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勇者を殺すために潜入した魔族の少女が、なぜか俺のパン屋で毎朝働いている  作者: 臥裳斗真


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3/5

第三話 どこでも

「祭りの日は、お店を休んでください」


 朝四時、窯に薪を一本足しながら、シエルは昨夜から考えていたことを口にした。


「嫌だ」


「まだ理由を言っていません」


「祭りの日に店を休めって話だろ。なら嫌だ」


 トマは生地を丸める手を止めなかった。


「人が多くなります」


「だから売れる」


「普段より、危険です」


「祭りだからな」


「そういう意味ではありません」


 そこで初めて、トマが顔を上げた。

 シエルは窯の火へ目を戻し、右奥へ寄りかけた熱を、薪一本ぶんだけ左へ逃がした。

 手はいつもどおりに動いている。


「どういう意味だ」


「……人が増えれば、事故も増えます」


「ずいぶん心配性になったな」


「店員ですので」


「便利だな、それ」


 薪を組み直そうと腕を伸ばしたとき、袖がずり上がって、肘の少し上に黒いものが覗いた。

 煤だろう、とトマは思った。

 窯番をしていれば、腕なんてすぐ黒くなる。


「シエル。祭りの日、何かあるのか」


 火箸を持つ手が止まった。


「何か、とは」


「今、止まった」


「火箸が?」


「お前が」


「気のせいです」


「嘘、下手だな」


 シエルは薪を一本、奥へ押し込んだ。


「トマさんに言われたくありません」


「俺が何か嘘ついたか」


「勇者様のお話をするときだけ、小麦粉を量り直します」


 トマは手元を見た。

 秤の上には、とっくに量り終えたはずの粉袋が載っている。


「……仕事だ」


「便利ですね」


「誰の真似だよ」


 粉袋が秤から下ろされて、それきりトマは何も訊いてこなかった。

 シエルは息を一つだけ吐いた。

 窯の中では、パンを焼くための火が静かに燃えている。



 昼前には、祭りの支度で通りが埋まり始めた。

 花輪を積んだ荷車や酒樽、屋台用の板を担いだ職人で、中央広場へ向かう人の流れはいつもの倍に膨らんでいる。

 粉屋から小麦袋を受け取っていたトマは、その向こうを通っていく荷車に目を留めた。

 樽に、黒い焼き印が押してある。

 祭りの花火なら火薬を使うのは当たり前だが、あの印は戦場で何度も見たものだった。

 軍用の黒色火薬。

 一台目が角を曲がり、二台目が続き、三台目が広場とは逆の、この店の裏手へ折れていく。


「祭りの花火って、あんなに火薬が要るのか」


「凱旋祭だぞ。王都中に見せるんだろ」


「そうか」


 返事をしながら、トマは小麦袋を肩に上げた。

 一袋で兵が二十人、三日。

 数えなくていいことを、今日は小麦以外のものまで数えている。



 午後、パンを並べ直していると、ピノが戸口から顔を出した。


「シエル姉ちゃん! 祭り、一緒に見る?」


「見ません。仕事があります」


「夜だよ?」


「仕事があります」


「パン屋って、夜もやるの?」


 シエルが言葉に詰まったところで、奥からトマが口を挟んだ。


「祭りの日は遅くまで開けるぞ」


「やった!」


 ピノは喜んだが、シエルは喜ばなかった。


「ピノ」


「なに?」


「祭りの日は、中央広場へ行かないでください」


「なんで? 父ちゃんと行くよ」


「行かないでください」


 思ったより強い声が出て、ピノが瞬きをした。

 トマも手を止めて振り返った。


「……シエル姉ちゃん?」


「人が、多いですから。花火なら、お店の前からでも見えます」


「ほんと? じゃあ、ここで見る!」


 簡単に決めて、ピノは駆けていった。

 シエルは止めなかった。

 ここにいれば安全だ、と言える理由はどこにもない。

 ここが、いちばん近い。

