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青のプロローグ、あるいは僕らが永遠に卒業できない理由について

時間は残酷だ。

けれど、時として時間は、あまりに鮮やかな「静止画」を僕たちの脳裏に焼き付けていく。

僕、西野和彦は、もはや人生のロスタイムに突入したような、けれど不思議と晴れやかな気分のまま、いつもの場所にいた。


そこは、あの屋上でも、海辺でもない。

僕たちが歩んできた、何気ない日常のすべてが重なる、僕と彼女の「家」だ。


「……ねえ、和彦くん。さっきね、タイムカプセルの話を思い出してたんだ。……私たち、結局あの頃に書いたこと、全部叶えちゃった気がするね」


隣で羽賀杏菜が、少しだけ震える手で僕のコーヒーを淹れてくれる。

2040年代も深まり、窓の外には僕たちが想像もしなかった高度な都市風景が広がっているけれど、この部屋の中に流れる空気だけは、あの夏の放課後のように、停滞し、熟成され、甘酸っぱい匂いを放っていた。


「……杏菜。全部ではない。……僕は確か、将来はもっと静かで論理的な生活を送ると書いたはずだ。……現状は、論理とは真逆の『四方向からの情念による包囲網』に晒され続けているんだが」


「ふふ、それは和彦くんの徳が高いからだよ。……みんな、和彦くんのこと、手放す気なんて最初からないんだもん」


杏菜が僕の隣に腰を下ろす。

17歳。18歳。20歳。30歳。

僕たちは、その時々で「今が最高だ」と思って生きてきた。けれど、こうして長い年月を経て振り返ってみれば、最高だったのはその「点」ではなく、僕たちが繋いできた「線」そのものだったのだ。


「西野。過去の回想に耽るのは、脳の老化を加速させるわ。……杏菜、あなたの淹れたコーヒーは、私の査定では抽出時間が3秒長すぎるわね。私の持ってきた『2040年度版・西野和彦のQOL(生活の質)維持に関する合意書』を確認しなさい」


チャイムを鳴らさないことに関しては、もはや神の領域に達した一ノ瀬佳樹が現れた。

彼女は法曹界の生ける伝説として教科書に載る身でありながら、僕の健康診断の結果一つで一喜一憂し、僕の家庭の「法的秩序」を守ることに余生を捧げている。

佳樹の独占欲は、今や「家族という概念の法的再定義」を掲げ、僕の人生の最終盤までを完璧に管理下に置いていた。


「一ノ瀬……お前、自分の名前を冠した大学の特別講義はどうしたんだよ」

「あなたの生活環境を最適化すること以上に、私が教壇で語るべき価値のある真理など存在しないわ。……ほら、和彦。あなたの肩が少し凝っているようね。私が10代の頃から研究し続けた『西野和彦専用マッサージ・プロトコル』を執行するから、大人しくしていなさい」


佳樹の指先が、僕の肩に触れる。それは冷たく、けれど僕の人生を支え続けてきた、確かな信頼の重みだった。


「わはは! 佳樹、まだそんなこと言ってるのか! ほら和彦、杏菜! 今年もあの海に行く準備はできてるか! 私が特注の『自動運転機能付き・冷房完備ビーチサイド・チェア』を五人分用意したぞ!」


窓の外から、今やスポーツ界の至宝を超えて「国民の元気の源」となった和久井檸檬が、パワフルな声量で乱入してきた。

彼女は年齢という概念を筋肉と根性でねじ伏せ、僕たちが「老い」という言葉を口にする隙さえ与えない。

檸檬は僕の肩をバシッと叩くと、夕陽に照らされた瞳で、愛おしそうに僕たちを見つめた。


「和彦。お前がどんなに『やれやれ』って言ってもさ、私はお前を絶対一人にしないぞ。……私たちがいたから、お前の人生、退屈しなかったろ?」


檸檬の明るい笑い声。それは、僕が迷いそうになるたびに進むべき道を照らしてくれた、僕たちのチームの「灯台」だった。


「……和彦、さん。……これ、物語の……真の、終止符……です。……嘘です、ただの、私の……白紙の……原稿用紙、です。……ここに、私たちが……これから過ごす、時間を……一文字ずつ、私の、血……じゃなくて、愛で……綴っていきますから」


本棚の影から、文学界の至高の座に君臨する柏木小鞠が現れて、真っ白な原稿用紙を差し出してきた。

彼女の瞳には、かつて図書館の片隅で僕を捕らえたあの頃と同じ、深くて、重くて、どこまでも美しい執着が宿っている。

小鞠が僕の影をそっと踏むと、僕は自分が一人ではないことを、魂の奥底で再確認する。


やれやれ。

結局、僕たちはいつもの五人で、夕暮れの空を眺めていた。

杏菜が僕のコーヒーを奪い、佳樹が僕の脈拍をチェックし、檸檬が僕の背中を叩き、小鞠が僕の背後に寄り添う。


空は、あの夏の日と同じ、不必要に高い青色。

「どうせ、恋してしまうんだ。」

その言葉は、何十年経っても僕たちの合言葉だ。


負けヒロインが多すぎる。

そんな騒がしい日常に、僕は一生をかけて敗北し続けた。

そしてその敗北こそが、僕の人生における、たった一つの誇らしい勝利だったのだ。


「……どうせ、どこまで行っても、僕は君たちに、恋でもなんでもしてしまうんだろうな」


本日、人生という名の長い放課後の、そのまたさらに先にある「現在地」で零れた、最大級の敗北宣言。

僕は、四人の少女たちの重すぎる情念と、隣で微笑む彼女の温度を噛み締めながら、ただ深く、深く、幸せな溜息をついた。


物語は終わらない。

それは、僕たち五人がこの世界に刻んだ、消えることのない「青」の記憶。


僕は、自分を縛り付ける四つの視線と体温を、夕闇の中に溶け込ませながら、最後にもう一度だけ、優しく目を閉じた。

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