。あるいは、僕たちが「初恋」を埋葬する夜について

結局のところ、海というものは、すべての「言い訳」を飲み込んでくれる巨大な装置だ。 寄せては返す波の音は、僕の思考を無機質に削り取り、ただ一つの、逃げようのない事実だけを突きつけてくる。 僕、西野和彦は、深夜の海岸線で、十一年前と同じように砂を蹴りながら、羽賀杏菜が来るのを待っていた。


2032年、深夜。 数日前、一ノ瀬佳樹から渡された「海外派遣」の書類の重みが、まだ僕の胸に残っている。 和久井檸檬の震える背中も、柏木小鞠の諦念に満ちた瞳も。 全員が、この夏を最後に、それぞれの「人生」という名の不可逆な流れに身を投じようとしていた。


「……遅くなってごめん、和彦くん」


背後から聞こえた声は、潮風に混じって、驚くほど透明に響いた。 振り返ると、そこには二十八歳の羽賀杏菜が立っていた。 彼女は仕事帰りのスーツを脱ぎ、高校時代によく着ていたような、少しだけ古びたワンピースを纏っていた。 それが、僕を過去へ引き戻そうとする彼女なりの儀式であることは、明白だった。


「……羽賀。こんな時間に呼び出すなんて、お前も相変わらずだな。明日の業務に支障が出たら、僕が窓口で市民に怒鳴られることになるんだぞ」


「ふふ、いいよ。その時は私が、和彦くんの代わりに謝ってあげる。……だって、和彦くんの代わりに謝れるのは、たぶん、世界で私だけだから」


杏菜のその言葉には、かつての「負けヒロイン」としての自虐ではなく、どこか穏やかな、そして決定的な「覚悟」が宿っていた。 彼女は僕の隣に歩み寄り、十一年前と同じように、波打ち際ギリギリのところで足を止めた。


「和彦くん。……私ね、決めたんだ。……この街を出ようと思う」


心臓の鼓動が、一瞬だけ止まったような気がした。 佳樹だけじゃない。この街の「日常」を支えていたはずの杏菜までが、僕の手の届かない場所へ行こうとしている。


「……そうか。キャリアアップか? それとも、新しい生活か?」


「違うよ。……和彦くんを、諦めるためだよ」


杏菜の言葉は、鋭利な刃物のように僕の胸を切り裂いた。 「二十八歳の私はね、和彦くん。十一年前の私よりも、ずっと臆病になっちゃった。……和彦くんが『やれやれ』って言いながら私の隣にいてくれるだけで、私はそれだけで幸せだった。でも、それじゃダメなんだって、佳樹ちゃんや檸檬ちゃんを見てて気づいちゃったの」


杏菜が僕の顔を見つめる。その瞳には、月光を反射した涙が、今にもこぼれ落ちそうに溜まっていた。 「和彦くん。あなたはいつも、私たちの『負け戦』を見守る審判のフリをして、自分だけは傷つかない安全な場所にいたよね。……でも、もう終わり。私たちはみんな、大人として、自分の『勝ち』を取りに行かなきゃいけないんだよ」


やれやれ。 結局、追い詰められているのは、僕の方だったんだ。 彼女たちの情念を「面倒くさい」と笑い飛ばすことで、僕は自分自身の「本当の気持ち」から、十一年間も逃げ続けてきた。


「……羽賀。僕は、お前がいない日常なんて、想像したこともなかったよ」


「……嘘。和彦くんは、想像するのが怖かっただけでしょ?」


杏菜が、僕のシャツの袖を、あの頃よりもずっと弱い力で握った。 その微かな震えが、僕の「大人」という名の防壁を、跡形もなく粉砕していく。


「……西野! 羽賀! お前ら、何勝手に『最終回』みたいな空気作ってんだよ!」


突風のように、和久井檸檬が堤防から飛び降りてきた。 その後ろには、息を切らした一ノ瀬佳樹と、不敵な笑みを浮かべた柏木小鞠もいた。 「いいか、和彦! 私たちの『負け戦』は、誰か一人がいなくなって終わるような、そんな安っぽいレースじゃないんだよ!」


佳樹が眼鏡を直し、僕の前に立ちはだかる。 「西野。私が東京……いいえ、海外へ行くとしても、それはあなたを解放するためじゃない。地球の裏側からでも、あなたを法的に、そして感情的に支配し続けるための準備よ。……逃げられると思わないことね」


小鞠が、手帳を閉じ、僕を真っ直ぐに見据えた。 「……和彦、さん。……私の、物語の……タイトル、変更……です。……『負けヒロインが、全員で……あなたを、奪い合う……地獄の、始まり』……です。……覚悟、してください……」


夜明け前の海。 杏菜の涙が、朝焼けの光を吸い込んで、一瞬だけ青く輝いた。


僕は、四人の「負けヒロイン」たちに囲まれながら、人生で最大級の、そして最高に清々しい溜息をついた。 「……やれやれ。僕の人生は、どうやら死ぬまで『延長戦』が続くらしいな」


大号泣の結末。それはまだ、ここにはない。 けれど、僕たちは今、十一年間という長い「停滞」を、ようやく自らの足で踏み越えた。 物語は、いよいよ加速する。 十光年先の約束が、今、僕たちの目の前で、眩しいほどの現実へと形を変えようとしていた。

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