第四話 祭りの前の日
翌朝、店の裏から火薬樽が消え始めた。
焼き上がったパンを棚に並べ終えて裏口を開けると、トマが酒屋の主人と二人がかりで、黒い焼き印の樽を荷車へ積んでいるところだった。
「……何をしているんですか」
「防火点検」
「パン屋が?」
「祭りの前だからな」
「誰の指示です」
「俺」
「パン屋が?」
「……」
「なんですか」
「二回言うな」
樽を押しながら、酒屋の主人が笑った。
「こいつ昔は軍にいたらしくてな。火薬を店の裏に置くなって、朝からうるさいんだよ」
「ここで燃えたら、あんたの酒も全部いくぞ。西の石倉なら壁が厚い」
「遠いんだよなあ」
「祭りが終わったら、俺が戻しに行く」
「なら、まあいいか」
話はそれで決まって、決まっていないのはシエルだけだった。
「どうして、急に」
「昨日、荷車が三台、こっちへ曲がるのを見た。祭りだからって、店の近くに置きすぎだ」
樽を荷台に押し上げながら、トマはシエルと目を合わせた。
「……そうですか」
「ああ」
それ以上、トマは何も言わなかった。
シエルは荷車を見送ってから、窯の前へ戻った。
午前のうちに酒屋の樽が三つ消え、昼には花火屋の予備の火薬が、午後には角の倉庫に積まれていた発火剤が、それぞれ西の石倉へ運ばれていった。
トマはどこへ行っても、防火点検だ、の一点張りで押し通した。
祭りの直前にか、と訊かれれば、だから今やるんだと返し、王都の許可はと訊かれれば、火事になってから取るのかと返す。
相手が面倒になって折れるまで、同じことを繰り返す。
軍にいた頃は物を一つ動かすにも命令書が必要だったが、パン屋になった今は、面倒な近所の男になれば済んだ。
店の中からシエルはそれを見ていた。
酒屋、花火屋、角の倉庫。
店を真ん中にした円の内側から、火薬が一つずつ消えていく。
偶然ではない。
ではなぜ、と考えたところで、店の扉が開いた。
「シエル姉ちゃん! 父ちゃんがね、祭りの日はここで見ようって!」
「……そうですか」
「パンも買う!」
「お金は」
「父ちゃんが払う!」
「では、売ります」
「けち!」
「店員ですので」
いつもと同じやり取りをしながら、シエルは窓の外を見ていた。
最後の樽を積んだ荷車を、トマが押している。
西の石倉までなら、二百歩はとうに越える。
「……どうして」
「なにが?」
「いえ」
ピノには、答えなかった。
夕方、シエルは窯の前で火を見ていた。
火なら、薪をどう組めば、風をどう通せば、灰をどれだけ残せばどうなるか、全部に答えがある。
トマが何を知っていて、どこまで知っているのかには、答えがなかった。
「祭りの日の夜まで、薪はもつか」
奥から声がして、シエルは振り返った。
「……お店を、開けるんですか」
「言っただろ」
「危険です」
「またそれか」
「はい」
「お前、祭りの日は休みたいのか」
返事が止まった。
「休むなら、休んでいいぞ。一人でも回せる」
「でも」
「逃げるなら、今のうちだぞ」
薪を持つシエルの指が止まった。
「……何から、ですか」
「祭りから。人が多いし、危ないんだろ」
トマは粉袋を積み直しながら、棚の高さを揃えている。
いつもと同じ顔だった。
「トマさんは逃げないんですか」
「店がある。明日の生地もある」
シエルは目を伏せた。
「……つまらない人ですね」
「それ、前にも聞いた」
「今日もです」
トマは粉袋を積む手を止めた。
「シエル。祭りの夜、何が起きる?」
シエルの口が、開いた。
何か言いかけたその瞬間、左腕を押さえて体を折った。
袖の下から、赤い光が滲んでいる。
「……言えません」
息が、浅かった。
「言えない、のか。言わない、じゃなくて」
「……はい」
赤い光は、少しずつ引いていった。
トマはそれ以上、訊かなかった。
訊けばまた光る。
それだけは分かった。
夜、通信石が赤く灯った。
『報告せよ』
「観測値を修正しました。風向きが変わっています」
『着弾への影響は』
「許容範囲内です」
嘘ではなかった。
どこまでを許すのかは、向こうに訊かれなかった。
『現地の火薬配置に変更がある』
シエルの目が上がった。
『観測地点周辺の仮置き場が、移されている。現地の防火措置だそうだ』
石を握る指に、力が入った。
『問題はない。第三射の着弾点を、残っている火薬へ寄せろ』
机の地図に目をやる。
残っているのは、兵舎の弾薬庫だけだった。
店から、二百歩のぎりぎり内側。
『聞こえたか』
「……はい」
『修正せよ』
「了解」
『失敗すれば処分する。次の花火師は、もう用意してある』
赤い光が消えた。
