青の還り道。あるいは、大人たちが「二周目」の号砲を聞く時について
結局のところ、人生における「劇的な瞬間」なんてものは、案外あっさりと日常に溶け出してしまう。
深夜の海でタイムカプセルを開け、十年前の青い熱量にうなされたとしても、朝が来れば僕は市役所のデスクに向かい、彼女たちはそれぞれの戦場へと帰っていく。
僕、西野和彦は、潮風の匂いが微かに残るスーツの襟を正しながら、月曜日の現実という名の重力に身を任せていた。
2032年、夏。再会の夜から数日後。
僕のスマホには、あの夜を境に、明らかに通知の「密度」が変わったグループチャットが存在していた。
「……西野。先日の海辺における感情の噴出、および法的拘束力を伴わない口約束について、私は現在、厳密な議事録を作成中よ。……いい? あなたの『保留』は解除されたけれど、それは同時に、私の『監視フェーズ』が第2段階に移行したことを意味するわ。今週末、東京に戻る前にあなたの家を家宅捜索(片付け)に行くから、鍵を開けておきなさい」
一ノ瀬佳樹からのメッセージは、もはや幼馴染の域を超えて、有能すぎる法務官による最終通告のようだった。
二十八歳になった彼女の独占欲は、もはや「恋」なんていう生易しい言葉では定義できない。それは、僕の人生の全領域を完璧に管理しようとする、一種の国家プロジェクトのような重厚さを備えていた。
「……やれやれ。一ノ瀬のやつ、僕の部屋に盗聴器でも仕掛けるつもりか」
僕がデスクで小さく溜息をつくと、ちょうどお昼休みを告げるチャイムが鳴った。
役所のロビーに向かうと、そこには場違いなほど眩しい笑顔を浮かべた羽賀杏菜が立っていた。
「和彦くん、お疲れ様! ほら、今日は特製の『二周目記念弁当』作ってきたよ。……あ、ちなみに海辺で言った『また明日』の権利、有効期限は一生分に更新しといたからね」
杏菜が差し出した弁当箱。
彼女は地元で働きながら、僕との「距離」を埋めるための努力を、この十年一歩も引かずに続けてきた。
二十八歳になった彼女の「負けヒロイン」としての粘り強さは、もはや一種の芸術の域に達している。
「羽賀……。公務員の昼休憩に、そんな不必要なまでの熱量を持ち込むな。……それに、その弁当の中身、また変な創作料理が入ってるんじゃないだろうな」
「失礼だなあ。中身は食べてからのお楽しみ! ……ねえ、和彦くん。私たち、もう『保留』にする必要、ないんだよね?」
杏菜が僕の顔を覗き込む。
その瞳には、十八歳の頃の迷いはもうなかった。
代わりに宿っていたのは、僕という終着駅に辿り着くための、静かで、けれど揺るぎない覚悟だ。
その時、僕のスマホに新しい通知が届く。
和久井檸檬からだ。
『和彦! 私、次の遠征、お前の街の近くを通るからな! 沿道で旗振って応援しろよ! 負けたらお前のせいだからな!』
さらに、柏木小鞠からも。
『……和彦、さん。……執筆中の、原稿が……詰まりました。……あなたの、溜息を……録音して、送ってください。……それが、私の……ガソリン、ですから……』
やれやれ。
結局、何も変わっていない。
タイムカプセルを開けて、大人としての理性を総動員して対峙したはずなのに、僕は相変わらず、彼女たちの情念という名の包囲網の中にいた。
空を見上げれば、あの頃と同じ、不必要なまでに高い青。
二十八歳の僕は、自分がこの「負け戦」から一生卒業できないことを、ようやく心の底から受け入れ始めていた。
「……わかったよ。羽賀、弁当はいただく。……ただし、午後の業務に支障が出るような味付けだったら、即座に不服申し立てを行うからな」
「ふふ、受けて立つよ! 裁判長は佳樹ちゃんかな?」
僕たちは、市役所のベンチで並んで座った。
かつての教室のように、けれど少しだけ違う、大人の距離感で。
物語は、ここで終わりじゃない。
僕たちの「青」は、今、新しい日常の光を連れて、再びゆっくりと回り始めた。
どうせ、恋してしまうんだ。
十年経っても、二十年経っても、僕はきっと、この騒がしくて愛おしい「負け」を、何度も更新し続けていくんだろう。
僕は、弁当の蓋を開けながら、最高に幸福な、そして最高に面倒くさそうな溜息をついた。




