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卒業前夜、あるいは深夜の校舎に遺した「未完」の契約について

三月。春の足音は聞こえているはずなのに、夜の校舎はまだ冬の残滓を抱き込み、骨の髄まで冷え切っていた。 明日は卒業式。僕たちは、誰が言い出すともなく、深夜の旧校舎へと集まった。警備員の巡回を潜り抜け、使い古された鍵の隙間を抜けて辿り着いたのは、僕たちの「敗北の歴史」が詰まった、あの図書室だ。


「……最後だと思うと、このカビ臭い本の匂いさえも、法的保護の対象にしたくなるわね」


一ノ瀬佳樹が、スマホのライトで書架を照らしながら呟いた。彼女の足音だけが、ワックスの剥げた床に不自然に響く。 「西野。明日の式が終われば、私たちは『高校生』という法的身分を喪失する。それは、これまで守られてきた無邪気な子供のモラトリアムが終了し、一人の人間としての責任が生じるということよ」


「……随分と物々しい卒業の挨拶だな」


「違うわ。これは『宣戦布告』よ。……西野、私は東京へ行くけれど、この図書室の貸出カードに残したあなたの名前は、私がすべて記憶した。あなたが次にどんな本を読み、どんな未来を綴ろうと、私のデータベースからは消去させない」


佳樹は、一冊の古い六法全書を棚から引き抜くと、その中に一枚の紙を挟んだ。 「十年後、二十年後。私たちがもし、道に迷ったらここへ戻ってきなさい。そこに、私の執念こたえを書き残しておいたから」


彼女の瞳は、暗闇の中で鋭く、そして濡れたように光っていた。


「わはは! 湿っぽいのはなしだぜ! ほら、和彦! 最後に校庭を一周走ろうぜ! 誰が一番にゴールするか、勝負だ!」


和久井檸檬が、窓の外の月明かりを浴びて笑った。彼女は制服の上からジャージを羽織り、今にも駆け出しそうな姿勢で僕の腕を掴んだ。 「私さ、本当は怖かったんだ。お前と同じ大学に行けるって決まっても、明日が来たら、全部夢になっちゃうんじゃないかって。……でもさ、こうしてお前の腕の温度を感じてると、まだ走れるって思えるんだ」


檸檬は、僕の手のひらを自分の胸に当てた。 激しく、けれど規則正しく脈打つ心臓の音。それは、彼女が僕というゴールを目指して走り続けてきた、何よりの証明だった。 「和彦。お前がどんなに速く大人になっても、私は絶対に追い越してやる。追い越して、お前の前で立ち止まって、一番いい笑顔を見せてやるからな!」


「……ああ。楽しみにしてるよ」


僕が答えると、檸檬は満足そうに鼻を鳴らし、再び暗い廊下へと駆け出していった。


「……和彦、さん。……私の、……原稿。……最後の、……一文字……。……書いて、……ください」


書棚の影から、柏木小鞠が這い出すようにして現れた。彼女は使い古された万年筆を、震える手で僕に差し出した。 「……これは、……私たちが、……高校生を、……死ぬための……葬送曲レクイエム。……あなたが、……句読点を、……打ってくれなければ……私は、……明日を、……生きられません……」


彼女の原稿には、僕たちが過ごした不器用な日常が、呪詛と慈しみの入り混じった言葉で埋め尽くされていた。僕は彼女の手を包み込むようにしてペンを握り、白紙の末尾に、小さな、けれど確かな点を打った。


「……これで、終わりか?」


「……いいえ。……これは、……次の、……地獄への……入口、です」


小鞠は僕の腕にしがみつき、声を殺して泣いた。その涙が僕のシャツに染み込み、熱を持って広がる。


そして、羽賀杏菜。彼女は、月明かりの差し込む窓際に立ち、遠くの街明かりを見つめていた。 「ねえ、和彦くん。……私ね、十年後の夢、もう一つ見たんだ。……私たちが、本当の家族みたいに、こたつを囲んで笑ってる夢」


杏菜が振り向く。その表情は、いつになく大人びて、けれどどこか儚げだった。 「明日になったら、制服を着た私たちは死んじゃう。でも、私の中にいる『負けヒロインの杏菜』は、ずっと和彦くんを追いかけ続けるよ。……ねえ、約束だよ。どんなに素敵な女の人が現れても、私のこと、一番に『やれやれ』って言ってね」


杏菜は僕のネクタイを整え、その先端に、自分の唇をそっと触れさせた。 それは、どんな言葉よりも重い、未来への呪縛だった。


深夜の校舎。 僕たちは、自分たちの「青」をここに封印し、同時に、永遠に解けない呪いを掛け合った。 明日が来れば、世界は変わる。 けれど、この部屋に残された熱量だけは、僕たちの魂の中に、不滅の灯火として残り続けるのだ。

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