四日目には、お前も役に立つかもしれないだろ。
帳場で言われた声が、耳の奥に残った。
シエルはしばらく動かなかった。
それから観測表を開き、炭筆を手に取った。
祭りの前日、トマは店を開ける前に騎士団の詰所を訪ねた。
「帰れ」
入口で顔を合わせるなり、アルドが言った。
「まだ何も言ってない」
「お前が朝から来る時は、ろくな話じゃない」
「兵舎の弾薬庫を動かしてくれ」
「ほらな」
アルドが額を押さえた。
「祭りの前日に弾薬庫を動かせと言われて、はいと答える勇者がいると思うか」
トマは答えずに、昨夜描いた地図を机に広げた。
店を真ん中にした円が一つ、その内側に印がいくつか、ほとんどに線が引いてあって、残っているのは兵舎の一つだけだった。
「この中から、火薬を消したい」
「理由は」
「敵の観測器を見つけた。祭りの夜、王都に砲撃が来る」
アルドの顔から、笑いが消えた。
「……持ち主は」
「まだ言えない」
「言えない、か」
「本人は言えないんだ。言おうとすると、腕の印が焼ける。問い詰めれば、その場で火がつくかもしれない」
「なら、本人を押さえるか」
「観測を止めたら、向こうは最初の座標のまま撃ってくるかもしれない。空へ逃がす手まで、一緒に消える」
それ以上、アルドは訊かなかった。
地図の真ん中に描かれた小さな四角を、しばらく黙って見ていた。
必要なものを先に全部揃えておいて、理由は最後にしか言わない。
遠征の頃から、こいつはそうだった。
「……このあいだのパン」
アルドが、地図から目を上げずに言った。
「遠征の朝のパン、お前が焼いてたって、知らずに食ってた。補給係はもういらないなんて言えたのは、何を支えてもらってたか、見てなかったからだ」
トマは、何も言わなかった。
「今度は、補給の専門家として決めろ。俺は動かす」
トマは地図の上に指を置いた。
「弾薬庫は、二百歩の外まで出す。兵舎側の通りには、祭りの夜は人を入れない。
店の前の通りも封鎖して、客は向かいの水場の、防火壁の向こう側まで下げる。あの壁は古いが厚い」
「広場は」
「客を、壇から三百歩の外まで下げてくれ」
「凱旋祭の警備の頭は俺だ。王族の警護だと言えば俺の裁量で通る。空いたところは、幻影で埋めさせる」
「退路も先に閉じる。何か落ちても、そこに誰もいないように」
トマは、地図の端の城壁を指で叩いた。
「城外にも騎兵を伏せておいてくれ。最初の一発で方角が割れたら、砲座を押さえる」
アルドが、短く頷いた。
「障壁は」
「何枚張れる」
「宮廷の魔術師を全部並べて、三枚。砲弾なら、一枚で一発がやっとだ。直撃と破片は止められるが、爆風までは殺せない。落ちれば、広場の店は何軒か潰れるぞ」
「人が残れば、店は建て直せる」
「……お前が言うと重いな」
「砲撃で狙うなら、壇と、退路と、火薬だ。三か所に一枚ずつ張ってくれ。一発で終わるとは限らない」
「壇は」
「お前の鎧は、訓練用の人形に着せて立たせておけ。遠目に動いて見えるように、幻影を重ねてな。お前は外から見てろ」
「……凱旋祭の主役だぞ、俺は」
「生きてれば来年もやる」
アルドは長く息を吐いて、地図を丸めた。
「昼までに正式な命令にする。凱旋祭に伴う、警備配置の変更だ。防火壁の向こう側には避難の術式も敷かせる。そのかわり、あとで全部話せ」
「話せたらな」
それで昔のことが全部なくなるわけではなかったし、なくならなくていいとトマは思った。
その日の午後、兵が列になって、兵舎の弾薬庫から木箱を運び出していった。
店先からシエルはそれを見ていた。
箱は店から離れていき、二百歩を越えて、さらに遠くへ運ばれていく。
軍の命令で、軍が動いている。
パン屋の防火点検ではもう説明がつかない。
「……どうして」
「何がだ」
すぐ後ろに、トマが立っていた。
「いえ」
「そうか」
それだけで、トマは店の奥へ戻っていった。
凱旋祭の朝は、いつもと同じに始まった。
朝四時に窯を起こし、生地を入れて、焼いて、棚に並べる。
違ったのは、窯の横にいつもはない水桶が二つ並んでいたことだった。
桶の脇には、軍で使う厚い防火布が畳んで置いてある。
窯のまわりに積んであった小麦袋と薪は倉庫へ移されていて、煙道の差し板には、いつの間にか油が差してあった。
「何ですか、これ」
「防火点検」
「まだ続いているんですか」
「祭りが終わるまでな」
シエルは差し板に指を掛けてみた。
前は両手でないと動かなかった板が、指一本で滑った。
ピノが来て、客が来て、通りには祭りの旗が一枚ずつ増えていく。
