夜風と炭酸。あるいは、立ち止まらないことだけを選び続けた結果について
夜更けの街は、昼間よりも正直だ。
信号の切り替わる音も、遠くを走る車のエンジンも、必要な分だけしか主張しない。
僕は歩いていた。
目的地はある。けれど、急ぐ理由はもうなかった。
歩道橋の上で足を止める。
フェンス越しに見下ろす車列は、どれも行き先が決まっているように見える。
それが羨ましいのか、安心なのか、判断がつかない。
――考えすぎだ。
そう言い聞かせる癖は、昔から変わらない。
変わったのは、その言葉が効かなくなったことだけだ。
ポケットの中で、スマートフォンが震える。
通知。短い振動。
画面を見る前に、誰からかは分かってしまう。
「……後で、返そう」
独り言は、風にさらわれる。
返事をしないという選択も、返事の一つだと知っているのに、まだ割り切れない。
歩き出すと、靴底が小さな水たまりを踏んだ。
ぱしゃり、と間の抜けた音。
その拍子に、張り詰めていたものが少しだけ緩む。
――完璧な判断なんて、最初からなかった。
思い返せば、これまでの選択もそうだった。
正解を選んだ記憶はない。
ただ、「今はそれしかできなかった」という連続が、ここまで連れてきただけだ。
駅前の自販機の前で立ち止まる。
何を飲みたいか、すぐに決められない。
こんな些細なことでも、今日は迷ってしまう。
結局、無難なものを選ぶ。
硬貨が落ちる音。
ガコン、という機械的な反応が、妙に心地いい。
缶を開けると、炭酸が弾けた。
その音で、ようやく今が“現在”だと実感する。
「……はあ」
息を吐く。
誰に聞かせるでもない、短い溜息。
頭の中では、言葉にならない思考が渦を巻いている。
もし、あの時。
もし、違う言い方をしていたら。
もし、立ち止まっていたら。
けれど、その「もし」は、もうどれも現在形じゃない。
歩道橋を降りると、信号が青に変わる。
人の流れに混ざる。
肩が触れ、誰かが小さく「すみません」と言う。
「あ、いえ」
反射的に返した声は、思ったより普通だった。
少なくとも、壊れてはいない。
――まだ、進める。
そう思えたのは、楽観でも希望でもない。
ただ、立ち止まり続ける理由が、少しずつ減ってきただけだ。
ポケットの中のスマートフォンが、もう一度震える。
今度は、取り出す。
画面を見て、短く息を吸う。
すぐには返さない。
けれど、無視もしない。
それが今の、自分なりのバランスだった。
夜風が、少し冷たい。
缶の中身は、もう半分も残っていない。
それでも、歩き続ける。
重さを抱えたままでも、前に進めることを、
ようやく身体が理解し始めていた。