 正しい数字を送るつもりなら、ここへ呼べるはずがなかった。


「ずいぶん祭りが嫌いなんだな」


 後ろから声がした。


「人混みが苦手です」


「田舎じゃ、大きな祭りを見たことがないんじゃなかったか」


 この店に来た日についた嘘を、トマはまだ覚えていたらしい。


「見たことがないのと、好きなのとは別です」


「それもそうか」


 あっさり納得されて、シエルは少し困った。

 トマはしばらくこちらを見ていたが、それ以上は訊かなかった。



 閉店後、裏口の錠を下ろしていると、頭の上で瓦が鳴った。


「シエル」


 返事がない。


「いるだろ」


 屋根の端から、黒い頭がのぞいた。


「何ですか」


「何してる」


「月を見ています」


 トマが見上げた空は、薄く曇っていた。


「ないぞ」


「……雲を見ています」


「今、変えただろ」


「状況が変わりましたので」


 トマは梯子を立てかけた。


「上がってこなくて大丈夫です」


「そう言われると上がりたくなる」


「性格が悪いですね」


「今さらか」


 屋根に上がると、シエルは煙突の脇に膝を抱えて座っていた。

 そこからは、王城の西塔も鐘楼も、凱旋祭のために組まれた観覧席も、遮るものなく見渡せる。

 シエルの足もとの瓦には、粉を引いたような白い線が、等しい間を空けて何本か残っていた。

 曇った夜で、トマには目を凝らさないと見えないその線を、シエルは灯りもなしに、指先で迷わずなぞっていた。


「何だ、これ」


「小麦粉です。手に残っていました」


「ずいぶん真っすぐ残るんだな」


「偶然です」


 トマは指で一本こすって消し、ふうん、とだけ言って腰を下ろした。

 問い詰めはしなかった。

 シエルは膝の上で握っていた指をほどいて、瓦の粉を払った。

 そのとき、広場の向こうから細い火が一筋、夜空を登っていった。

 祭りの試射だった。

 赤い光が開いて、少し遅れて音が屋根を叩く。

 二発目は青だった。

 シエルの目は、もう色を見ていなかった。


 高度。

 風向き。

 破裂までの秒数。

 落ちる火の広がり。


 膝の上で、右手の指が小さく動く。

 一、二、三。

 少し短い。

 風が昨日より西へ寄っているから、高度を一つ上げて、距離は――。


「綺麗だな」


 横から言われて、指が止まった。


「……何がです?」


「花火」


 三発目が上がり、金色の火が空いっぱいに開いた。

 シエルには、その円の真ん中が見えたし、そこから落ちる火がどこまで届くかも、数字にすればすぐに出せた。


「綺麗だろ」


 もう一度言われた。

 シエルは金色の火を見た。

 数字ではないほうの見方で、少しだけ。


「……はい」


 遅れて届いた音が、瓦を震わせた。

 しばらく、二人とも黙っていた。


「なあ。全部捨ててどっか行くなら、どこがいい」


「急ですね」


「そうか?」


「お店を捨てるんですか」


「捨てない。たとえばだよ」


「トマさんは」


「行かない」


「では、質問の意味がありません」


「明日の生地、仕込んであるから」


 シエルは黙った。


「……それだけですか」


「明日の朝に焼くんだから、いるだろ」


「つまらない人ですね」


「そんなにか」


「はい」


「じゃあ、お前は」


 答えは決まっていた。

 場所に意味はない。

 命令があれば北へ行くし、南へも行くし、敵の国でも、死ぬための場所でも行く。


「どこでも」


「そうか」


 トマは、それだけ言った。

 シエルは空を見ていなかった。

 煤けた煉瓦の、縁が少し欠けた煙突を見ていた。

 朝四時になると、最初の煙はここから上がる。

 明日の生地は、もうこの下にある。



 屋根を下りると、トマは裏口へ回り、シエルは二階へ上がった。

 おやすみ、とはどちらも言わなかった。

 そういう習慣は、まだこの店になかった。

 シエルは部屋の鍵をかけ、机に観測表を広げた。

 昨日までに埋めた数字が並んでいる。


