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鉄の規律、あるいは未来を法的管理しようとする少女の執着について

「西野。あなたの人生設計における『論理的妥当性』の欠如は、私の厳密な人生管理記録に対する著しい怠慢よ。……正直に言いなさい。あなたは、私の監視の目が届かない場所で、その魂を野放図に腐敗させるつもりなの?」


放課後の薄暗い廊下。一ノ瀬佳樹が、僕の進路希望調査票のコピー(一体どこで手に入れたのか、追求する気力さえ失せていたが)を、まるで重大な犯罪証拠でも検分するかのような鋭い目つきで突きつけてきた。


彼女はすでに、都内最難関の国立大学法学部への進学をほぼ確定させている。学内でも「歩く法典」と恐れられる彼女にとって、未来とは不確かなものではなく、緻密な契約と計算によって構築されるべき「建築物」なのだ。


「一ノ瀬、お前は東京へ行くんだろ。僕が地元の大学に残ることに、何の不都合がある。むしろ、物理的な距離ができることで、僕のプライバシー権がようやく憲法レベルで保証されるようになるんじゃないか?」


僕、西野和彦は、精一杯の皮肉を込めて答えた。だが、佳樹の冷徹な瞳は微動だにしない。むしろ、その奥に潜む「支配欲」という名の黒い炎が、さらに勢いを増したように見えた。


「プライバシー? ……笑わせないで。西野、あなたは理解していないようね。私にとって、あなたの存在を完全に管理下に置くことは、もはや個人的な欲求ではなく、私のレゾンデートル――存在理由そのものなのよ。あなたが私の法的包囲網を脱し、他者の影響下で不純な変容を遂げることは、私の正義が敗北することを意味するわ」


「重いよ、一ノ瀬。正義の定義を僕の個人生活にまで拡張するな。……だいたい、お前は法曹界の頂点に立つ人間だろ。一学生の動向に構っている暇なんてないはずだ」


「頂点に立つからこそ、その足元にある『唯一の不確定要素』を放置するわけにはいかないの」


佳樹は一歩、僕との距離を詰めた。 彼女が纏う冬の冷気を孕んだ空気と、ほのかに香る石鹸の匂いが、僕の思考を麻痺させる。彼女は僕のワイシャツの襟元がわずかに歪んでいるのを見逃さず、細く冷たい指先でそれを直した。その動作は、まるで「お前は私の所有物だ」と刻印を押す儀式のようだった。


「西野、提案……いえ、通告よ。あなたが地元の大学に残るというのなら、私は卒業までに、あなたの向こう50年間の行動指針を規定した『包括的生涯管理契約書』を作成するわ。……あなたが誰と会い、何を学び、何時に眠るか。そのすべてに、私の承認が必要になる。……どう? 自由を奪われる恐怖と、私にすべてを委ねる安堵。どちらが勝るかしら?」


「……後者を選ぶ人間は、おそらく相当なマゾヒストだけだろうな」


「あら、残念。私はあなたがその『少数派』であることを確信しているのだけれど」


佳樹は、勝ち誇ったような、けれどどこか酷く寂しげな微笑を浮かべた。 彼女の独占欲は、今や現世の法律を飛び越え、運命という名の概念さえも「法的定義」の中に閉じ込めようとしている。


「一ノ瀬……お前、たまに怖いくらい本気に見える時があるぞ」


「たまに? ……不愉快ね。私は常に本気よ。あなたが私の隣で『やれやれ』と溜息をつき続け、私がそれを『不敬罪』として断罪し続ける。……この完璧な循環を終わらせる権利は、神にさえ与えないわ」


彼女の指先が、僕の喉仏のあたりで止まる。 その微かな震えが、強気な言葉の裏に隠された「置いていかれることへの恐怖」であることを、僕は知っていた。彼女は、法という冷徹な武器を鎧にして、自分自身の脆い情念を守っているのだ。


「……分かったよ。契約書の草案ができたら見せてくれ。……ただし、睡眠時間の項目に『佳樹の説教による強制的な削り取り』が含まれているなら、僕は即座に違憲判決を下すからな」


「……ふん。修正の余地くらいは残してあげるわ。……感謝しなさい」


佳樹はそう言い捨てて、凛とした足取りで去っていった。 だが、その背中は、夕暮れの廊下でどこか揺れているように見えた。


僕は、壁に背を預け、大きく息を吐いた。 杏菜の「慈しみ」とも、檸檬の「熱情」とも違う、佳樹の「統治」という名の愛。 それは鋼のように冷たく、けれど一度捕らえられたら二度と逃げ出せない、甘美な牢獄のようでもあった。


結局、僕たちはいつまでも、この「負け」の定義を更新し続けるしかないらしい。 カラスの鳴き声が、校舎の屋上に響き渡る。 僕の進路調査票は、佳樹の手によっていつの間にか、彼女の願書と一緒にクリアファイルに収められていた。

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