表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

69/82

秋の残照、あるいはタイムカプセルに封じ込めた「永遠」の予感について

玄関の鍵を回す音が、思っていたよりも大きく響いた。

外はまだ明るい。けれど、その光がこの部屋に届く前に、何かが一つ、確実に終わった気がした。


靴を脱ぎ、廊下を進む。

いつもと同じ動線。いつもと同じ床の軋み。

それなのに、今日は一歩ごとに、足裏の感覚がずれていく。


――本当に、ここでよかったのか。


そんな問いが浮かぶ。

けれど、答えを探すほどの熱量は、もう残っていなかった。


リビングでは、テレビがついている。

内容は頭に入らない。

音だけが、現実に縫い止めるための錘みたいにそこにあった。


「……おかえり」


声がして、振り向く。

いつもの距離。いつもの調子。

その“いつも”が、今日はやけに遠い。


「ただいま」


それだけ言って、鞄を置く。

本当は、何か別の言葉が必要だったのかもしれない。

けれど、その候補が、どれも現実に適さないことだけは分かった。


沈黙。

少し遅れて、冷蔵庫の開く音。


――この時間が、どれくらい続いていたのだろう。


頭のどこかで、今日が「節目」だと分かっている。

だからといって、劇的なことが起きるわけでもない。

ただ、今まで許されていた“曖昧さ”が、許されなくなるだけだ。


テーブルに置かれたコップに、氷が落ちる音。

その一つ一つが、やけに鮮明に聞こえる。


「……ねえ」


呼ばれて、少しだけ間が空く。

すぐに返事をしなかったのは、聞こえなかったからじゃない。

どう返すべきか、判断がつかなかったからだ。


「うん」


短く答える。

その声が、自分でも驚くほど落ち着いていて、逆に不安になる。


「最近さ……」


言葉が続かない。

続きを促すような沈黙が、自然にそこに生まれる。


この瞬間、選択肢はいくつもあった。

冗談で流すこともできた。

話題を変えることもできた。

あるいは、今日はやめておこう、と先延ばしにすることも。


――けれど。


そのどれもが、今の自分にはしっくりこなかった。


「……分かってる」


口をついて出た言葉に、自分が一番驚く。

まだ、何も言われていないのに。


相手が息を飲む気配が伝わる。

それだけで、十分だった。


「多分、もう……前みたいには戻れない」


断定ではない。

宣言でもない。

ただ、逃げ道を一つ、静かに閉じただけの言葉。


沈黙が、少しだけ重くなる。

それでも、さっきまでとは違って、耐えられないほどではなかった。


――これでいい。


そう思った瞬間、胸の奥で、何かが小さく軋む。

後悔なのか、安堵なのかは分からない。


ただ一つ確かなのは、

今日という日が、これから先の流れを変える“初速”になった、ということだけだった。


派手な出来事は何もない。

けれど、確実に、戻れないラインを越えた。


その自覚だけを抱えたまま、

僕はもう一度、コップに残った氷が溶けていくのを眺めていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