 第一射 勇者が壇上へ上がる刻限

 第二射 広場の退路

 第三射 東の火薬仮置き場


 炭筆を取って、第三射の高度補正を見る。

 二。

 正しい。

 正しいから、消した。

 三、と書き直す。

 この砲撃は、観測点が送った値で軌道を変え、指定された高さに届いたところで破裂する。

 数字一つで、火は地上にも空にも落とせる。

 紙の上ではほとんど違わないが、撃てば少しだけ上へ逸れる。

 それでは足りないので、距離補正の七も八に変えた。

 上官が見ても、風を読み直した修正にしか見えない程度の、小さな狂い。

 積み重ねれば、砲弾は広場に届く前に、その上の空で爆ぜる。

 机の隅に、通信石が置いてある。

 観測に誤差があったので修正した、と報告するなら、今だった。

 石を二度叩けば済む。

 シエルは叩かなかった。



 一階では、トマがいつもより遅れて窯の灰を掻き出していた。

 試射を見ていたぶん、閉店の片づけがずれている。

 灰を掻き出し終えたところで、煙の戻りがいつもより悪いことに気づいた。

 煙道の脇の点検板を外すと、煤が溜まるはずの隙間に、金属の角が一つ引っかかっていた。

 清掃用の空洞に隠したつもりだったのだろう。

 古い仕切り板が欠けていて、内側へずり落ちたらしかった。

 引き出してみると、掌より少し大きい金属の板だった。

 折り畳まれた照準板に、距離を刻んだ目盛りと、小さな方位盤がついている。

 見覚えがあった。

 戦場で何度か拾ったことがある、敵の観測兵が砲撃の着弾を決めるための道具だ。


「……なんで、これが」


 店の中にある理由は、一つしか思いつかなかった。

 思いつきたくなかっただけで。

 観測兵なら、撃たせるのが仕事だ。

 照準を送ったら、砲弾が届く前に姿を消せばいい。

 広場は危ないが、この店そのものが狙われるわけではない。

 そこまで考えて、手が止まった。

 朝、窯の前で袖の下に覗いた黒いものを思い出す。

 煤ではなかった。

 円と、その周りに伸びる短い線。

 東の戦線で、補給倉庫が一つ消えたことがある。

 火薬庫が吹き飛ぶのは珍しくもなかったが、あのときは焼け方が妙だった。

 中心からきれいに二百歩、そこまでは何もかもが焼けて、その外側では荷箱一つ焦げていなかった。

 円の中で形が残っていたのは、鍛冶場の炉が一つきりで、煙突の内側だけが真っ黒に焼けていた。

 調べに来た兵が、魔王軍の工作術だと言っていた。

 人間を火種にして、周りの火薬をまとめて起こす術だ、と。

 中心にいた工作員は、何も残らなかった。

 トマは金属板を持ったまま、しばらく動けなかった。

 あの腕の痕が、同じものなら。


「……二百歩」


 店からなら、どこまでだ。

 頭の中に、勝手に道が引かれていく。


 酒屋の地下。

 角の倉庫。

 花火屋の仮置き場。

 兵舎の弾薬庫。

 昼間、裏手へ折れていった三台の荷車。


 誰かに脅されて、祭りの夜に何かを運ばされている娘だと思っていた。

 店を休ませたがるのも、こちらを巻き込まないためだと。

 思いたかった、のほうが近い。


「……お前かよ」


 声は、自分で思ったより小さかった。

 怒るより先に、頭は別のことを数え始めていた。

 二百歩の内側に、火薬が多すぎる。

 トマは観測器を元の隙間へ戻し、点検板を同じ向きにはめ直した。

 見つけなかったことにする。

 それから紙を一枚出して、店を真ん中に円を描き、内側の火薬に一つずつ印をつけていった。

 運び出す理由は、あとで考えればいい。

 防火点検でも、祭りの決まりでも、なんでもいい。

 この円の中から、火薬が消えればそれでいい。

 壁一枚上では、シエルが空で爆ぜるための数字を書き換えていた。

 壁一枚下では、トマが爆ぜさせないための樽を数えていた。

 どちらも、相手には何も言わなかった。

 凱旋祭まで、あと三日。


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