青の不在証明。あるいは、鉄の処女(アイアン・メイデン)が流した「法の外」の涙について
結局のところ、僕たちは「変化」という言葉を恐れすぎていた。 タイムカプセルを開け、十年前の青い熱量を共有したことで、すべてが元通りになると錯覚していたんだ。 僕、西野和彦は、市役所の資料室で、埃の舞う静寂の中に身を潜めていた。
2032年、盛夏。海辺の再会から一週間。 日常という名の砂嵐が、あの夜の劇的な告白を少しずつ削り取っていく。 けれど、僕の手元には、一通の重い封筒が残されていた。一ノ瀬佳樹から「個人的な精査を求める」と渡された、彼女の海外派遣の内示書だ。
「……西野。そこで息を潜めていても、あなたの二酸化炭素排出量は計算済みよ」
背後から、冷徹なヒールの音が響く。一ノ瀬佳樹だ。 彼女は資料室の重い扉を閉め、僕の逃げ道を塞ぐように立ちふさがった。 二十八歳の彼女は、都内でも有数の若手弁護士。けれど、眼鏡の奥の瞳は、十年前の生徒会室で僕を叱り飛ばしていた頃よりも、ずっと脆く、揺れていた。
「一ノ瀬、これ……本当に行くのか。ニューヨークだろう? 少なくとも三年間は戻れない。お前なら、もっと好条件の国内案件に切り替えることも……」
「……相変わらずね、西野。あなたはいつも、他人の人生の『正解』を、事務的に処理しようとする。……でも、私の人生における最大のエラーは、いつだってあなたなのよ」
佳樹が一歩、詰め寄る。 彼女の指先が僕の胸元を突き刺す。その指が、微かに、けれど明確に震えているのを僕は見た。
「私はね、怖いのよ。……海辺で、私たちは『二周目』だなんて笑い合ったけれど。物理的な距離が、私たちの『執念』を薄れさせてしまうことが。……私が戻ってきた時、あなたの隣に羽賀杏菜が当然のような顔で座っている。その光景を想像するだけで、私の論理体系はすべて崩壊するの」
「一ノ瀬……」
「引き止めなさいよ、西野! ……法的な根拠なんてなくていい。身勝手な独占欲で、私のキャリアを邪魔しなさいよ。……そう言ってくれたら、私はすべてを捨てて、この退屈な街の、あなたの隣に居座ってあげるのに」
佳樹の瞳から、一滴、涙がこぼれ落ちた。 それは、非合理で、非論理的で、最高に「負けヒロイン」らしい、ひたむきな敗北の証だった。
やれやれ。 二十八歳になっても、僕たちは「好き」の一言を、正しく伝える術を持っていない。 僕は、彼女の震える肩に手を伸ばしかけて、止めた。 今、彼女を引き止めることは、彼女が十年間積み上げてきた「戦い」を否定することになる。
「……一ノ瀬。僕は、お前の『有能さ』に甘えていただけなのかもしれない。……でも、これだけは言える。三光年先だろうが、十光年先だろうが、お前のその面倒くさい独占欲から逃げ切れる自信は、僕には一ミリもない」
僕は、彼女の涙を親指で拭った。 「行ってこい。その代わり、ニューヨークの法律の隅々にまで『西野和彦は一ノ瀬佳樹の永久管理下にある』と書き記してくるんだな」
「……当然よ。……利息は高くつくわよ、西野」
佳樹は、泣き笑いのような表情で、僕のシャツに顔を埋めた。 外は、不必要なまでに高い夏の青空。 僕たちの「青」は、今、物理的な境界線を超えて、より深く、より厄介な領域へと踏み出そうとしていた。
物語は終わらない。 この別れさえも、僕たちが「一生かけて負け続ける」ための、壮大なプロローグに過ぎないのだから。