昼には王都じゅうが浮かれていて、夕方、遠くで鐘が鳴ると、中央広場へ向かう人の流れが太くなった。
ピノが父親の手を引いて、通りの向こうの水場の、石造りの防火壁の向こう側に陣取った。
「シエル姉ちゃん、来たよ!」
「知っています」
パンを包む手は止まらなかったが、日が傾くにつれて、シエルの口数は減っていった。
閉店の札を返す前に、シエルは紅茶を淹れた。
「珍しいな。お前が淹れるのは」
「店員ですので」
トマはカップを受け取って口をつけ、熱いな、とだけ言った。
少しして、帳場に頬杖をついたまま動かなくなった。
シエルは、その肩に自分の上着を掛けた。
それから二階へ上がった。
本来の計画どおりなら、数分後、この店は周りの火薬ごと吹き飛ぶ。
二階の窓辺で、シエルは最後の座標を打ち込んだ。
王都中央広場まで、八百四十二歩。
風は北東、高度の補正は二。
観測表には、そう書いてある。
その欄の下には、砲弾を空へ逃がすための数字が並んでいる。
窓の向こうでは、勇者凱旋祭の花火が上がり始めていて、赤い光が咲くたびに、少し遅れて腹の底へ音が届く。
紅茶に混ぜた睡眠薬は効いたらしい。
階下からは、もう物音ひとつしなかった。
通りの向こうの水場で、ピノが父親の肩の上から空を指さしている。
『観測点、応答せよ』
「こちら花火師。観測準備、完了」
『第一射まで、三分』
シエルは目を閉じなかった。
広場のずっと向こう、城壁の外の暗がりで、白い光が走った。
火球が一つ、夜空を登ってくる。
群衆が歓声を上げた。
祭りの追加の花火だと思ったのだ。
火球は広場の上へ届く前に、ずっと高い空で割れた。
白い火が、空いっぱいに広がる。
『照準が高い。観測点、確認せよ』
「風です。上空で北東に強く流れています」
『第二射、修正値で撃つ』
シエルは数字を送った。
二つ目の火球も、広場のはるか上で、さっきより大きく咲いた。
歓声が、さらに大きくなった。
『観測点。第二射も高い』
「上空の風です」
『違う』
向こうの声が、初めて低くなった。
『送られてくる補正が大きすぎる。第三射は弾薬庫への誘導を中止し、第一目標の壇上へ向ける。現地補正は破棄。第一射の初期値を入力しろ』
シエルの指が止まった。
観測表のいちばん上に、最初に書いた数字が残っている。
高度、二。
距離、七。
第一目標の壇へ落とすための、正しい数字だった。
それを送れば、三つ目の火球は広場へ落ちる。
シエルの目には、壇に立つ勇者の姿も、その周りを埋める人の影も、はっきりと見えていた。
三つ目の砲弾は、もう城壁外の砲座を離れていた。
発射されたあとで軌道と炸裂の高さを書き換えられるのは、砲弾と対になったこの観測石だけだった。
『観測点。入力せよ』
「シエル姉ちゃん! 次のまだー?」
通りの向こうから声がした。
父親の肩の上で、ピノが空を見上げている。
正しい数字なら、ずっと分かっていた。
それ以外の選び方を、知らなかった。
『観測点』
炭筆の先を、二、の上に一度だけ置いた。
三日前の夜、屋根の上で訊かれたことを思い出す。
全部捨てて、どこへ行く。
どこでも、と答えた。
シエルは煙突を見た。
それから、炭筆を動かした。
「高度補正、六。距離補正、十一」
向こうが、一瞬だけ黙った。
『その値では高すぎる。再確認しろ』
「確認しました」
『命令だ。初期値へ戻せ。花火師、復唱せよ』
シエルは通信石を口元へ寄せた。
「了解」
少しだけ、間を置いた。
「観測値、変更ありません」
三つ目の火球は、どれよりも高い空で爆ぜた。
白い火がゆっくりと夜空を降りてきて、地面に届く前に消えていく。
地上では、何も起きなかった。
酒屋の地下も、角の倉庫も、兵舎も、この店も、どこも燃えなかった。
『観測点、応答せよ。観測点』
シエルは通信石を窓枠に置き、息を一つ吐いた。
背後で、床板が鳴った。
「軍の睡眠薬は、苦いんだ」
振り返ると、自分の上着を腕に掛けたトマが、階段の上に立っていた。
「紅茶くらいじゃ、隠れない。一口目で分かったから、あとは飲むふりをして、袖口に吸わせた」
トマのシャツの袖口は、手首のところまで茶色く濡れていた。
シエルは何か言おうとして、口を開け、閉じた。
もう一度開いて出てきたのは、ずっと胸の底にあった一文だった。
「……今日、あなたを殺す予定でした」
「予定は変わったみたいだな」
窓枠の上で、通信石が赤く光った。
『花火師。観測値の改竄を確認した』
シエルの左腕で、袖の下の痕が熱を持った。
円と、その周りの短い線が、布越しにも分かるほど赤く灯り始めていた。




