白紙の遺言。あるいは、図書室の隅で物語に幽閉される僕について
「……和彦、さん。……これ、……私の、……心臓の、破片……です」
放課後の図書室。書棚と書棚の隙間、埃の舞う影の中から、柏木小鞠が音もなく現れた。彼女が差し出したのは、数枚の原稿用紙。文字は細かく、ところどころインクが滲み、あるいは指先で強く擦ったような跡がある。
彼女は、学内の一部で密かに「絶望の歌姫」と称されるほどの筆力を持つ。だが、その物語の核心に常に存在するのは、名もなき少年――僕をモデルにした、報われない愛に殉ずる登場人物だった。
「小鞠。心臓を小出しにするな。……これは、新作か?」
「……はい。……でも、……結末……だけ、……書いていません。……いえ、……書けませんでした」
小鞠は、僕の隣に座るのを躊躇うように、少し離れた位置で縮こまった。彼女の着ているカーディガンの袖は、いつもより少し長く、震える指先を隠している。
僕は原稿に目を落とした。そこには、17歳の夏という閉ざされた時間の中で、四人の少女に魂を分け与え、最後には誰のものでもなくなってしまう少年の末路が、残酷なまでの美しさで綴られていた。
「……和彦さん。……物語の中の、……彼は、……自由、です。……でも、……現実の、……あなたは、……私の、……もの……ですから」
「小鞠、さらっと恐ろしいことを言うな」
「……本当、です。……この原稿、……文字を、……一文字ずつ、……あなたの、……血液に、……混ぜて、……書き直しました。……読めば、……あなたは、……私の、……文字から……逃げられなく、……なる……」
小鞠の言葉は、以前のような「内気な少女の独り言」ではなかった。それは、自らの才能を触媒にして、対象を永遠に固定しようとする「芸術家の呪詛」に近い響きを持っていた。
彼女は、僕が地元の大学へ進むことを知っている。そして、彼女自身もまた、その地にある文学部へ進み、書くことで僕を包囲し続けるつもりなのだ。
「……小鞠。君の物語は、いつ完結するんだ?」
「……完結、……させません。……あなたが、……私を、……卒業、しようとする……たびに、……私は、……新しい、……地獄を、……書き足します。……死ぬまで、……いえ、……死んでも、……書き続け……ます」
彼女が僕の影をそっと踏んだ。 図書室の窓から差し込む冬の淡い光の中で、彼女の影と僕の影が、文字の羅列のように絡み合っていく。
「……和彦さん。……あなたは、……私の、……最高傑作、……ですから。……他の、……誰にも、……一文だって、……汚させません」
小鞠は、僕のコートのポケットに、小さな、けれどずっしりと重い栞を滑り込ませた。そこには、彼女の指紋とともに、「未完」という二文字が刻印されていた。
それは、僕の人生の主導権を、彼女のインク瓶の中に沈めるという宣言だった。 彼女の描く物語の中で、僕はいつの間にか永遠の囚人になっていた。 文字という名の鎖。愛という名の重力。 逃げ場のない執念が、彼女の小さな体から溢れ出し、僕の魂の最深部をじわりと侵食していく。
「……やれやれ。僕はいつの間にか、君の原稿用紙の上に住むことになったらしいな」
「……光栄、……に、……思って……ください。……あなたは、……世界で、……一番、……愛されている、……文字、……なんですから」
小鞠は、微かに、本当に微かに微笑んだ。その笑みは、救済のようでもあり、奈落への招待のようでもあった。
僕は、渡された原稿を丁寧に畳み、胸のポケットにしまった。 心臓の鼓動が、彼女の紡いだ言葉のリズムと同調していくのを感じる。 僕たちは、まだ卒業さえしていない。 それなのに、彼女の筆先は、すでに僕たちの「老後」のその先までを、逃れられない運命として書き換えてしまっていた。
外では、冷たい風が枯れ葉を舞い上げている。 図書室の静寂の中で、僕と小鞠の間には、言葉にならない「契約」が、黒いインクの匂いとともに沈殿していった。




